第40話 この道をゆく

 ステファンは、しばらくの間呆然として、ナハトがいた空間を見ていた。


「おい」


 不意に声を掛けられて、はっと顔を上げた。タークがすぐ側まで来ていた。今のステファンは武器を持っていない。魔法も詠唱する時間がないだろう。手詰まりだった。しかしタークは平静だった。


「もうお前と戦う気はねーよ。俺の契約者は死んだし、剣は折れて、直すにも時間掛かるし。ま、ナハトの思惑通りになったわけだがな」


「随分と冷たいんだな」


「お前、“死者の記憶庫”に行っただろ? ナハトと契約したなら、あいつがお前の記録を書き換える所も見たか。あれはごく偶にしかやらないが、あそこに異常が起きないように管理するのが、あいつの本来の仕事だ。そういう意味では、あいつは死んじゃいないんだ」


 心持ち辛そうな顔をしたタークは、ナハトが消失した後に地面に落ちた銀の指輪を拾い上げて、ステファンに渡した。指輪の石は青かったが、ナハトの瞳と同じで、少し紫がかったような、不思議な色合いをしていた。


「これはお前の物だ。きっちり嵌めとけ。今のお前は、俺と契約する気も見込みもなさそうだから、後は好きにしろ」


 そう言って、タークは去って行った。 



 エルナの遺体を担いでヴァルヌス要塞まで戻ったステファンは、歓迎と怒りの二つを受けた。しかしそれらは自分が甘んじて受けるべきであるのをわかっていたため、特に心が乱れたりはしなかった。

 褒められたのは、敵の総大将を獲ったことだ。ナハトが探し当てたことだが、別にそれはいい。これで和議を持ち出せるかもしれない。戦争は終わるだろう。ようやく、誰も殺し合わなくてよくなるのが嬉しかった。

 辛かったのはどちらかというと、ナハトがいなくなってしまったこと、そして、仲間達と心が離れてしまったことだ。


「だから、お前がちゃんと言えばいいんだよ! 隊長がどうして死んだか! 死体はどうしたのか!」


 割り当てられた大部屋で、アルノーが声を荒げる。以前の彼だったら、そんな物騒な言葉は使わなかっただろう。事実を教えてやりたかったが、アルノーは信じないだろうし、ナハトも望んでいないだろう。


「このままじゃ、隊長は脱走兵扱いなんだよ、わかるだろ!」


 分かってるよ、十分に。脱走兵は不名誉なことだ。ナハトはちゃんと敵と戦って死んだ。逃げたりなどしなかった。

 でも、ナハトの正体は人間ではなくて、死体は軍服を残して消滅してしまった。今残っているのは、ステファンの胸ポケットに入っている銀の指輪だけだ。それに込められたものを伝えきる自信はなかった。


「俺もお前に本当のことを話したいよ。でもそのせいでお前が傷付くかもしれない」


「傷付く!? これ以上どうやって傷付くんだよ。イレーネも死んじまったのに」


 部屋の一番隅のベッドでは、物言わぬイレーネが横たわっていた。彼女の死に顔は穏やかだったのが救いだった。モニカが、少しでも見た目を良くしようと、無駄だと知りつつも怪我の手当てをしていた。

 オリヴァはモニカの隣で、石のように黙って座っていた。


「俺、軍隊に残る」


 アルノーは呟いた。


「結局、戦争がこの世からなくならない限り、誰かの悲しみが生まれるんだろ。だったら、俺がそれを引き受ける。俺はもう、慣れたから」


 そんなものに慣れなくていい、とステファンは言いたかった。けれど、真実を隠したまま、それを言う権利はステファンにはなかった。アルノーは、ルディとイレーネの死に立ち会った唯一の人間になってしまったから、心のたがが壊れてしまったのかもしれない。


「要はなるべく戦争が起きないようにしようってことだろう。だったら僕にも考えがある。政治家を目指そうと思う」


 オリヴァが口を開いた。


「父上が許可を出してくれるかわからないけど、見識を深めることは商売の妨げにはならないって、説得するよ」


「私も、新聞社とか、世の中に携わる仕事がしたいですね。活字拾いくらいならできますから」


 モニカも、戦争が終わった後の未来を考え始めているようだった。


「みんな、色々考えてるんだな」


 ステファンがこの中で一番、具体的な未来を思い描けていないようだった。胸ポケットの指輪がある場所に手を当てる。


(もう少し、時間を貰っていいか。戦争が終わるのを見届けたら、俺の道も決まるだろうから)



 シバート軍は、数日後には撤退した。結局、腹違いの弟が跡を継ぐことになったそうだ。


 本格的な冬の後、やっと春が来た。青空は柔らかく澄みきって、命を祝福していた。

 新緑の下、タークはまだ冷たい小川で、水浴びをしていた。皮膚は所々黒く変色しているが、汚れが付いているわけではない。じきに範囲が広がって、この器は駄目になるだろう。それで良かった。

 タークは水から上がると、体を拭いて服を着た。それから、近くの大岩に向かって歩いて行く。


「終わったぞ」


 どうして俺がここまでしなくちゃならないんだと思いつつも、嫌ではない。むしろ穏やかな気分だった。

 岩陰には、半透明の白い姿がちょこんと座っていた。町を歩くには目立つだろう、装飾的な白い服が、本来の“彼”にはよく似合っている。


〈そう〉


 “ナハト”は顔を上げた。


「お前も、俺の裸は見たくないとか面倒だな」


〈君の自己満足の結果だからだよ。君に僕の魂をこちら側に固定する程の力があったなんて知らなかったけど、器に相当負担を掛けてるでしょ〉


「俺も自分で、死霊遣いみたいなことができるなんて思いもしなかったな」


〈気楽だね。その内、身体が崩壊するのに。僕の魂なんて、適当な物に突っ込めば負担も減るのにやらないんだから、我儘わがままにも程がある〉


「いいんだよ、お前はその姿の方が似合ってるし。俺が消滅しても、指輪はまた別の誰かが拾うだろう。そうやって契約が続いていけば、あいつの実験も支障はないからな」


〈彼女……いや、今は“みどり”って名前がお気に入りなんだっけ。名前なんて、真名まな以外の呼び方はどうでもいいんだけど。あのひと、僕らより上位の神ではあるけど、面白そうなこと何でもやりたがるんだから〉


「俺は嫌いじゃない。同じ仕事ばかりしててもつまらないからな。お前もやってみろよ。延々と、寿命より前に死んだ奴に、生きるか死ぬか判定するなんて飽きるぞ」


〈勝手に言ってれば?〉


 話に面倒になったらしい“ナハト”は、もう歩き出していた。彼は、タークに対しては少し素っ気ない。それは気を許している証拠でもある。タークは笑ってその後を追った。穏やかな時間だった。


 記憶がなかった頃から始まって、今までお互いが契約者を探し、人間社会に介入し、戦って来た。ナハトの現在の契約者であるステファンは、戦争であったことや、人の生き方やらを説いて回っているらしい。割と穏やかなやり方だ。ナハトの契約者は、不老不死を頼みにして世界を変革させようとするか、地道に説法するかのどちらかに大別されるが、彼は後者だったようだ。ステファンが挫折しない限り、契約は長く続くだろう。そしてタークも、今は契約する気はなかった。候補者がいなかったし、“ナハト”を顕現けんげんさせ続けるのに、それなりの労力を必要としているからだ。それは、ふたりに訪れた初めての休息とも言えた。かつてスコルがタークに言ったことを思い出す。 


――ただ、ナハトは大事にしてやれ。お前たちはこの世界で、たったふたりしかいないのだから。


 ふたりしかいないから、他の人間にはわからないことが共有できる。ひとりだったらきっと投げ出してしまいたくなることも、ふたりだから続けられた。

 そして今、彼らはようやくふたりだけの時間を手に入れた。


 森の中の小道を、ふたりで歩いて行く。影がタークの足元から少し伸びて、それだけが彼の存在を証明していた。

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パラレル・ガーデン 神崎司 @kanzaki-tsukasa

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