柔らかな

少女は夢を見る。懐かしく優しい思い出の日々を。


「どうしてお外に出ちゃいけないの?」

「お外にはとても怖い怪物がいるからよ」


母はいつでも優しかった。

寒いと言えば温かい腕の中に閉じ込めてくれたし、お腹が空いたと言えば自分の分も食糧を分け与えてくれた。

怖い夢を見たと泣いて目を覚ませば、どれだけ遅い時間でも優しく微笑んでくれた。


だが、母はたった一つだけ絶対に許してくれない事があった。


外に出る事を禁じたのだ。

外には恐ろしい怪物がいるから、絶対に出てはいけないと。一度だけ言う事を聞かずに外に出た事がある。たった一歩、家の扉の外へ出ただけで怒鳴られたのだ。見た事が無い程恐ろしい表情で我が子の肩を掴んで揺さぶる母が忘れられない。


どうして聞いてくれないの。お前を守りたいだけなのに。


そう泣く母に、少女は泣きながら頷くしかなかった。そうして二度と、家の外へ出る事は無かった。


少女の世界は、小さな家の中だけ。自分と母だけの、小さな小さな世界。


母に会いたい。もう一度優しく抱きしめてほしい。柔らかくていい匂いのする、大好きな母に。


「…母さん」


か細い声が漏れた。

ふかふかと柔らかい何かの感触に、少女はうっすらと目を開く。眩しい程の明るさに、開いたばかりの目をぎゅっと閉じた。


薄暗い森の中にいた筈なのに、どうしてこんなに明るい場所にいるのか分からない。

ふかふかと柔らかい感触の正体は、ふっくらと膨らんだ布団のようだ。

きょろきょろと周囲を見回してみるが、見た事が無い程豪奢な家具を並べた広い部屋だ。家よりも広いように思えるこの部屋の真ん中で、少女は大きなベッドに寝かされていた。


体のあちこちが痛い。それはいつものことだが、何故だか右頬がむず痒い。そっと指先で触れてみた。何か布のようなもので包まれているらしい。

顔だけではない。腕や脚、傷付いていた箇所のほぼ全てが丁寧に手当てされていたし、泥だらけだったはずの体も少し綺麗になっていた。布切れになり果てていた服も、手触りの良い上等な寝間着に替えられていた。


体を確認しながら視線をうろつかせると、ベッドサイドに置かれた小さなテーブルの上に、皿に盛られた粥を見つけた。一緒に紙が置かれ、何か書いてあるようだが少女に文字は読めない。

腹の虫が空腹を訴える。食べても良いのだろうかと迷いながら、少女はぐっと唇を引き結んで粥を見つめた。


「おや、目が覚めたかな」


ノックもせずに部屋に入って来た若い男の声。びくりと体を震わせ、少女は声の主を見た。

艶やかな黒髪を背中でゆったりと結んだ綺麗な青年。折角綺麗な顔をしているのに、右目は大きな皮の眼帯に覆われていた。

にこにこと穏やかに微笑むその青年は、すたすたと軽やかな足取りでベッドの横に置かれた椅子に腰掛けた。


「いけません!少しは警戒してください!」


一緒に入って来た神経質そうな顔をした青年が、黒髪の青年と少女の間に体を割り込ませながら怒鳴る。

じろりと自分を睨む茶髪の青年に、少女は身体を強張らせながらじっと見つめ返した。


「良いじゃないか、ただの子供だ」

「刺客だったらどうするおつもりです?ご自分の身分をもっときちんと理解してください」

「刺客!森で転がってた死にかけの子供が?」


けらけらと笑う黒髪の青年が、少女を指差して笑った。馬鹿にされている事は何となく分かる。何か言い返そうと思うのだが、口を開くより先に腹の虫が大声を上げた。


「腹が減ってるならそこの粥を食べると良い。冷めてしまっているかな」


指差された粥をじっと見つめて動かない少女に、黒髪の青年は小さく笑う。

毒なんて入っていないと笑いながら、青年は粥の入った皿を持ち上げた。


差し込まれていたスプーンを手に取り、ぱくりと一口食べてみせる。茶髪の青年は頭を抱えて溜息を吐いたが、もう何を言っても無駄だと判断したのだろう。じとりと不機嫌そうな目を向けるだけだった。


「ほら、食べなさい。足りなければもっと持ってこさせるから」


差し出された皿を前に、少女はごくりと唾を飲み込む。まだ動かない少女の為、黒髪の少年はスプーンに粥を取り、口元まで差し出した。

恐る恐る開いた口に押し込まれる粥。ミルクで煮込まれたそれは、甘く優しい味がした。


一口食べてしまえば、もう抑えは利かない。スプーンを奪い取り、がつがつと口に粥を押し込み胃に詰め込む。多少零して布団を汚そうが、今はそんな事を気にして等いられない。腹が減っていたのだ。もう何日もまともに食べていない。森の中を彷徨いながら、時々落ちている木の実を食べていた程度。空っぽの胃袋を満足させるには、その程度の食事では満足出来る筈も無かった。


「良い食べっぷりだ。ヘクター、もっと持って来てくれ」

「ですが…」

「良いから。こんなに痩せていて可哀想に思わないのか?冷酷なやつめ」


じとりと睨まれたヘクターと呼ばれた青年は、面白くなさそうな顔をしながら部屋を出て行った。

よく分からないが、ヘクターとやらはこの黒髪の青年には逆らえないらしい。


「森の中で倒れていたんだよ。覚えてる?」


青年の問いに、少女は小さく頷く。

森の中、湖のほとりで動けなくなったのが最後の記憶だ。母の夢を見て、目が覚めたらこのベッドに寝かされていた。何が起きてこうなっているのか分からないが、たった一つ分かったのは、自分が死に損なったという事だけだった。


「俺はルイスだ。君の名前は?」


名前。確かに母は自分を名前で呼んでくれていた。その筈なのに、母が居なくなってから一度も呼ばれていないせいか自分の名前さえも忘れてしまった。

ふるふると首を横に振ると、ルイスは困ったように笑う。答えたくないと思われたのだろう。答えられないだけだというのに。


「じゃあ勝手に名前を付けよう。オリヴィアはどうだ?君が倒れていたところに一本だけオリーブの木が生えてたんだ」


呼び方なんて何でも良い。こくりと小さく頷くと、オリヴィアは空になった皿をスプーンで突いた。


◆◆◆


ヘクターが呆れ顔でオリヴィアを見る。鍋一杯に入っていた粥の殆どを胃袋に納めたオリヴィアだったが、突然大量の食事を納められた胃袋は抗議したかったらしい。ヘクターが慌てて差し出した桶の中に多少の粥を吐き戻したオリヴィアは、満足げな顔をしながら自分の腹を撫でた。


「さて、多少顔色は良くなったな」


ヘクターと同じように呆れ顔をするルイスは、ゆったりと背凭れに背中を預けながらオリヴィアを見つめる。

何から話そうか考えているようだったが、オリヴィアは何を言われるのか分からず、ただ与えられた温かい食事にだけ感謝した。


「君は森の中で倒れていた。それを見つけてこの城に連れて帰ってきたんだ。村に君の事を聞きに行ったんだが…まあ、あまり良くない話しか聞けなかったな。君の事を君の言葉で教えてくれないか」


つらつらと言葉を並べるルイスに、オリヴィアは困ったように視線を下げる。細かな傷があちこちに付いた子供の手。視線をそっとルイスの手に向ければ、その手は大きく、傷一つ無い美しい手だった。


「年齢は?」

「…わからない」

「言葉に気を付けろ」


大人しく返事をしただけなのに、どうしてヘクターに威嚇されなければならないのだろう。びくりと体を震わせ、怯えた目をヘクターに向けた。


「やめろヘクター。こんなに幼い子を脅かすんじゃない」

「ですが…」

「話が終わるまで黙ってろ」


じろりとヘクターを睨みつけると、ルイスはそっと視線をオリヴィアに向ける。その目はとても優しく、穏やかだ。

怖がらせないように気を付けているつもりなのだろう。ゆったりとした声色で、もう一度質問をした。


「森の中の小屋に住んでいたと聞いた。どうして森の中に?」

「鍵が…開いていたから。逃げたの」

「そうか。見つけてあげられて良かったよ」


にっこりと微笑みながら、ルイスはもう一度小さく「良かった」と繰り返す。

どうして見ず知らずの子供にこんなに良くしてくれるのだろう。この人は誰で、何故優しくしてくれるのだろう。そして、やけに豪華なこの部屋は、一体何処なのだろう。


「君の怪我が良くなるまで、此処にいると良い。安全と衣食住の保証はしてあげよう」

「お願い、怪我が治っても村には帰さないで!」


真っ青な顔で、オリヴィアはルイスに懇願する。その姿にヘクターは渋い顔をしたが、言いつけ通り口は開かない。


「大丈夫、何があってもあの村にはやらないよ。傷は全て、村人たちに付けられたものだと知っているのだから」


そう言い切るルイスに、オリヴィアはほっと息を吐く。はらはらと涙を流しながら、小さな手で布団を握りしめた。


「身の回りの世話をする者を付けよう。拾ってきた子供だと城中の者が知っている。もしも君に何か嫌な思いをさせるような事があったなら、すぐさま俺に教えておくれ」

「…どうして?」

「君は俺の獲物だからさ」


獲物とはどういう意味だ。濡れた顔をきょとんと呆けさせながら、オリヴィアはこくりと頷いた。


「詳しい話はまた明日。まだ真夜中だから、ゆっくり眠りなさい。もう喋って良いぞヘクター」

「殿下…御戯れが過ぎます」

「やっぱり部屋を出るまで黙ってろ。それじゃあおやすみオリヴィア。朝になったらまた来るよ」


そう言うと、ルイスはひらりと手を振りながら部屋を出る。不満げな顔をしながらついて行くヘクターは、扉を閉めながらしっかりとオリヴィアを睨みつけていた。

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