三.哀れな女

 桃子がマンションの前まで来ると、既にパトカーが何台か到着していて、テンションの高い光を撒き散らしている。その横に二人程警官が、マンションへ突入せずに固まっているので、桃子は取り敢えずその人達から状況を聞くことにした。


「堀川一条交番から応援に来た沖田です! 状況は……」

「お! 婦警さんか! あとはよろしく!」

「はい?」


彼らはポンと桃子の肩を叩くと、そのままマンションの中へ駆け込んで行った。


「婦警だったらなんですか! このご時世に時代遅れな男社会め!」


桃子が怒り狂って地団駄を踏んでいると、


「あえええええ!!」

「なんとっ!?」


急に背後から赤ん坊の鳴き声が。桃子が振り返ると、そこには赤ん坊を抱えた女性が。


「あー、ごめんね? 大丈夫だからね? すいません、娘が泣いてしまうので、ちょっと静かにお願い出来ますか?」

「あっ、はっ、すいません」


女性は長い髪をポニーテールにまとめてエプロンを着た、如何にも家事を頑張るスタイル。


「あ、もしかして」

「はい。生田目の妻の梓です。夫が暴れて危ないので、保護していただきました」

「そうですか。その、なんか、お疲れ様です?」

「はは」


なるほど、女性を保護しているなら、野郎より婦警である桃子が側にいる方がいいということで、彼らはバトンタッチしたのだろう。そりゃその方が女性は安心するだろうが、


「もう少しでお家帰れるからね〜」

「あの、結構落ち着いてらっしゃいますね」

「そう見えますか?」

「えぇ、まぁ」


梓は身体を揺すって上手に赤ん坊をあやしている。


「そんなことないですよ。内心動揺していますし、子供がいるから取り乱していられないだけです。ギリギリですよ」

「そうですか。失礼しました」

「いえいえ、でも……」


梓はピタッと止まった。その後すぐにまた動き出しはしたが。


「でも?」

「夫はここのところね、ずっとおかしかったんですよ」


梓は子をあやす動きは止めないが、顔は少し俯いてしまう。


「大学で知り合って、付き合って、結婚して、支え合って、娘が生まれて……。そうやって幸せに寄り添って生きて来たのに、三日前急に『お前とは結婚も付き合った覚えも無い』と言い出したんです」

「なんと!」

「それどころか『俺の妻は澪だ』『子供は話し合って「まだ」って決めたのにあり得ない』『ここは俺の家じゃない』って。その上『家に帰る。仕事にも行かなきゃいけない』って言い出して東京に行こうとしたり、『あなたの会社はここよ』って教えても『そんな会社知らない。行き方も分からない。俺の会社は東京のナントカって会社だ』っておかしなことを言うし……」


遂に梓は泣き出してしまった。


「澪って誰……? 私とこの子はそんなに認めたくない存在なの……? 私、そんな嫌われるようなことした? いけないお嫁さんだった? 私達の七年間はなんだったの?」

「あの、ちょっ」


夫に拒絶され、それどころか今まで過ごして来た時間から愛の結晶である娘まで、全てを否定されて心がボロボロなのだろう。さっきまでは緊張状態と娘を守るのに精一杯で麻痺していたが、落ち着いた状態で全てを口に出すと、痛みが沁み始めたようだ。こうなってしまうと婦警だろうがなかろうが関係無く、桃子にはどうすることも出来ない。

だが困り果てた桃子がどうにかするまでもなく、梓は鼻を啜りながらも自分で呼吸を落ち着けて、さっきより幾分芯のある声で続けた。


「だから私、大丈夫です。夫はずっとおかしかったから、急に暴れ出してもそこまで驚かずに済みました。いえ、その内物理的に暴れるだろうとか思っていたわけじゃありませんけど」


梓が我が子を抱く腕に力を入れて顔を上げると、


「放せーっ! 放してくれっ! 俺を帰らせてくれ!! 澪のところに返してくれぇーっ!!」


警官達に両脇を抱えられた男が喚きながらロビーを出て来た。


「うっ……」


梓は声を詰まらせて、こちらに背を向けてしまった。


「うぅっ! チクショーッ! なんだよっ! なんでこんなことになってんだよっ! ああーっ!!」

「さっさと歩け!」


男は頭をぶんぶん振ったかと思えば、と力無く項垂れてパトカーに押し込められる。そのままパトカーは、耳に障る音を残して走り去って行った。


「夏くん……!」


パトカーが見えなくなると同時に、梓はガクッと膝を着いてしまった。赤ん坊を取り落とさなかったことだけが、唯一残った母親の意地である。


「うっううっ……、うぅー……!」


啜り泣く梓に、桃子は何を言ったらいいのか優しく摩ればいいのか、もう何も分からなかった。取り敢えず分からないなりに、このまま彼女を近所の野次馬への晒し者にしていいことだけは無いと考えて、どうにかこうにか支えて部屋に戻らせるのが精一杯だった。


 ひっくり返ったテーブルや椅子、割れた窓ガラスや部屋の灯カバー、穴の開いた壁、そこら中に投げ出された時計やらなんやら小さな家具、割れた幸せそうな家族の写真立て。

この辺りをそのままにしておいて良いわけも無かったが、今の梓にはとても片付ける気力は無さそうだし、桃子にもどうにも出来ない。スキルの問題もあるし勝手なことも出来ない。

つまり桃子にはもう出来ることが無く、ここにいてもしょうがない状態であった。だが、それでも幸せが崩れ去った部屋で我が子をひしっと抱き締めて座り込む梓を見れば、一人にして立ち去って良いものか一人にしてやった方が良いものか桃子には判断が着かず、梓のいる寝室の入り口を一歩出たところで、変な気を起こさないよう見張っているのが精一杯だった。

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