第10話

 今日の海は、荒れていた。

 とはいっても、まだまだサーフィンをしている人たちはそれなりにいる。電光掲示板に強風注意の文字が見られるけど、素人が思うほど危険ではないのかもしれない。

 波の速さは、明らかに、晴れているときとは違う。白さが目立っている。波音も間隔が狭くて大きい。聞いているだけで、体の中が力強く洗い流されるようだ。

 荒れている海も、なかなか好きだ。何かが始まりそうで、わくわくする。

 波の音に、血管の内側まで洗い流されていることを想像しながら、思いつくことを思いつくままに、勝手に空想してみる。

 今なら、渚君にこう言うかもしれない。

「朝起きる理由がなくても、とりあえず起きてみたら、なにか始まるかもよ。休みの日なんかさ、一日中寝ててもいいんだけど、とりあえず八時くらいにはだらだらとでも起きてみてさ。本当になにもすることがないんだったら、喫茶店行ってみたり、図書館行ってみたり、普段あまり行かないような駅で降りて買い物してみるだけでも、家でずっと寝てるよりよかったなあって思えるかもしれないよ。

 あと、ちょっと違うかもしれないけど、私もそれほど大好きで始めた仕事じゃないけど、続けてたら面白いこともあるもんなんだよ。それはね、仕事へ行ったら、あれもやんなきゃ、これもしなきゃ、ああ嫌だなあって布団の中で毎日思わないこともないけど。起きてご飯の準備したり、着替えたり、化粧したり、そういうの考えるだけでおっくうで、起き上がるのすら面倒で、このままもう少しごろごろしてたいよって思うけどさ。

 でもさ、いやいやながらもとりあえず起きて、小走りで駅まで行って、あー、朝から走んないといけないならちゃんと早起きしとけばよかった、とか思いながら出勤してさ。面倒だと思ってた表の集計とか、資料の整理とか、そういうのひとつひとつ片づけていくと、パソコンの中や机の上がすっきりして、気分がよくなってくるもんじゃない? 効率よく整理する方法が見つかったりとか。そうしているうちに、まあ、いいこともあるじゃないって思えてくるんだよ。

 憂鬱で手につかなかった仕事なんかも、締切前にえいやって手をつけてみると、けっこう面白かったりするじゃない。

 世の中、そんなにきらきらしてることばかりじゃないし。そんなに、明らかに楽しいことばかりあるとは思えないし。朝日が昇るところは、それは素敵だと思うし私もたまに見に行くけどね、でも、そんなの一瞬じゃん。それ以外のときのほうが、ずっと長いじゃん」

 嵐の後、私の見ている限りでは、浜に打ち上げられるのはゴミばかりだけど、昔の人は、異国から何かが流れてこないものかと、わくわくしていたのかもしれない。

 それこそ、椰子の実のように、誰も知らない遠いところから、見たこともない代物が打ち上げられたりしたかもしれない。現実世界では、遠い島からの贈り物はゴミや海草、海鳥の死体くらいなので、探し回る気も起きないけれど。

 あの頃感じていたわくわくする思いは、ひょっとすると嵐が来る前の高揚感に似ていたのかもしれない。強い風が吹いて、はっとしている間に、それまでの世界をがらっと変えてしまう。再びそんな気持ちになれるのを、私はずっと持っているのだろうか。

 砂浜の、ここなら波が多少大きくても濡れはしないだろうというぎりぎりのあたりを狙って座ってみる。なんだかさっきから、視界の端のほうにほこりのようなものがふわふわしている。しかし、ついさっきまで水につかっていてまだたっぷり濡れている砂の上を、ほこりが舞ったりするのだろうか。

 よくよく見ると、それはカニだった。灰色の小さなカニが、たくさんの足を器用に動かしながら、さらさらと歩いているのだった。

――僕はそれを見て、警戒心カニを殺すって思ったんだ。

 突然、渚君の声を思い出す。なんのことかな、と思いながら、立ち上がり、カニのほうに歩いていく。小さいくせに素早くて、そして自分の領域に他者が入ることに敏感なようで、私の気配を察するが早いか、カニはさっと巣穴に逃げこんでしまう。

 そのうち一匹を、けっこう海の間際まで追い込んでみた。ここから私が一歩近づいたら、このカニはどうするのだろう。

 一歩を踏み出すと、カニは全速力で海に入っていった。波が引いたら出てくるのかな、と思ったけれど、再びそのカニの姿を目にすることはなかった。

 砂の中にこっそり作った穴に隠れて生きていてくれたらいいなと思ったけど、すっかり水につかった砂に、そんなに都合よく空気をためる場所があるとも思えないし、ましてやカニにとってはかなり強いと思われる波の中だ。自由気ままに動き回って、華麗に避難できたとは考え難い。やはり、そのまま海に身を投げる形になってしまったのではないか。警戒せず、そのままじっとしていても、私はカニを食べたりはしなかったのに。しかしそんなの、つかまってみるまで、相手がどんな存在なのかカニにはわかりっこなかった。

 渚君が「ほらね」とどこかで言っているような気がした。


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