第9話

 この間、友達と映画を観に行った。

 たまたま話の流れで一緒に行くことになっただけで、特にすごく親しい相手でもなくて、映画以外の時間にどんな話をしていればいいんだろうと心配していたけど、彼女は待ち合わせの時間ぎりぎりに現れて、映画館に入ってしまえばもう無理に話をする必要もなく、ほっとした。

 それはビートルズの曲を使って作成されたミュージカル映画だった。ビートルズにそこまで思い入れがあるわけではなかったけど、予告編で名前も知らない女優さんが歌うシーンを見て、中学生だったときのことを思い出したのだ。

 私が中学生だった頃は、学校で英語を習うようになったりだとか、友人の間で本やCDやらの貸し借りが頻繁になるだとか、学区が広くなって、人が増えて、新しい世界が広がって、外国の曲なんかにもちょっと興味が向き始める年ごろだった。サイモンとガーファンクル、カーペンターズなど、そういったミュージシャンの曲が中学時代を思い出させるというのも、不思議な話ではあるけれど。

 途中でどうしても気になる場面が一つあった。

「あの曲なんていうのかわかる? 青空が出てきて、ディアーなんとかって言ってたの」

「ディアー・プルーデンスのこと?」

「ああ、たぶん、それ」

 その場面を見て、こっそり泣いてしまった。なんかきた、と思ったときには、もう涙がズボンに零れ落ちていた。ほんの数粒だけだったのでわざわざハンカチで拭いたりはしなかったけど、そこでときが止まってしまって後のシーンはよく覚えていない。

 失恋してひきこもってしまった女の子に、アパートの女主人が、部屋から出て、空を見るよう促す。空はこんなにきれいなんだよ、とわりととありきたりなことを言ったと思ったら、部屋の壁が一面、ぱーっと青空になった。そうして彼女は部屋から出てくる、そういう場面だった。

 もちろんそれは、加工された映像だからこそできることである。明らかに想像上の出来事である。だけど、部屋の薄暗い壁が、なにか一言のようなきっかけがあれば、ほんの一瞬でぱーっと青空に変わってしまう、渚君には、実はああいう世界が見えていたのではないかと思ってしまった。普通の人には見えない何かが、日々、実際に見えていたのではないかと思ってしまう。

 太陽が昇るところ、花が開くところ。あまり注目せずに見過ごしてしまう日々の生活のささやかな場面が、テストの点数よりも、時間よりも、クローズアップされていた。将来何をして生計を立てていくかとか、とりあえず二年後にどんな高校入ろうとか、そういった目先のことを考える暇もないほどに。

 映画の中でなら、面白くていいなあと微笑んで、あるいはちょっと感動でもしながら、ゆったりとした気分で眺めることができる。でも、それが現実の世界で度々起こることになったら、どうなるのだろう。ああいう世界に住んでいながらも、普通の人たちとの生活もしていかないといけない。そういう日々は、けっこう大変だったのではないかなと思ってしまう。

 映画が終わった後は、少し立ち話をして、「観たいテレビ番組があるから」と言われたので、そのまま解散した。本当に、映画を一緒に観ただけだったけど、一人だったら観に来なかったかもしれないので、連れてきてもらえてよかったと思った。そんなに仲がよかったわけでもなく、これからもそんなに仲良くなりそうもない、彼女とは、この映画に連れて行ってもらうためだけに出会ったのかもしれないなどと思ってしまった。

 この映画を観たことは、私の人生にとってなにをもたらしたのか。

 当時の渚君の世界をほんの少しだけ垣間見られた気がしたのはよかったけれど、そうしたら、そのことは……。

 最寄り駅について、ビルの中を見て回ってもよかったけど、足が進まなかった。疲れているのかな、と思いながら足が進むに任せていたら、足は海のほうへと向かっていた。最近海が足りていないのかもしれない。

 海へと続く真っ直ぐな道を歩く、それだけでわくわくしてくる。足の知らせに従ってよかった。

 かつて、海のある生活に憧れていたことを思い出す。なんなく手に入ってしまった今でも、客観的にみれば、毎日が幸せだ。まあ、海の近くにいながらも、職場は町の中なので実際海を見たりしている時間は、一日のうちそう多くはないのだけれど。

 そんなことを思いながらも、何回海を見ても、やはり海は私のいるべき場所というよりも、憧れの場所なのだという思いが完全に消えることはない。今の生活は大変気に入ってはいるけど、私はやはり、山にぐるりと囲まれた狭い町に、一度染まってしまっている。これから先どこへ行っても、その影響は消えないのだろう。海の近くは、私にとっては永遠に外国であって、母国にはならない。

 渚君にとっては、どうだったのだろう。

 渚君はあの通りの子だったから、自分の世界と外の世界とに大きな隔たりがあっても、「こんなもんだよね―」と軽く越えてしまっていたのかもしれないけれど。それはそれで、と割り切って、ちょっと目をつぶったりして、うまくやりすごしていたのだろうか。

 そういえば、彼はたまに「しまった」という顔をしていたような気もする。「そうだ、自分には見えるけれども、他の人には見えないんだ、気づかないんだ、忘れてた。僕も知らないふりをしておかないと」。

 そうやって片目をつぶって通り過ぎて、無事大人になったのだろうか。

 見えるものを「見える」と譲らないまま、傷だらけになっていなければいいのだけど。



「僕はやっぱり、苦手だな、学校の時間」

「学校の時間って?」

「だから、朝八時半から始まって、一つの科目が四十五分って決まってて、休み時間もほんの少ししかなくて。一日は二十四時間しかないのに、なんでそれをわざわざそんなに細かく分けないといけないんだろう。そんなんじゃ、何もできないじゃない」

「でもさ、授業が何時間もあったら、疲れちゃうんじゃない?」

「所詮、それくらいしか興味が持てないことだからだよ。本当にやりたいことだったら、少なくとも二時間くらいはやっていたいよ。

 それに、僕は、季節によって起きる時間を変えたりとか、そのときやりたいことによって起きる時間を変えたりとか、いろいろな生活を試してみたいな。ずっと同じ時間に起きて、同じ時間にご飯を食べて、同じ時間に遊んでって、すごくつまんなくない? なんで毎日この時間にこれをやるって決まっているんだろうね」

 渚君は、高いところで気持ち良さそうに飛んでいるトンビを見て、気持ちよさそうに目を細めた。

「管理しやすいからじゃないの。それに、毎日同じことしてたほうが、生活のリズムができたり、効率よくいろいろ覚えたりするのに合っているんじゃないかな」

 私の意見が気に入らないのか、ため息をつくようなしぐさをする。

「効率がいいって、そんなに大事なのかな。僕は効率よりも、考えたり、納得したりすることのほうが大事だと思うけど。みんな違う人なのに、なんで同じことをしないといけないんだろう」

「大人になれば、みんな違う仕事してるじゃん。今だけの辛抱だよ」

「今が一番大事なんじゃないの? 大人になるまで生きていられる保証もないし、大人になったら、中学生の頃、もっと自分らしく生きておけば、こんな普通の大人にならなかったのにって、後悔しないかなあ?」

「そんな難しいこと、わかんないよ」

 彼は道端の石を軽く蹴りながら、つぶやいた。

「史ちゃんならわかると思ったのに」

「勝手に決めないでよ」

 今なら、もっと考えて、ちゃんと答えたいと思ったことだろう。

 だけど、当時の私はただの中学生だった。しかもごく限られた世界で、限られたことだけを考えて生きることをよしとしていた。だから、わからないことはわからないまま放置した。

 なんであんなことをしてしまったのだろう。渚君は、せっかく私をわかる人だと認めてくれていたというのに。

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