四.肚の内はもつかそれとも
その日も暮れて晩。遣る瀬無い桃子は、自転車も漕げずに手押しで紡邸までやって来た。桃子が門に目を遣ると、そこには紡が仁王立ちしている。この寒い季節の屋外で、雪椿の柄の唐装漢服に、絵の具の原色で染めたような赤青白黒金五種類の布を腰から垂らしている。
「あれ。どうしたんですか紡さん? そんな格好してこんなところで」
「あまりにも悲しんだ気配が近付いてくるから」
「そりゃまぁ悲しんでますけど、それがそんな気合い入れて迎撃しなければいけないものなんですか? まさか私の相手がメンドくさいから締め出してやろうとか!?」
「……」
「……紡さん?」
紡は腕を組んだまま、じっと桃子を見詰めて何も言わなかった。
「紡さん?」
桃子がもう一度問い掛けると、紡はくるりと振り返って玄関の方へ歩き出した。
「早とちりだった。寒いから早く家に入ろう」
家に戻った紡は、躑躅柄の浴衣に着替えてリビングに戻って来た。
「あの格好は肩が凝る」
「じゃあ着なければいいのに」
「うるさいよ」
紡が着いた食卓にはカセットコンロが置いてある。そこに
「はーい、危ないですよー。どいてどいてどいてー」
雪割草の柄の振袖に弁柄色の袴のつばきが土鍋を持って来る。熱さを感じないはずだがしっかりと耐熱手袋をしている。
「おぉ! お鍋ですか!」
「それももつ鍋ですよ。エネルギー抜群!」
「それはイカしてますね!」
「イカじゃない、もつ」
「そうじゃなくて」
三人ともグラスに大瓶のビールを注いで乾杯、コッテリテカテカのもつを一口。
「背徳的に美味い!」
もつは脂が甘く、歯応えもクニュクニュとして噛み応え抜群。噛む度ジュッと素材とスープの旨味が何度も溢れ出る。それをキリッと冷えた苦いビールで流し込むと、えも言われぬマリアージュが完成する。否、マリアージュなどという上品な言葉では的外れなくらいの、野武士のように暴力的な長所の殴り合い。否、そんな御託すら余計な、美味い。もつの脂を吸ったニラも美味い。キャベツも美味い。美味い。ただ美味い。
「美味い! ビールのお代わり下さい!」
「はいはい」
紡は桃子のグラスにビールを注ぎながら笑った。
「元気になったね」
「え?」
「あは。悲しい顔をしていたから」
「あぁ……」
紡は自分のグラスにもビールを注ぐ。
「良かったら話してみなよ」
「そんな深刻な悩みではないですよ?」
伺うように上目遣いをすると、紡は首を左右に振った。
「深刻だった方が困る」
「あは。カウンセラーの領域になってしまいますね」
ちょっと軽いノリが嬉しかった。なので桃子は話すことにした。まぁそもそも話に来たのだが。それでも、向こうから「聞くよ」と、「話してごらん」と言ってくれるのがどれだけ嬉しいか。
「……ということがありまして」
桃子は昼間の出来事を、マンションで梓を見守ったところまで一通り話した。
「はぁー、それは奥さん可哀想だね」
「離婚案件ですね」
「でも問題はここからで、紡さんに聞いてほしいのもここからなんですよ……」
桃子が長らく所在無気に梓を見守ってから、一旦報告に署へ戻ると、地域課はみんな困り顔だった。まぁ桃子自身も冴えた顔をしているとは言えないのだが。
「どうしたんですか?」
スポーツ新聞の大相撲コーナーを見ながら唸る近藤に、桃子はそっと聞いてみる。
「いやね、応援してる力士が降格しそうで……」
「そんなこと聞いてるんじゃないですよ」
「ボーナス出ないよ」
「そうじゃなくてですね! 私が聞きたいのは、どうしてこんな『主人公属する公立高校チームが、この冬必死に練習してきたからと自信満々で新人戦に乗り込んだら、インターハイ常連校に圧倒的力の差を見せ付けられた後のロッカールーム』みたいな空気になっているかってことですよ!」
「長いよ」
近藤はスポーツ新聞を折り畳む。
「昼間に連行した家庭内暴れ男の生田目だけどね。意味不明なことばかり喚いて、ちっとも聴取が進まないんだよ」
「はぁ」
「『澪のところに帰らせろー!』とか言ってさ、『澪って浮気相手か?』って聞くと『ふざけんな! 浮気なんかじゃねぇ! 澪は俺の妻だ!』って激怒。いやお前の奥さんはあの梓さんだろってね。でも『あいつは妻じゃない』『子供なんていない』とかもう大変。もしかして、監禁されて無理矢理同居生活だったのかと思って役所で調べたら、普通に何年も前に籍入れてんの。ご近所でも仲の良い夫婦って評判だったみたいで、もう何が何やら」
「ありゃー」
「そんで担当が『これ以上こいつと話してるとこっちが頭おかしくなる』っつって交代。結果全員疲れちゃった」
桃子が改めて地域課を振り返ると、確かに皆、髪や服装が乱れたり息切れや汗染みが目立つでも無いので、どちらかと言えば精神的疲労を抱えているように見える。
「奥さんに暴力を振るったわけでもないから、本来ならもう釈放するところだけど、あれじゃちょっと難しいな。一応逮捕にして数日様子見るか……。まさか勾留まで行かんと思うが」
近藤は溜め息を吐く。逮捕は最大七十二時間までの拘束が可能となる。その間に頭を冷やしてもらおうということだ。それ以上は勾留となり、勾留状が必要となる。つまり近藤の仕事が増える。もっとも、警察組織が一家庭のクールダウンを手伝う義理は無いのだが。
「沖田も一応聴取行っとく? どうせ誰が何聞いても返事は一緒だけどさ」
「なんですかそれ。不毛なだけじゃないですか」
「みんなもやったんだからさ?」
「嫌ですよ、私は私で奥さんの対応で精神ごっそり痩せてるんです」
「はいはい。じゃあその奥さんについての報告を聞こうかな」
「それが終わったら帰って良うございますか?」
「交番に?」
「家に」
「いいわけ無いでしょ。お前さん実は結構余裕あるだろ」
「ということがありまして」
「へぇ」
「ほぅ」
桃子の話を、紡とつばきはビールも注がず終始黙って聞いていた。鍋だけがぐつぐつと威勢良い。
「なんだか変なので精神鑑定とかもすることになるんですが、こう、紡さん何か思い当たるようなものはありませんか?」
「いや、どう考えても精神科の領域だと思うけど……」
紡は腕を組んで大きく息を吐くと、桃子を真っ直ぐ見据えた。
「ねぇ桃子ちゃん。どうしてその話に私が何か思い当たると思ったの?」
「えっ」
紡は桃子をじっと見詰める。桃子からすれば何故そんなことを聞かれるのかも分からなかったが、言われてみればどうしてだろう?
「えーと……」
モゴモゴする桃子に紡は首を左右へ振った。
「まぁいいや、微妙なラインの話を私に持って来るのはいつものことだし」
「『何を改まって』って感じですね」
つばきも相槌で首を縦に振る。何やらよく分からないが紡的には納得行ったようなので、桃子は本題に入る。
「それでですね」
「あぁ、何か思い当たるものは無いか、だったね」
「はい」
紡はつばきと目を見合わせた。そしてそのまま、
「……」
「……」
「……あの?」
二人はゆっくり一度だけ、小さく頷き合った。それから紡は桃子の方を向き直ると、静かに目を閉じた。
「思い付くのは、『枕返し』……」
「枕返し?」
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