赤目の黒兎、片翼の鷲
高宮咲
呪われた子
体のあちこちが痛い。頭がくらくらと揺れる。うっすら開いた目に映るのは、風に揺られる草花だった。
鼻を突く湿った土の匂い。出来ればもっと楽しい気分で嗅ぎたかったが、今はお世辞にも楽しい気分などではない。
これから私は死ぬのだろう。
誰も居ない、たった一人自分だけ。森の中、泉のほとりで今にも死にそうな子供が転がっている。可哀想な幼子が死に行く様を、誰が憐れに思うのだろう。誰も何も思わないのだろう。誰も見ていないのだから。
朧げな記憶となってしまった母は言った。人はいつでも神様に見守られているのよと。
だから恥じぬように生きなさいと母は言った。
いつでも優しく微笑んで、温かい腕の中に閉じ込めてくれた大好きな母。
もう二度と会えない。母は魔女とされ生きたまま炎に焼かれたのだから。
最期に母は叫んだ。愛しい子、この世の誰よりも愛しているわと。
何故母が殺されなければならなかったのか分からない。どれだけ考えても分からない。理解など出来ない。したくもない。
何が神だ。見守ってくれているのなら、愛してくれているというのなら、何故あの日母を助ける為に奇跡を起こしてくれなかったのだ。何故、こんなにも惨めな思いをしながら死にかけているのだろう。
幼子の腹がくうとなる。カサカサに乾いてしまった唇をうっすらと開き、細い呼吸を繰り返す。
もう瞼が重い。目を開けている事すら出来ないのか。遠のく意識を手繰り寄せる事もせず、幼子は静かに目を閉じた。
◆◆◆
青年は小さく溜息を吐く。
貴族というのはどうしてこうもくだらない事が好きなのだろう。うきうきと楽しそうな顔をして、馬に跨って弓を携える。争いも終わって折角平和な生活を送っているというのに、どうしてわざわざ生き物を傷付ける武器なんて物を持って森の中を駆け回らねばならないのだろう。
下らない。どうせ全部気紛れな兄の為に催されるしょうもないお遊びだ。少し離れた所でにんまりと笑っている兄を見ながら、青年はもう一度小さな溜息を吐く。次期国王候補の一人である彼の機嫌を取り、将来優位な地位に就きたいと考える貴族に囲まれ、耳障りの良い言葉ばかりを受け取る兄は、きっと何も不自由なく、大きな不満もなく生きているのだろう。
「きっと今日も一番の大物を獲るのはライリー殿下でしょうな」
「何、神が私の味方をしてくれるとは限らん」
ふふんと鼻を鳴らして笑う兄の滑稽な事。
いつも兄が一番大きな獲物を獲って来た。それは兄がこの国の王子だから気を使われているだけだというのに、兄はそれを知らない。知る気も無いのだろう。知らなくても何も不便ではないから。問題が無いから。生きていて心地よいから。
「ルイス。お前もたまには鹿でも獲ってきたらどうだ?いつも小鳥ばかり…」
「…はは、兄上程の腕前があれば良かったのですが」
弟の渇いた愛想笑いにも気が付かず、兄はふふんとまた鼻を鳴らす。
狩りの開始を知らせるラッパが鳴った。この音で獲物が逃げる、隠れてしまうことくらい少し考えれば分かるだろうに、何故わざわざ出陣の合図の如く高らかに吹き鳴らしてしまうのか。
「我々も」
「ああ」
同じ年頃のお付き、ヘクターが馬の背から行こうと誘う。彼もまたこの下らない遊びに嫌気が指しているのだろう。
獲物を一つも獲ないのはあり得ない。しかし兄よりも大物を獲てはならない。全てはこの国の第二王子である兄の機嫌を取る為のくだらないお遊び。時間の無駄だ。
こんな無駄でしかない時間を過ごすくらいなら、剣の稽古をするなり勉強に励んでいた方が有意義だ。
「どうします?いつも通り、小鳥を一、二羽落として時間を潰しますか」
「そうだな。いつも通り無能な弟を演じていた方が楽だろう」
兄の機嫌を損ねなくて済む。兄は次期国王候補ではあるが、王の器ではない。見目麗しい王子ではあるが、その頭の中は空っぽだ。考えているのは狩りと酒と女の事ばかり。国の事を考えているのか甚だ疑問である。
自分が優れているのではなく、周囲が持ち上げ優しくちやほやとしてくれている。それに欠片も気が付けないなんて、ある意味可哀想な人なのだろうか。
「兎でもいれば良いのですが」
「やめろ、兎は可哀想だろう」
「兎は可哀想で、小鳥は良いのですか?」
昔読んだ絵本を思い出す。
ふわふわとした小さな兎が、母兎を探して森を彷徨う話。迷子の子兎を心配する動物、食べてしまおうとする動物…様々な動物と出会い、母兎と再会して話は終わる。
何てことは無い話だが、絵本の挿絵が可愛くてお気に入りだった。ふわふわとしたあの柔らかそうな毛に触れてみたいと思っていた。
初めて触れた兎の毛皮は固かった。血液で濡れ、それが渇いて固まっていたのだ。真っ白な毛皮が、赤黒い血液でべったりと汚れていた。それがいつまでも忘れられない。
「どうだ、俺の初めての獲物だぞ」
そう自慢げに笑う兄は、小さな兎の小さな耳を握りしめ、幼い弟に見せ付けたのだ。あの日から、ルイスは兄が嫌いになった。
「…殿下、止まってください」
ぼうっと考えながら馬を歩かせていた。だが、突然止まるよう声を上げたヘクターの声に、ルイスは慌てて意識を戻す。
馬の手綱を引き止まらせると、ヘクターの視線の先をじっと観察する。時々馬を休ませる湖に来ていたようだが、そこには普段ある筈のない布の塊が落ちていた。
「誰だ、こんな所に布を捨てたやつは。村の者か?」
「ここに居てください」
やや緊張しているらしいヘクターの声。仕方なく言われた通りその場に留まるが、ヘクターは馬を降りて布の塊へと近付いた。
恐る恐る剣を抜き、布の塊を足で突く。ごろりと転がされた布の塊から、ぽとりと小さな手が落ちた。
「人間か?」
「そのようです。が、あまり近付かれませんよう」
来るなと警告するヘクターの視線は、動かない人間から外されない。
何があってもすぐ対応出来る様警戒しているのだろう。
「死んでいるのか」
「微かに息はあります。酷く痩せ、至る所が傷だらけではありますが…子供のようですね」
「なら保護すべきだ」
「はぁ?!」
思わずと言った様子でルイスに振り返るヘクターが大声を上げた。その声にも反応しない子供は、本当に生きているのかも怪しい。
馬を降り、ルイスも静かに子供の傍へ寄る。
閉ざされた目。真っ黒な髪はくしゃくしゃに乱れており、服とは思えないボロボロの布から覗く体のあちこち、顔すらも傷だらけだ。
治りかけなのか、黄色くなってしまった痣も、真新しい青黒い痣も何もかもが痛々しい。
「可哀想に」
そう呟きながらしゃがみ込んだルイスは、そっと子供の頬に触れた。ひやりと冷たい頬。しかしきちんと、細く息をしている事に安堵した。
「連れて帰ろう。兄上には適当に詫びておけば良いだろう」
「何を…!こんな得体も知れない子供を連れて帰るなんて!」
「良いじゃないか。今回の狩りでの俺の獲物にする。もしかしたら一番の大物かもしれないぞ?」
にたりと笑うルイスに、ヘクターは駄目ですと首を横に振る。
だがそれを大人しく聞き入れるルイスでは無かった。そっと子供を抱き上げてみれば、思っていたよりも軽いその体重に胸が痛んだ。
「何を言われようとこの子は連れて帰る。傷を手当し、眠る場所と温かい食事を用意するんだ」
「いけません!」
「命令だ。従えヘクター」
普段滅多にすることのない命令。命令出来るような身分ではないと思っているからしないのだが、元々ルイスはこの国の王の息子である。
「…畏まりました」
嫌々といった表情を全く隠しもせず、ヘクターは頭を下げた。
「行こうアオ。帰って食事にしようか」
愛馬にそう声を掛けながら、ルイスは子供を抱えて歩き出す。愛馬は手綱を取られずとも、大人しく主の後ろをついて歩いた。
◆◆◆
急いで呼びつけた医者は、森で拾った子供は女の子だと告げた。栄養状態が悪く、全身至る所に打撲痕があり、今夜生き残れるかも分からないと言った。
「水を含ませた布を何度か口に含ませてみました。ほんの僅かではありますが、飲み込んでいるようです」
「では、この子は生きようとしているのだな」
「恐らくは」
生きようとしているのなら早く目を覚ましてほしかった。充分な量の食事をし、水を飲み、傷が良くなるまで眠らせてやりたかった。
残念ながら、子供はか細い呼吸を繰り返し眠り続けている。そっと撫でた子供の髪の感触を思い出しながら、ルイスは夜の村を歩いている。
森の中で倒れていたのなら、きっとあの子供はこの村の住人なのだろう。そうならば、親が我が子を探しているかもしれない。
あれだけの酷い傷を負っていたのだから、親が探しているなんて事はあり得ないのだろうが、万が一の可能性を考えたのだ。
悪い大人に掴まり、酷い目に遭わされながらも、必死で親の元へ帰ろうとしていたのかもしれない。そんな可能性の低い希望に縋るように、しかし恐らくはそんな可能性なんて欠片も無い事を何となく察しながら、ルイスは歩く。
「夜分遅くに失礼する」
ドンドンと拳を扉に叩きつけながら、ルイスは声を張り上げた。
この村の長の家である事は知っていた。扉が開かれると、何事だと不機嫌そうな顔の村長が顔を覗かせた。
「サヴィル伯様…!」
「すまないな。聞きたい事があって来た」
「は、はあ…どうぞ中に」
「いや、ここで良い。昼間森の中で子供を見つけたんだ。黒髪で痩せ細った子供なんだが…」
その言葉に、村長は視線をうろつかせる。何か隠している、やましい事がある事は明白だ。早く答えろと圧をかけるように、ルイスは腕を組んで村長を睨みつけた。
「それは…恐らく、森の小屋の子供かと」
「森の?あんな場所に人が住んでいたのか」
「はい、母親と娘の二人で暮らしておりました」
「ではその母親は森の中か」
そう問うルイスに、村長はもじもじと指を動かす。チラチラとルイスとその後ろに控えるヘクターを順番に見ているようだが、その狼狽え方に気分が悪かった。
「答えろ」
「は、母親は既に死んでおります。あれは魔女だったのです」
魔女。そう言った村長の顔色は悪い。御伽噺に出てくるような魔法でも使う女だったのだろうか。もしそうだとしたら、ルイスの耳に入っていない筈が無い。
「あの女は森の中で…悪魔の子を育てていたのです」
「悪魔の子…とは?」
「あの子供の目は、血のように真っ赤な目をしているのです。まるで、悪魔の目のように」
「ただ目が赤いだけだろう」
下らない。そう鼻で笑ったルイスに、村長は食ってかかった。
悪魔に体を赦し、子供まで生んだあの女は大罪人である。だから我々は正当な理由をもってあの女を生きたまま焼いた。
子供もすぐに殺してしまいたかったが、悪魔の子供を殺せば悪魔からの報復があるかもしれない。だから殺せない。生きていけるだけのぎりぎりの食糧を与え、森の小屋に閉じ込めていた。これは村人を守る為の正当な行為である。そう訴える村長に、ルイスは酷く不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「では、あの子供が死にかけていたのはこの村の者のせいであると」
「我々は死なぬ様世話をしました。あれが勝手に逃げ出しただけです」
「…もう良い」
そう吐き捨て、ルイスはもう用事は無いとばかりに村長に背を向ける。
ヘクターはぺこりと小さく頭を下げ、先に歩き出したルイスの後を追った。
「何が悪魔の子だ…あんなに小さな子供を。村の大人総出で痛めつけていたんじゃあるまいな」
「有り得ます。ですが、伝承に則っての行動ですから…あまり責められはしないかと」
この国では神という存在は重要である。
神はこの世界を作り出し、自分の姿に似せて人間を作った。神はいつでも天から人間を見守り、慈しみ、愛してくださる。
だが、神の意図していなかった存在も同時に生まれてしまった。それが悪魔だ。
悪魔は人間を誑かし、罪を犯させ、神に愛してもらえないようにする。人間は死んだ後神の元へ還るが、神からの愛を失った者は地獄へ落ちる。
だから悪魔は許してはならない。悪魔に心を赦してはならない。魅入られてしまった者は魔女として処刑する。巻き添えになるのが嫌だからだ。
「火刑か…炎で罪を清めてやるのが我々に出来る最大の慈悲とは言うが、生きたまま焼かれるとはただの地獄の苦しみだろうに」
小さく呻くルイスに、ヘクターは何も答えない。村の出口に繋いだ馬たちに跨り、二人は急ぎ城へと続く道を戻り始める。
「魔女は殺すが悪魔の子は殺せない。愛せもしないから死なない程度に痛めつける…それで神に愛し続けてもらえると思っているなんて、愚かなものだな」
「…仮にも、神に選ばれた一族に生まれたお一人でしょうに」
「ああ、有難い事に生きて行くのに困りはしないからな。多少窮屈ではあるが」
はは、と渇いた笑いを漏らしながら、二人は規則正しい馬の足音を聞きながら帰路を辿り続ける。
どうか、あの小さな子供の呼吸が止まっていませんように。そう願いながら。
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