早朝になると、爆音が鼓膜を突き刺す。頭が割れそうなほどの大音量の音楽が、徘徊する老人たちを引き留める住人を叩き起こす。町は年寄りだけだ。近隣の老人たちが支え合っている。

 ダックは民家の空いている寝台の中に潜り込み、夜を明かしていた。部屋の角に沿えた寝台が三つある。老夫婦が使っている寝台が一つ、空の寝台が二つある。丸みを帯びた小石を繋ぎ合わせた敷物が四つ足の寝台に敷かれており、彼はそこに横になっていた。色褪せた天蓋カーテンを承諾も得ずに下ろし、浅黒く焼けた指先を搔いている。


 ——女のところに行こう。


 天蓋を潜り、台所へ向かう。竹で網目状に結われた半球の蓋を開けると、蓋にとりついていた蠅が飛ぶ。昨日の夕飯の余りが皿に乗ったまま置かれている。素手で豚足を掴み食い散らかす。指を舐め、家を出る。

 ダックは都会ハノイへ向かった。姿が見えぬことをいいことに、レンタカーを盗み路上を走り出した。時間が経てば終わると思った。逃げ、耐えれば多くのことは過ぎ去った。ハンドルを切る。何年もこうして運転をしていた気がする。

 スピードを上げる。隣接している車を追い抜く。


 ——お客さん、観光ですか。

 娘が結婚するんだ。

 そりゃあいい、たくさん自慢できる。——


 信号の前でブレーキをかけた。車体を無数のバイクが囲んでいる。三つ目の信号が青くなると、四輪車を泳いで避けていく。ハンドルを握った両手は汗ばんでいた。両眼を大きく開けてじっと下を向いていた。


 ——空港の送迎タクシー運転手だった。空港で大荷物を抱えた客を捕まえ、目的地まで運ぶ。逆だった時もある。車が運転さえできれば誰でもできた。

 むっつりと口を閉じ、一人で煙草を咥えては女を買っていた。三十万で生娘を買ったと声に出しもした。誰もがしないことを実行する。自身が生む価値を信じていた。

 感情は制御できないものだった。何かあれば暴力で解決した。無視をされる、反抗される、すべてが癇に障る。妻は反骨精神が強く、降りかかる暴力に歯向かい続けていた。解消できない憤りは家の外へ向かった。ダックは家を出た。

 妻の貯金から半分の財産を盗み、数年は遊んで暮らした。女と遊び飲み歩いた。後先考えず札束をばら撒くのは自分が偉大な人間にでもなったようだった。

 女に声をかけるのをやめた日はなかった。心地の良い言葉を投げるのは札束と同じで、一時でも彼を特別な何かに変えてくれる。

 酒もそうだ。すべてが彼のためにあった。そして金は尽きた。


 幸いだったのは、生活が脅かされれば矜持を捨てるのに余念がなかったことだ。

 彼は妻の足元に頭を擦り付けた。妻は頷いた。小さな子どもを胸に抱えて、生活を壊した男を再び受け入れた。

 ダックは変わらなかった。遊び場と範囲が変わっただけだった。子どもが大きくなっても昼夜問わず夫婦は喧嘩に明け暮れた。


 娘の晴れ姿が見れればいい。


 酒の場でダックは言った。好き勝手に生きた。後悔はない。臆病で、一丁前に自尊心を持っておきながら、人並みに人を愛せるつもりでいた。愛していたから頭も撫でた。彼ができる愛情表現だった。


 ハノイは縦長のコンクリート仕立ての建物が何棟も並んでいる。小さな店の上に三から四階の家を建てている。貧民層は縦長の家々の間ろじうら——人が二人並んで歩く隙間——を突き進んだ先で小さく暮らしている。家に入ってすぐにベッドとテレビが一つずつ、そして家族全員の衣類がまとめられた棚が入った四畳半の部屋がある。扉もない出入口を挟んで居間がある。奥に突き進む路地裏に面した扉を開けると、洗い場も含めた台所が外にある。食材を叩くのは大きな平らな岩の上。路地裏では子どもたちがバトミントンを手に、羽を五階まで高く上げようと遊んでいた。


 ダックは歩道に片輪を乗り上げて車を停めた。外に出ると慣れ親しんだガソリンのにおいが肺をいっぱいにした。

 路地裏に入る。家の前で吠えたてる番犬から足を遠ざけ、中を覗く。車の中に戻った。覚えている女の家を見て回った。知っている顔はどこにもなかった。

 ハンドルを指で叩く。わかっていたことだ。内戦が終わってからは、特に住居の移動が激しい。出稼ぎに海外に行き、国内にいないこと自体が珍しくない。

 兄弟は頼れない。妻の金を流したことはあるが、仲は良くない。彼が生きるためにはアイデンティティが必要で、それが見栄や矜持だった。形にしてくれるのが金だった。

 自分の死に様を頭から追い出す。

 孤独に死にたくなかった。人生を締めくくるには子どもが必要だった。今手元に財産はない。すべて使い切った。ミンが羽織っていた古い上着、その一着しかない。

 シフトレバーをバックギアに切り替える。順路を変え、娘のもとへ車を走らせた。運転は荒く、乗っていた娘は常に顔を青くさせていた。タイヤが時折宙を飛んだ。


 義祖父母の家に戻ると、ミンは箒で蠅を叩いて遊んでいた。上着の裾は地面に擦れて摩耗している。ダックが入ってきたのに気づくと、彼女は手を動かすのをやめた。

 番犬が立ち上がって唸りだす。箒が犬の足元を叩いた。鼻を鳴らすような鳴き声をあげると、小屋の中に体を収めた。

 ダックは上着を脱ぎ、彼女の頭に被せた。


「着ろ」


「……くさい」


「お前が着てる服よりいい。嫌なら母さんに買ってもらえ」


「ママがもったいないからって……」


「じゃ、着てろ」


 ミンは上着の中で頬を膨らませた。大きな上着を引っ張って下ろそうとする。


「なんで帰ってきたの?」


 ダックは顔を背けて、唇をぎゅっと結んだ。


「母さんに聞け」


 ミンはむっとした。上着を腕に抱えなおし、文句を言おうと顔を上げた。父はいなかった。上着に染み付いた父のにおいだけが残った。死んでからも、なんて自分勝手な人なんだろう。



――――――――

 ダックは家にいた。すり潰した香草とひき肉を混ぜたもの、野菜のスープ等が床に並べられている。食器は二人分、量は四人前。彼は足を崩して座っていた。腹の膨らんだスアンが「服は?」と尋ねた。


「捨てた」


 素っ気ない答えに、妻は怒気を滲ませて詰め寄った。


「はぁ? まだ使えたでしょ! もったいない」


「いいだろ、新しく買えば」


 がみがみと煩い女を無視して、ダックは粘ついた米を口に入れた。麦色の缶ビールを傾け、喉に流す。妻が酒を隠すようになって、一日に出てくる酒の数は限られていた。隠れて買ったビールを昼に飲む。帰れば、妻が買って冷蔵庫にいれたビールを飲む。


 彼は、日本のキリンビールが好きだった。




あとがき

 読了ありがとうございます。

 以下、明記しておいたほうがいいだろうなと思って書いてます。


 死因について:死因は直接言及しません。ダックの性格からして直視するのは厳しいと判断したため記載していないです。描写を読んでいただくと、大体の死因は読み取れると思っています。


 以上、今後ともよろしくお願いいたします。

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古びた上着 秋花/道明煌々 @akika_73990

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