優しい場所
知っているのは寒くて薄暗い、少し黴臭い家だけ。そこで得られる優しさは、母から与えられるものだけだった。
もうその優しさが与えられる事は無い。与えられていたのは、痛みと悲しさと惨めさだけ。
「お目覚めですか」
世話係だというメイドが、そっとカーテンを開きながらオリヴィアに声を掛ける。顔に降り注ぐ眩しい朝日に顔を顰めながら、オリヴィアはまだ痛む体をそっと起こした。
「おはようございます」
「はい、おはようございます。今朝のお加減は如何ですか?」
「大丈夫」
アンナという名前のメイドは、得体の知れない存在であるオリヴィアに優しく接してくれる。自分にもオリヴィアと同じくらいの年頃の娘がいるからと言っていたが、優しくしてくれる大人が近くにいなかったオリヴィアには、アンナとどう接すれば良いのか分からない。
「さあ、お着替えをしましょうか」
そう微笑むと、アンナはふわふわとした可愛らしいピンク色のワンピースを持ち上げる。
この城に来てから、オリヴィアはいつでも綺麗なワンピースを着せられていた。今迄来ていた服とも呼べない布切れとは比べ物にならない、手触りの良い上質な物。
「まだ傷が痛々しいわ。まだ痛みますか」
「…ちょっとだけ」
アンナは毎日傷の具合を確認しては、ルイスに報告しているようだ。朝食を済ませると、ルイスは朗らかに微笑みながらオリヴィアに会いに来る。
彼がどういう人なのか、ここが何処なのか何度も聞いた。自分が今どういう状況なのか分からないのが怖かったのだ。だが、教えてもらった話は世間を知らない無知な子供には難しかった。
「背中の痣は…大分良くなりましたね。あと二、三日かしら」
「…アンナさん。顔の包帯はいつ取れる?」
顔の右側を覆っている包帯に指先で触れながら、オリヴィアはぽつりと零す。ふとした時肌を撫でる感覚が気になって仕方が無い。むずむずと痒いような気がして、早く外したくて仕方なかった。
「お医者様から良いと言われるまでは外してはいけませんよ。きっともうすぐですから」
包帯を気にするオリヴィアの手をそっと退けながら、アンナは優しく言い聞かせる。
拾われてから一度も、にこりとも微笑まない子供に胸を痛めているメイドは、眉尻を下げながらうっすらと微笑んだ。
「さあ、お食事の時間ですよ。座ってください」
オリヴィアは与えられた部屋から出しては貰えない。この城はルイスのものらしいが、まだ傷も癒えない幼い子供をあまり動かしたくないとルイスは言った。
「持ってきますから、良い子で座っていてくださいね」
こくりと頷くと、オリヴィアは大人しく椅子に座って部屋を出て行ったアンナを待つ。
足が付かない程高い椅子。ぶらぶらと足を揺らし、退屈そうに窓の外を見た。
遠くに広がる森。きっとあそこが自分の家がある森なのだろう。その向こうには、きっと村がある。
保護されたこの城は、村からは丘の上の城と呼ばれているらしかった。森の中の小屋で暮らしていたオリヴィアは、そう教わっても分かりはしなかったが。
この城はサヴィル伯爵であられる、ルイス・エズラ・フォスター様の城。お前のような薄汚い鼠が居て良い場所ではない。
そう言ったヘクターの言葉が忘れられない。伯爵とは何なのか分からない。偉い人という事は何となく分かった。それ以上に、自分が歓迎されていないという事だけは、痛いほど理解出来た。
「っ…」
ずきりと痛んだ右目。反射的に手で押さえた。医者が言うには、目尻の辺りが切れているとの事だった。あの粗末な家を逃げ出した日、力任せに顔を殴られた。恐らくその時に切れたのだろう。
目を開こうとすると酷く痛み、殆ど開く事が出来ない。眼球は無事らしいが、しっかりと打撲はしているらしかった。
早く取りたいような、このまま取らずにいたいような。どうしたら良いのか分からない。
この包帯の下に隠されている秘密を、優しくしてくれる人達に見られたら、どんな反応をされるだろう。
「お待たせ致しました。今日もテーブルマナーの練習をしましょうね」
ノックをしながら入って来たアンナが、カラカラとカートを押しながら笑う。
初日にスプーンで食べ散らかしたオリヴィアに、アンナはあんぐりと口を開けて呆れていた。そこから毎食、少しずつカトラリーに慣れるよう繰り返し何度も教えてくれるようになった。
この先生きて行くのに、優雅な所作で食事を摂れるようになっておいて困りはしないからと。
「どうしました?痛みますか」
右目を抑えて動かないオリヴィアに、アンナは心配そうな顔をしながら顔を覗き込む。優しい青の瞳。きっちりと纏められた金色の髪。なんて美しいのだろう。なんて優しい人なのだろう。この人に嫌われてしまうのが怖い。
ふるふると首を横に振り、深呼吸をしながらオリヴィアは無理に口角を上げた。
「おなかすいた」
「はい、ではお食事を」
カートからテーブルへ食事を並べ始めたアンナの背中を見つめながら、オリヴィアはぐっと唇を噛み締めた。
◆◆◆
昼食も終わった頃、城にいつもの医者が現れた。ルイスとヘクターと共にオリヴィアの部屋へ入って来た医者は、オリヴィアの傷を丁寧に確認し、必要があれば包帯を替えてくれた。
「まだ打撲は痛むでしょうが、命の危機は既に脱しているでしょう。今後も栄養のある食事を与え、適度な運動をさせれば同じ年頃の子供と同じようになれるかと」
「そうか。それは良かった」
安心したように微笑むルイスは、オリヴィアの頭をそっと撫でる。触れられる事にはまだ慣れないが、不思議とルイスの手は温かくて安心した。
「顔の傷はどうだ」
「拝見します」
ぎくりと体を強張らせるオリヴィアを気にする事もなく、医者は手際よく顔に巻かれた包帯を解いていく。はらりと落ちた包帯の下から現れたのは、黄色く変色した肌と、塞がりかけの傷だった。
「目を開いてご覧。もう開ける筈だ」
医者の言葉に、オリヴィアはぎゅっと目を閉じる。知られたくない。知られてしまったら、きっとあの家に戻される。元の生活に戻されてしまう。それが酷く恐ろしい。
「オリヴィア、開けるかい?」
優しく問いかけるルイスの声が怖い。開けないと首を横に振れば許してもらえるだろうか。だが、幼い頃母は言った。嘘を吐くのはいけない事だと。
「…驚いた」
ゆっくりと開かれた目は、血を零したかのように真っ赤だった。
家に閉じ込められていたのも、村人から蔑ろにされていたのも、体中に傷を負う程痛めつけられていたのも、全てこの瞳のせいだった。
悪魔の目は赤いから。赤い目を持って生まれて来たオリヴィアは、魔女と悪魔の間に生まれた悪魔の落とし子なのだと。
魔女は殺すが、悪魔やその子供を殺せば災いが起きる。だから殺されはしなかった。どうせなら、殺してくれれば良かったのに。
「…ごめんなさい」
「どうして謝るんだい?綺麗な色じゃないか」
にっこりと微笑むルイスに、オリヴィアは怯えた目を向ける。何故微笑んでもらえるのか分からない。誰もがこの目を気持ち悪い、不吉だと言ったのに。
「うん、傷も綺麗に治りそうだ。視力に問題は無いかな?」
これは見える?と問いながら、医者はオリヴィアの左目を隠しながら指を一本立てて見せた。
同じように人差し指を立てて見せれば、医者は満足げに笑って部屋の中をあちこち指差した。あれは何、これは何と問われるもの全てを答え、それが終わると医者は「問題なさそうだ」と笑った。
「殴らないの」
「どうして?折角傷が良くなってきたのに」
「だって…目が、赤いから」
「やあ諸君。君たちは白兎の目が赤いからといって殴るかい?」
何を言っているんだと笑いながら、ルイスは部屋にいる医者とヘクターに問う。二人は「いいえ」と首を横に振った。
「君の目が赤い事は、村長から既に聞いていたんだ。知っていてこの城に置いていた。今更殴る意味なんて無い。勿論、村に戻す事もしない」
「どうして」
「君は俺の獲物だって言っただろう?何故わざわざ獲物を森に帰すんだ」
へらりと笑うルイスに、オリヴィアはぼろぼろと涙を流す。ヘクターは不満げな顔をしているが、もうあの生活に戻らなくて良い。暫くはここに居られる。それだけで良かった。
「だが、一応右目は隠しておいた方が良さそうだ。眼帯を作らせよう。ヘクター、手配を」
「かしこまりました」
ぺこりと頭を下げ、ヘクターはまたすまし顔を作って立ち続ける。じろりとオリヴィアを睨みつけるのはいつもの事だが、今は何か言う気は無いようだ。
「そうだな、俺と揃いにしようか」
自分の眼帯を撫でながら、ルイスはにっこりと笑う。真っ黒な皮で出来たそれは、表面に片翼の鷲が縫い込まれている。幼い子供には重たいでしょうと苦笑する医者は、ついでだからとルイスの目も見る事にしたらしい。
その重苦しい眼帯を外せと言われたルイスの後ろに、ヘクターが回り込んで眼帯を外した。
現れたのは、眉毛から頬に向かって真直ぐに伸びる傷。ゆっくりと開かれた目は、酷く濁った白い目をしていた。
「子供の頃怪我をしてね。光と影くらいしか見えないんだ」
ルイスの顔を凝視するオリヴィアに、優しく説明しながらルイスは苦笑する。痛そうだと眉根を寄せれば、もう痛くはないと笑った。
「もう何年も前の傷なんだから…今更診なくても良いだろう」
「目の傷ではなく、眼帯で擦れた部分ですよ。もっと軽い物にするよう進言した筈ですが」
「気に入ってるんだ」
頬の辺りや額の一部等、眼帯が擦れる所は皮膚が擦れて赤くなっていた。所々皮が厚くなっているのか、僅かに変色している。
「包帯にするか、刺繍の無い物を」
「布をかませればマシか?」
「…全く、医者の言葉を少しは聞いていただきたいものですな」
呆れ顔の医者はそれ以上ルイスにとやかく言うつもりは無いらしい。擦り傷用に塗り薬出すとだけ言って、医者は荷物を纏めて立ち上がった。
「では、私はこれで失礼致します」
ぺこりと頭を下げ、オリヴィアの頭を撫でてさっさと歩き出す。部屋を出て行く医者について、ヘクターも一緒に出て行った。
残されたオリヴィアに、ルイスは優しく微笑む。
「正直に言おう。君の目は不吉だ。伝承は民にとって重要なものだからね」
「…お母さんは、私を生んだから殺されたの。でも私は殺されなかった。どうして、私も一緒に殺してくれなかったの」
ぽつりと「死にたい」と零す子供に、ルイスは切なげな顔を向けた。何も知らない幼い子供が言って良い言葉では無いのだから。
「悪魔を殺すと災いが起きる。悪魔の落とし子である君も、殺してしまえば我が子を殺された悪魔の怒りに触れる。だから殺すことは出来なかった。君の母上は人間だから殺されてしまったけれどね」
そっとオリヴィアの手を握りながら、ルイスは簡単に説明をする。きっと村人は何も説明せずに幼い子供に暴力を振るっていたのだろう。
何故母が死んだのか、何故自分が痛めつけられるのかきちんと理解する事も無いまま、日々を生きているというのは、どんな気分なのだろう。
知りたくもない。想像すらしたくない。自分が理由で愛する母は殺されてしまったのだから。
「父上は…一緒に暮らしていなかったんだね」
「私が赤ちゃんの時、狩りに行くって言って帰ってこなかったって」
「…そうか」
恐らくオリヴィアの父は逃げたのだろう。生まれたばかりの我が子の目の色を理由に。我が子と愛する妻を残して、自分だけ。
生きているのなら、今頃どんな顔をして生きているのだろう。少しでも、この幼い子供の事を想っているだろうか。思っていたのなら、最初から逃げたりはしないだろうが。
「お願い、何でもするからここに居させて。もう村に、あの家に戻りたくない!」
「さっき言っただろう?戻す気は無いよ。それに、申し訳ないがその目では他所にやっても同じ事になるだろう。それなら、この城で生活すると良い」
「殿下、私は反対した筈ですが」
「何だ、もっと時間が掛かると思っていたのに」
バンと音を立てながら無遠慮に部屋に入って来たヘクターは、じとりとオリヴィアを睨みつける。
つかつかと足早にオリヴィアの元まで歩み寄ると、仁王立ちになって更にきつく睨みつけた。
「こんな薄汚い鼠を飼うなんて…飼うのならもっと毛色の良いものになさいませ」
「鼠?どちらかというと兎じゃないか?」
「殿下!」
ぎゃんぎゃんと文句を吐き続けるヘクターから顔を背け、ルイスは両耳をしっかりと塞ぐ。煩いと眉間に皺を寄せているが、ヘクターの小言はまだまだ止まりそうになかった。
「聞いているのですか!」
「あーあー、まるでスチュワート夫人みたいだな」
誰の事を言っているのか分からなかったが、ルイスが今責められているのは自分のせいだ。それだけは理解出来たオリヴィアは、じっとうつむいて自分の手を見つめた。
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