第8話

 新学期に入ってから間もなく、渚君の欠席が目立つようになってきていた。

「澤田さん、今日渚君の家に行きますので、あなたも一緒に来てくれませんか」

 三時間目の国語の授業が終った後、先生から声をかけられた。いつの間に、私は渚君担当になってしまったのだろう。

 先生はいつもの通りぴしっとした格好で、鞄を持って、つかつかと歩いている。考えてみれば、あまり先生と歩いたことはなかった。歩き方まで几帳面な人だ。

 玄関では、いつぞやのポピーが元気に咲いている。インターホンを鳴らすと、私服の渚君が現れた。

 ちょっとばつの悪そうな顔をしながらも、私たちを部屋に招き入れ、お茶とお菓子を用意してくれる。

「すみません、母さんは、母は仕事が休めなかったので、僕一人で」

 先生は頷いた。

「あなたは最近、学校へ来ていませんが、何かよくないことでもあったのですか?」

 渚君は真っすぐ先生を見た。

「朝、起きる理由が、みつからないんです」

 思わず噴出しそうになったのを、一生懸命我慢する。

「朝起きる理由、とは?」

 先生はあくまで冷静だ。渚君はちょっと考えこんだ。

「僕は、自分が何をしたらいいのか、よくわからないです。今まで何も考えずに、ただ学校へ行っていたけれど、このまま今までのように、惰性で学校へ行くのは正しいことではないのかもしれない、そう思ってしまったんです」

「中学生は、義務教育なので、学校へ行くことが義務なのは知っていますか」

「たとえそういう法律があるにしても、僕はもっと、自分が何をするべきか、考える必要があると思います」

 先生は、じっとこらえて何かを考えている様子でいる。

「では今は、毎日何をしているんですか?」

「図書館へ通っています」

「図書館?」

「……公民館の図書室です」

 わりと地味なことをしているなと思う。

「現実的に考えて、少ないお小遣いでどこか遠くへ行かれるわけでもないし。今すぐここだと思える場所もないし、これだと思えることもないし、だったら、幅広く色んな情報を得ることが必要だと思いました。不特定多数の人に広く普及されている一般知識じゃなくて、僕が本当に知りたいと思う特異性のある何かが、見つかったらいいなと……」

 いつもの会話より、難しげな熟語が無駄に多い気がする。図書室通いの影響か。

「わかりました」

 話が途切れると、先生は姿勢を正した。

「では、折衷案として、こうしましょう。あなたは学校には来ていないけれども、自習しているとのこと」

 なんて前向きな解釈をしてくれているのだろう。普段の先生の様子からは、ちょっと意外な意見だ。

「私は担任として、あなたがどんな勉強をしているのか、そして、どの程度の知識を身に着けているのかを監督する必要があります。なので、毎日今日はこういう目的で、こういうことを調べて、こういった成果が出た、そういうことを、レポートにまとめて提出して下さい。もしそれができないようであれば、学校へ来ないといけません。考えるのも大切だけれど、とりあえずやってみないとわからないこともあります」

 渚君は何も言わずに、じっと先生を見ている。

「お金を貯めて何かをしたいのであれば、高校生になってからがよいでしょう。中学生じゃあ、どこも雇ってくれないですよ。それまでに色々調べておいても、無駄にはならないことでしょうよ」

 ちょっと渚君の表情に変化があった気がした。ひょっとすると、こっそりアルバイトしようとでも思っていたのかもしれない。

「それと、中間テスト、期末テストだけは必ず受けて下さい。また、授業中の小テストを受けないことで悪い成績がついて、後で高校に進学したいなあとなったときでも、成績のことはあきらめて、ちゃんと受け止めて下さいね。もしそうなっても、私はあなたを助けられません」

 渚君は顔をしかめながらも、頷く。

「それに、……つけ加えが多くてすみませんね、みんなも、あなたが来ないから寂しく思っていますよ。生徒だけじゃない、最近教室が静かで、授業がやりやすすぎて張り合いがない、という先生もいましたよ」

 渚君が、ちょっと笑った気がした。

 帰り際に、玄関を一歩出てから、

「ああ、大事なことを言い忘れていた」先生が慌てたように、再びつけ足す。

「公民館の図書室ではちょっと狭すぎますね。せめて隣の市にある駅前の図書館に行くようにして下さい。そこは申し訳ないが、親御さんに頼んで交通費を出してもらって下さい」

「はい」

 そうして私たちは渚家を後にした。

 そのまま家に直帰してもよかったのだけど、先生に訊いてみたいことがあったので、用事があるふりをして一緒に学校に戻った。

「あの、先生は何故渚君に寛大なんですか?」

 先生は怪訝そうな顔をした。

「私は誰にでも寛大だと思いますが」

「でも、遅刻しても怒らないし、今日も、自主学習すればいい、ってことにしたり」

「私のやり方が正しいと思わない人も多いでしょう。でも、私は、少なくとも現在この方法が最適だと思われることを行っているだけです。あの子は、普通、という言葉はあまり好きではないけれども、平均的なことには向かない子だと思われます。好きなことには寝食を忘れて打ち込めるけれども、嫌いなことを行うのは苦痛でしかない。

 みなさんからはそうは見えないかもしれないけれど、彼は決して怠けているわけではないのです。彼なりに、一生懸命色々考えて、向上したいと思っているのです。それを助けるのが、私の仕事です」

 そんなもんかなあと思いながらも、屁理屈のような気もしないでもなかった。でも、先生なりに真剣に考えているのは伝わってきた。

 今いいと思ったことが後になってもいいことであり続けるわけではない、しかしそのときそのときで、自分で判断して、いいと思うことをとりあえず決めていかなければいけないのだ……今から思うと、こういう振る舞いをするのは、けっこう大変だったんじゃないかと思う。それに、先生が思っている渚君像が、私の思い描くそれと近そうなので、安心したのもあった。

「ちなみに、私はどういう子なんですか?」

「それは……、そんなの本人の前では言えませんよ、企業秘密です。だから、今の話は渚君には内緒ですよ」

 そうこうしているうちに、校門が見えてきた。

「渚君、早く諦めるような気がします」

「どうしてですか?」

「先生の課題は、毎日授業に出ることより彼にとってはきついかもしれません。あの人、目標立てるのと、文章を書くのが、苦手らしいですよ」

「おやおや、それは」

 先生が笑うのを、初めて見たような気がした。

 渚君は、それから一週間ほどは学校へ姿を現さなかったが、二週間目から毎日登校するようになった。

「やっぱり、僕、目的を持ってとか、苦手。でも、文章を書くのは面白いなあとちょっと思ったよ。それに、市の図書館はすごく面白かった。いろんなことがわかるね」

 月曜日はお菓子の作り方の本を何冊か読んだ。お菓子のほとんどは、小麦粉、バター、卵、砂糖からできた生地を180℃~200℃くらいで焼いてできるということがわかった。

 火曜日は、画集を何冊か見た。文章がたくさんあったけれども、読む気が起こらなかった。絵に興味が持てないのに、もしくは絵をよく理解できていないのに、その絵について書かれた文章だけを読んても、意味がないのかもと思った。水曜日は……。

 本の選び方は、結局以前言っていたスイカ割り方式だったらしい。なのでテーマはばらばらで、目的は書かれておらず、調べたことと、その結果しか書かれていなかった(しかも、調べた結果というよりただの感想のような気もした)。

「植物の本は読まなかったの?」

 有泉先生が言った。

「植物の本……? まだ巡り合えてないから、僕の人生にはまだ関わってこないものなのかも」

「もう少し図書館通いを続けた方がいいんじゃないの」

 先生は冷たくそう言って、くすっと笑った。

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