最終話

 それから私はたくさん勉強して、山の向こうにある高校に合格した。

 何で勉強しないといけないかとか、自分の将来にどういう意味があるのかなどは、特に考えなかった。力ずくだった。余計なことを考える時間も、頭の余裕もなかった。

 渚君の雰囲気が濃厚に漂うこの町から、とにかく早く出て行きたかった。そうしないと、自分はいつまでもここに閉じ込められたままでいるようだった。

 私にとっての新しい扉は、渚君のそれのように、そう簡単に開いてはくれない。自分の理解力や記憶力のなさを嘆きつつも、強引に体当たりして開いていくしかなかった。

 とにかく、今は遠くを、ただ遠くを目指すのだ、そう思って、何も考えないで、ただひたすら勉強した。この町にとどまりながら自分の世界を構築していく方法もあったのかもしれないけど、そうするには、私はあまりに影響を受けやすい性質だった。環境や周りにいる人が変わらない限り、自分も変われない。脱出して、外の世界へ行かなければいけない、――私を支えてくれるのは、その思いだけだった。

 引っ越すわけではないので、高校へはバスで通ったけれど、家はほぼ寝に帰るだけのような場所になり、めでたく私の生活圏は山の向こうになった。休日に近所の人に会っても、どことなく、よその人と会っているような気になるくらいだった。

 そうしているうちに、渚君のことは徐々に記憶から消えていった、いや、積極的に忘れようとしたのかもしれない。新しい世界を思う存分生きるには、昔の思い出にゆっくりひたっている暇はなかった。私は日々、新しい領域へ足を踏み入れて、新しいことを吸収して、新たな自分を追い求めていた。そうするには、過去のきらりとした思い出は、どちらかというと足手まといだったのだ。

 やがて大学に入学し、そこはさすがに家から通えない距離にあったので、アパートを借りることになった。そこで初めて私は、完全に山の向こうへ行くことがかなった。そうして、山の間の小さい町は、私の中で完全に“昔いた場所”になった。やがて両親もそこを引き払ったので、今となっては、もう行くこともないのだった。

 ついちょっと前まで思い出しもしなかったようなことなのに、私はまだあの町でのことをそれなりに思い出せるのは、驚いたものだ。一度考え始めると、色々なことを取り留めもなく考えてしまう。

 私は、渚君に何の影響も与えていなかったのではないか。そんなことで今さら思い悩んでみても何の意味もないのに、私はもはや彼の記憶には残っていないのではないかと、不安になることがある。そういう問題ではないのはわかっていながらも、彼はすっかり私のことを忘れているとすれば、私だけがいつまでも彼のことを特別な人として記憶しているのは、不公平な気がしないでもない。

 彼にとっては、自分が存在していた場所というのは私と違ってたくさんあったから、一緒にいたときには一時的に仲良くはしていたけど、それは通り過ぎる風景の一つのようなもので、通過してしまえばもう思い出すことはないだろう。私が一生懸命覚えていることも、彼にとってはもっとずっと意味の薄いことだったのではないかと思うと、あまり考えたくなくなった。

 単にいた時間が長かったからかもしれないが、私の一部はまだあの山間の町のどこかにあって、木に刻まれた印のように、それは永遠に消えないのではないかと思ってみたりする。「以前住んでいた場所」というところへ行くと、いつも何かしら後ろ髪を引かれるような、ちょっと悲しい気分になる。私は確かにここにいたのに、今はここにはいない、死んでしまった自分を見ているような、そんな気持ちに近いかもしれない。

 今よりも少し、もしくはとっても若かった自分が、こんな未来が待っているとは知らずに懸命に生きていた時間があった。そんなに悪くないよとも言えるし、年をとるなんて思っていたほどのもんじゃなかったよ、とも言えるかもしれない。そういう場所や時間が、意図的にしているわけではなく、ただ増えていく。


 海のそばで考え事をしたり、本を読んだり書き物をしてみたいと思ってバッグに本やノートや気に入ったペンを忍ばせても、いつもつい海に見入ってしまうので、なかなか実行に移せないままでいる。

 夏が近づき、人が増え始めつつある。

 砂浜に寝そべっている人、パラグライダーの練習をしている人、波打ち際で自撮りしている人。ちょっと座っているだけで日焼けも気になるようになり、ますますゆっくり書き物なんてできそうにない。

 ふらふらと、一日に二回も三回も海に来てしまうこともある。

 季節や時間帯によっても海は全く違うので、何度来ても特に飽きることもない。こうやって毎日海に来る生活がその後にあったなんて、当時の私は全然知らなかった。しかしこれもやがて空気のようにあるのが自然な光景になっていき、そうすると、なければ生きられないようになっていき、私はほかの町で過ごせたはずの日々を、日々あきらめながらここでしばらくの間、もしくはこれからもずっと生きていくことになるのだろうか。

 夕暮れの海では、たまに魚が跳ねたりもする。わくわくしながら、やっぱり何度見てもいいなと思う。陽は沈んでいくけれど、新しい場面が始まっていくようだった。

 ビーチサンダルを脱いで、波打ち際で海に足を浸す。そのまま飛び込んで、どこまでも泳いで行きたい気になる。きっと今では私のほうが、渚君が過ごしたよりも長いこと、海のある街に住んでいると思う。それが、私のことをすっかり忘れてしまったであろう渚君にできる、唯一の仕返しだった。

 いつまで待ってもなくならない波を見ながら、渚君が、「すみません、今日は、海がきれいだったんです」などと言いながら、勤め先に遅刻していく場面を思い浮かべる。今でもそんなふうだったらいいよなあと思った。


                                            終わり

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海のある街 高田 朔実 @urupicha

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