第11話

渚君が突然いなくなった日のことは、あまりよく覚えていない。

 ただ、彼が姿を消した日の週数間前から、このごろやたらと窓の外を見てるよなと思った覚えはある。

 あの頃は手帳に何かを記入する習慣も特になかったから、何月のことだかはっきりと覚えてはいないけど、窓の外で落ち葉が舞い始める季節だった。

 休み時間の、ほんの五分の間でも、渚君は廊下に出て、窓の脇に立ったまま、窓の外を眺めていた。

「なに青春してんだよ」 

 と言われつつ、

「葉っぱが散っていくのって、どうしてこんなにきれいなんだろうね」

 などと言い、うっとりしながら目を細めていた。

 ついちょっと前までは、外に出ようなんて全然思えないほど暑かったのに、やがて肌寒い状況が普通になってきて、たまに晴れると外に出て日向ぼっこでもしたくなる。

 昼休みに校庭に出て、サッカーをするでもテニスの乱打をするでもなく、校庭の隅っこに生えてある花を眺めていたら、空を見上げる渚君と遭遇する。

「なに青春してんの」

 自分で口にしてみると、目的もなく話しかけるときに、意外と便利な慣用表現だと思う。

「光合成してるの」

 渚君はいつもと同じ顔で笑った。

 生き物の気配がしてふと脇を見ると、鳩が道端で、しきりに何かをついばんでいる。

「鳩って、パロマっていうんだよ」

「ふうん、ぱろまねえ。英語じゃないよね?」

 渚君は答えず、向こうで雀が草本の穂をついばむのを見つめている。

「小鳥は、パハリージョって言うんだよ」

「何語なの?」

「南米では、そう言うんだってさ」

「南米、ねえ」

 とっさに南米にどういう国があるのか思い出そうとしたが、昔インカ帝国のあったところだろうか、くらいしか思いつかなかった。

 急速に仲良くなった人とは、それだけ別れが来るのも早いということを、初めて知った。

 もっとゆっくり近づいていれば、あんなに急に私の目の前からいなくなったりしなかったのではないかと、思うこともある。今だからこそ、そう思う。大切なものはなくなってから初めてその価値に気が付くものだということも、渚君がいなくなる以前の私は知らなかった。いつも気軽に話しかけられるような位置にいた人だったけど、それが永遠に続くことはないことに気づいていなかった。なんの焦りもなく、戸惑ったり気取ったりする余裕があっただなんて、吞気だった。後からみているからこそ言えることなのだけど。

 母親がパート先から仕入れてきた情報によると、渚君のお父さんはちょっと前から外国で単身赴任していたから、渚君とお母さんは二人でおばあさんの家に身を寄せていたらしい。そんな中で、お父さんが体調を崩したらしく、お母さんはとうとうお父さんのもとへ行くことにした。渚君を一人で置いておくわけにもいかないので、渚君も転校することになった。彼は学校を去る当日まで何も言わなかった。

「いなくなる人だと思って接されるのとか、別れを惜しんだりするのって、好きじゃないんだ。普通に転校したいんだ」

 渚君は言った。

 普通、転校するのと別れを惜しむのはセットなのではないかと思っていた。やはり私は世間のことをよく知らなかったのだろうか。あれはきっと、出会いと別れとを日常的に体験している人の意見だったのだ。今では、そう思う。

 でも当時の私はそうはいかなくて、腹をたてたままろくにお別れの挨拶もせず、住所を尋ねたりもしないまま、別れてしまった。彼に本当に腹をたてたのはそれが最初で最後だったけど、最後なだけに、仲直りをすることも叶わなかった。

 他の人に連絡先を訊いて、手紙を書いて、離れ離れになってもしばらく仲良くしようよと提案することもできたかもしれない。しかし、彼のほうからそう言ってくれなかったことが、どうしても気に食わなかった。当時はまだ学校でクラスメイトの住所録を配っていたから、彼はそうしようとすればできたはずだった。そして、私はそれ以降渚君がどうなったかは、一切知らない。

 冬になって、雪虫が飛ぶようになった頃、ああ渚君がいたらよかったのになあ、と久々に思った。

 その町は、寒かったものの雪はほとんど降らなかったのだけど、田舎で叢が多かったからか、秋から冬にかけて、いつも雪虫がふんわり舞っていた。近くで見てしまうと、綿くずかなにかのようで特にきれいでもないけれど、飛び始めたのを見ると「今年もこんな季節になったのか」と、一瞬気持ちがほっこりするのだ。

 都会から引っ越してくる子にはあまりなじみがないらしく、「なにこれー」と驚いているのをたまに見た。どういう場所を好んで生息するのかは知らないが、二車線の道路がばんばん通っているようなところでは、静かに舞うこともできないだろう。そう思うと、あの町ならではの風景の一つだった。

 渚君がここにいたら、この虫の存在に気づいていただろうか。いじめっ子も、ヤンキーも、一瞬黙らせてしまうようなふんわりした空気について、あの人がどう思うかじっくり聞いてみたかった。彼がいってしまった遠い国まで、か弱い雪虫たちはとても飛んでいけなかった。

 何年も一緒にいたかったとは言わないけど、せめて季節がぐるりとめぐる間だけでも、一緒にいられないものだったのだろうか。普通の人となら、せめてクラス替えがあるまでの一年間は一緒にいて当然のものだったのに。桜の花すら、一緒に見ることはなかった。

 あれからふらりと美術室に行くことはなくなったけど、何度か意図的に居残りをしたことはあった。

 先生は渚君など始めからいなかったかのように、私がいても渚君の話はしなかった。

 ただ、一度だけ、こんなことを言った。

「あの子は、目的がを持つのが嫌いなんじゃないの。自分に関係ないことを、無理に目的とか目標とか言われてやらされるのが嫌いなの。あの子にとって大切なことは、口癖のようにいつも言ってたけど、勝手に目に入ってくるんだろうし、本当にやりたいと思っていることは、意識的に“目的だ”なんて思わなくても、空気を吸うように自然にやってしまうの。そういう子なんだよね」

 今では手伝いを任せられる人がいなくなったため、先生は一人で植物の水やりをしている。

 そのときも、先生は私とではなく植物と向き合って水やりしていたので、先生の顔は見えなかった。

「今まで色んな学校へ行ってたらしいじゃない。色んな人がいるから、注意されたり、怒られたり、性格を矯正されそうになったり、色んなことがあっただろうけど、全然そういう嫌味なんかは耳に入ってこないみたいだったね、あいつは。おめでたい性格だわ」

 そんな話を聞くと、渚君がいつも先生のそばにいたわけがわかるような気がした。私は明らかに人生経験が不足していて、わからないことや想像できないことが多すぎて、若いというのはつまらないと思った。

「あの人は、自分にとって都合の悪いことはすぐに忘れてしまうんですね。この学校にいたことも、楽しかったことだけ覚えていて、転校して寂しいなんて、全く思わないんでしょうね」

「まあ、いちいち寂しがってたら身が持たないんじゃないの。こうやって残された私たちだけが寂しがってるのはしゃくだから、私は意地でも寂しくなんて思ってやらないけど」

「先生も、寂しいんですか?」

 すると先生はとっさにぱっと顔をあげて、なんでもないように、

「ああ、今のは言葉の綾だって。私は、ただ水やり要員が減って残念なだけだよ」

 と、とぼけたように言うのだった。

 私は何か話そうと思いつつ、それ以上言うことが思いつかずに、まだ彼がここにいるのが日常だった頃、二人で交わした会話を反芻していた。

「私、今まで気づかなかったなあ。あの山の向こうに何があるんだろう。外の世界へ行って見たいなんて、思ったこともなかったのに。

世界には、知らないことがたくさんあるのに、なんでここでの生活だけで、満足できていたんだろう。渚君のせいで、いろいろ気になるようになっちゃったじゃない」

「僕、何か変なこと言ったのかな? 普通に話しているだけだと思うんだけど」

「普通に話しているだけで、十分、変だよ」

「ええー、厳しいなあ」

 そのとき、私は自分のとりあえずの目標が定まったのを知った。

 とりあえず、山の向こうへ行かなければならない。

 それだけは確かなことだった。

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