古びた上着

秋花/道明煌々

 ダックは灰色の背広を持ち出していた。試験を迎える時も、妻に婚姻を申し込む時も、その背広に袖を通していた。使い古した生地は水を跳ねなくなり、撫でると荒い手触りがした。彼は人前に立つための服を他に持っていなかった。

 商店街の屋根に絡みついた赤と紫の花々は、揺れ一つ見せず垂れさがっている。黒が滲んだ平らな壁、灰色の空、ベトナムではよく見る光景だ。

 空気は乾燥していた。左右から砂煙を飛ばしてバイクが横切っていく。路上の能天気な笑い声がエンジン音に紛れて耳朶を叩く。腹が立った。自分がここまで苦労しているのに、道端の男たちはテーブルを囲んで安っぽいイスに座り、仲間と酒を交わしているのだ。数日前までダックもその一員だった。妻が席を立たせた。彼女の腹はバスケットボールを抱えたように膨らんでいた。

 ゴミの山をリヤカーに積んだ老人が視界の端で歩いている。路傍に捨てられた小さなゴミを集めている。惨めが人の形をして歩いていた。あんな労働だけは死んでもごめんだった。

 頭まである塀を横切る。白い塀の上は割れたガラス片を埋め込み、害獣の侵入を拒む。彼はいつもの習慣で市場に向かっていた。

 元気の発泡酒を得るクズ紙ならポケットの中に入っている。妻が生活のためだと言った。いつもは決して渡さない額だ。

 雑多に並んだ露店の列はガラス張りの食料雑貨店まで続いている。露店の店先に首を裂かれたばかりの鶏が逆さになって吊られている。滴る鮮血が真下の両手鍋に溜まっている。捌かれた鶏肉と生臭い臭いが混ざっていた。露店の隙間を縫うように歩く。地面に粗雑に置かれたへこんだ深鍋がある。カチカチと音が鳴る。数匹の生きた蟹が挨拶をしていた。

 ダックは食品雑貨店のガラス扉を手で押し開ける。入店してすぐ横に設置してある高さ一四〇センチの募金箱――誰が入れているのか、くしゃくしゃの札が半分以上の面積を埋めていた――には目もくれず、発泡酒が陳列した棚に足を向ける。


 333バーバーバーか? それともサイゴンか。どれも赤と緑が特徴的なラベルだった。彼は日本のキリンビールを好んで飲んでいた。高い物は美味い。目当ての物に手を伸ばす。


「買っちゃだめだよ」


 子どもの声が横から飛んできた。ダックは缶を掴む。服の裾を引っ張られる。「だから、買っちゃだめだってば」

 視線を下げる。子どもは一三〇センチを少し越えていた。尻まで覆い隠すボロボロの上着を羽織っている。目つきが悪い。ダックは眉を顰めた。

 無視して缶をレジに持って行こうとする。両腕を広げて阻まれる。赤味が入った黒目の瞳が、じっと睨みつけてくる。


「それ、買っちゃうと死んじゃうよ」


「俺は数えきれないくらい死んだな」


 鼻で笑うと、少女は言葉に詰まった後に頷いた。


「うん。だから、買っちゃだめ」


 非力な子どもだ。押しのけてレジに向かうこともできた。手を伸ばすと、怯えたように肩を震わせた。唇の端が上がる。


「買わなかったら、代わりにチビは何をしてくれるんだ?」


 少女の頭をぐしゃぐしゃに撫で回す。子ども特有の小さな頭が手の中に収まっていると、征服欲が満たされて気分が良かった。


「あ、あそぶ……」


「あ?」


「遊んであげる! わたしが! お……おじさんと!」


 ダックは眉を上げた。彼女は緊張で口を一文字に結んで、肩を上下させている。勝気な瞳が彼を見上げていた。褐色の虹彩に天井の明りが反射して、宝石のようなきらめきを放つ。ダックは頷いていた。


 少女の名前はミンと言った。歳は十に満たないほどだったが、それにしては些か肉付きが悪く、背丈も低かった。

 なにで遊びたいのか尋ねると、目に見えてミンは狼狽えた。思ってもないことを口にされて戸惑いを隠せない様子だった。上着の腰ポケットに両手を突っ込んで目を泳がせる。

 ダックは両眉を上げて口の端に力を込めた。


「まっ、待って! 考えるから……」


 ミンは辺りを見回した。道路の端では戦争の大穴がまだ残っており、子どもたちが集まって覗き込んでいる。行軍する緑の兵隊を目にすると、たちまち蜘蛛の子を散らすように逃げる。一列に並んだ五人の兵は、表情を固めて正面だけを見ていた。

彼女は無事な歩道を指差した。誰かの忘れ物なのか、二本の細い街路樹にゴム紐が通してある。


「あれで遊びたい」


 恐る恐る顔色を窺うと、彼は露骨に嫌な顔をしていた。

 ゴムを足先にひっかけては捻って遊ぶのだ。身軽な子どもが対面で飛び合っているのを幾度か見たことがある。経験はない。彼の幼少期はベトナム戦争が勃発していてそれどころではなかった。


「ガキならもっと面白い遊びにしろ」


「……でも」


 渋る彼女を置き去りにしてダックは逆の方向に歩き出した。慌てたミンが追いかける。


 人がみっしりと詰まったバスに乗り込む。ミンが行先を尋ねる。ダックは黙ったままだった。

 バスに揺られてしばらく経つと、大きな遊具が並ぶ遊園地に着いた。ミンは顔を青くしていた。日頃、母のバイクで風を感じていた彼女には慣れない密室と揺れだった。

 ダックは手を振り上げた。一度吐いてしまえば酔いも落ち着くだろうと思った。

 ミンは胸元をぎゅっと握りしめて後退りをした。当惑した。揺れる瞳でこちらを伺ってくる顔に見覚えがある。妻は怯えた顔は見せない。このガキは、誰に似ている?


 一通り人が捌けたのか、出入り口に人はいなかった。受付にチケット代十万ドンを置く。声をかけるが誰も出てこない。痺れを切らして机を殴りつけると、怒鳴り声が返ってきた。

 風船の代わりに腹を膨らませた中年男がレジ向こうの扉を潜って現れる。レジ前のカメラを一瞥して、透明な板の向こうで眉を顰めている。くしゃくしゃの札束とチケットを一枚交換する手つきは荒々しい。


「一枚ねえぞ」


 返ってきたのはチケットと六万ドン。何度見ても、ホーチミンの肖像が印刷された札束に交じったチケットは一枚だけだった。

 ミンが背を伸ばしてチケットを受け取り、机を爪で叩く彼の手を引っ張った。


「いこ」


「頭おかしいのか? 足りねえ」


「大丈夫だよ」


 彼女の言葉は正しく、一枚のチケットで十分だった。スタッフはチケットを受け取ると、不愛想に破った半券を返した。

 園内は最近開園したと耳にしていただけあって盛況だ。ミンは車酔いも吹き飛んだ様子だった。どれもこれも視界に入れては間抜けに口を開けてぽかんとしていた。


「あ、あれ! 乗りたい!」


 彼女は回転ブランコを指出した。一本の軸を中心に、円形に複数のブランコが吊り下げられている。空高く舞い上がった子どもたちは歓声を上げていた。

 ダックは煙草を取り出して口に咥えだした。火を付けると煙の向こうから声が聞こえた。


「……乗らないの?」


「子どもの遊び道具で遊ぶ歳じゃない。遊んでこい」


 手首をひらひらと振る。視界は吐き出した煙で満たされていた。途方に暮れた顔でダックを仰ぎ見るミンの姿は見えなかった。小さな足音が耳に入る。遊戯に乗るためのチップは彼女のポケットの中に入っている。

 小さな子どもが人間の列に紛れて埋まる。子どもなんて、一人で勝手に遊んで満足するものだ。大人は必要ない。ダックだって親と遊んだ記憶はない。


 愛想笑いが上手い両親は不発弾であっけなく死んだ。ちょうど里帰りしたダックの目の前で家が燃えていた。隣にいた兄の子どもたちが、呆然と火がくすぶる屋根を見つめていた。

 何も知らない妻は両親を優しいと言う。毎年、灰色の写真立てに両手を合わせて線香を立てるのは妻だけだ。

 人は他人によく見られようとするものだ。その方が生きやすい。その点、我が子は勝手に好いてくれる。だから、どんな親も子への扱いはぞんざいだ。

 誰も愛さなかった。それが強い自尊心を生んだ。妻の金を兄弟に流すのも、そうすることで自分が優位に立った気持ちになった。彼のしてきたことは何一つ為にはならなかったが、人生を豊かに見せた。

 回転ブランコに乗るミンが見える。宙に飛んで、手を振っている。――地面の上では色褪せていたが、彼女の着る上着はダックの背広によく似ていた。

 戻ってきたミンは他の遊びを強請った。ダックはどの遊具にも乗らなかった。


 時計の短針が三時を差す頃、ミンがダックの腕を引っ張って帰りを促した。彼も五本目の煙草を失い、手持ち無沙汰になっていた。


「家はどこだ?」


 訊くと、彼女は「ニンビン」と答えた。ハノイよりも下にある田舎だ。妻の父母が住居を構えている。もしかしたら近くに住んでいるのかもしれない。

 来た時と同じようにバスに揺られていると、ミンが口を開いた。青い顔に影が差して死人のようだった。


「……おじさんはどこに帰るの?」


「さあな」


「家に帰るんじゃないの?」


 彼の家には妻がいた。だが帰らなかった。

 妻との関係は見合いから発展したものだ。終戦直後に籍を入れ、共に海を渡って内戦から逃げた。友人は爆発の圧力で割れた壁に押し潰されて死んだ。渡航仲間は船に積載されていた木材が腹に刺さって死んだ。途中で産まれた子どもは育てられなくて捨てた。残っているのは妻だけだ。

 ダックは運が良かった。彼の身体は小さかった。兵士ではなく機械整備の職を得られた。すべては、彼の運と、努力が彼を生き長らえさせている。


 小さい手がダックの裾を掴んでバスを降りる。辺りは暗かった。レンガを積み上げ、モルタルを塗り込んで四角に固めた建物が並んでいる。住宅を取り囲む白い塀が、月光に照らされ淡く光っていた。

 ミンは砂利道を蹴飛ばすように歩いている。小さい足にしては一歩が性急で今にも転んでしまいそうだ。

 目の前の少女を家に送ってから、彼も帰路に着こうと思った。彼の帰路は考えなかった。

 塀の角を二度曲がると、見知った家が視界に入った。屋根の付いた緑の鉄格子が入口にある。鉄格子の向こうに石畳みが敷き詰められた狭い庭と、けたたましく吠える番犬、よく逃げ出す鶏に、井戸がある。来客用の家と妻の父母の家が並んで建っている。右隣の家は他人の家だが塀の隔たりもなく行き来ができた。娘がよく遊ぶ子どもがいたはずだ。


 ――娘? 首を傾げた。彼の子どもはまだ産まれていない。


 鉄格子から悲鳴があがった。ミンの姿はなかった。急いで中に入ると、家の明りが庭を照らしていた。両開きの玄関ドアが開け放たれ、壁際では三メートルはある神棚にホーチミンが祀られている。

 光明に照らされた誰かの長い影が庭に沈んでいた。小さな塊――ミンを抱きしめている。


「どこへ行ってたの! 急にいなくなって……」


 ミンを抱きしめている大きな塊が喋った。聞き覚えのある声だ。当然だ。二十年耳にしてきたのだ。そして、次に鼓膜を叩いた言葉に耳を疑った。


「ごめんなさい、ママ」


 ぽつりと、小さな声でミンが呟いた。


 妻のスアンがミンの小さな肩を抱いて、土間のない家に入る。脱ぎ捨てられた外靴は、開かれた玄関ドアに寄り添うように散らかっている。

 お腹空いてるでしょう。さあ、中に入って。お婆ちゃんとお爺ちゃんにも挨拶するの。心配していたんだからね。――ごめんなさい。お婆ちゃん。お爺ちゃん。――うんうん、お婆ちゃんを悲しませないで。――座って。お婆ちゃんはとても悲しかったんだよ。お爺ちゃんもだよ。――うん、ごめんなさい。――もうやらないって言うんだよ。――もうやらないよ。――よかった、よかった……。

 ソファに腰を沈めたお歯黒の老夫婦がミンの肩を、膝を撫でている。タイルの床には砂が舞っており、素足を汚した。日頃箒で掃いているだけの床は猫も出入りする。餌を食べにくるだけの青い瞳の猫だ。今日はいない。


「俺に子どもはいない」


 スアンが床にゴザを敷いている。中心にスープを置き、茹でた豚足と野菜を載せた皿を疎らに置いている。囲んだお椀の数は四人分だ。


「手癖の悪いお前が勝手に拾ってきたんだ! そうだろう!」


 スアンの肩を掴もうとした。手は素通りした。触れた箇所からすり抜けていく。伸ばした右手を見る。自分の体に触れる。血色のある、肉の体に違いない。全身の血が抜けていくような錯覚に陥った。


「……ふざけるな」


 白い大型犬が大きく吠えている。吠える犬に向かってスアンの母が怒鳴る。耳朶を殴りつける鳴き声は唸り声に変わる。身を潜めた小屋の中から、じっとダックを見ている。

 彼の憤りは、犬小屋の暗がりから漏れ出る低音が長く続くに連れて膨らんでいった。不明瞭な出来事に頭が回らなかった。俺が見えない? そんなはずはない。間違いなく、彼はここに存在する。その証拠に、目の前にいる少女は彼を見ている。


「パパは四年前に死んじゃった」


 ダックとすれ違うと、庭を出たミンは犬に近寄った。彼女が撫でると、永遠に続くかと思った騒音も静かになった。背中を丸めて、なすがまま撫でられる犬の首を掻いている。汚いからやめろと、スアンが声を荒げている。


「パパっていっても、会ったことは数回しかなくて、あんまり覚えてない。ママが言ってた。パパは色んな女の人と遊んでるって。お金を盗んで出て行ったって」


 だから、と続けてミンは言った。ダックの顔は見なかった。彼女の影は犬小屋に隠れて沈んでいる。夜空を落とし込んだ長い髪が、震える肩から零れた。


「パパが嫌い」


 思わず、殴りつけた。小さな体が容易に地面に転がった。猟犬が歯茎まで剥き出しにしてダックに噛みつこうとする。数歩後ろに下がった彼に、リードで繋がれた犬では届かない。ピンと伸びたリードを煩わしそうにして、何度も地面に唾液を吐きかける。

 顔が真っ赤になった。熱で頭が沸騰しそうだった。

「お、おれに、子どもなんていない」

 殴られた頭を抱えて、ミンは大きな両目から我慢しきれなかった涙を零した。突然訪れた痛みに驚いていた。彼女は子どもだった。しゃっくりをあげながら父親を見上げた。


「ママはパパを見捨てなかった! パパがお金を盗んだって、女の人と遊んだって、ママはいつも〝パパを迎えに行こう〟って言った! パパにはママしかいなかったから! だから許した!」


「知らない話をするな! 俺はお前の父親じゃない!」


 必死に否定した。ミンの言葉が真に迫っていたからではない。彼は馬鹿ではなかった。黙らせようとしても、目の前の猟犬が威嚇する。彼女の口は止まらなかった。


「噓つき。パパなんて嫌い。勝手に死んじゃえばいい。なのに、パパは知らん顔で歩いてた。自分のやったことなんて知らないって顔で!」


 ダックは首を振った。


「し……知らない」


「知らなくない! パパのせいでママがいつも馬鹿にされてる! 噓つき! 噓つき!」


 大声をあげて、ミンは泣きだした。駆け寄ったスアンが転んだのかと擦りむいた足を見ている。小さな娘が妻にしがみつく。老夫婦が笑って「まだ子どもだから」と口にする。ダックの場所はない。

 何一つ覚えはなかった。だが、彼らの中でダックは死んでいるのだ。それも、娘と名乗るミンにしか触れられないし見えない――正確には野蛮な犬もだが! 死んだ理由が思い浮ばなかった。彼は今泣かせた娘のために働こうと尽力していたのだ。感謝されることはあっても、否定される謂れはない。

 ダックを突き動かしたのは長年育んできた自己愛だ。彼はむっつりと口を閉じて、鉄格子の扉から出て行った。少し歩けば朝になるだろう。この国の日の出は早いのだから。

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