第二十二話 芸術はルナシーの影か?
序.
真夜中のある高級マンションの高層階。ホテルのスイートルームに負けない広さの一室は、部屋の電気が点いていない。その為非常に薄暗い光景が部屋の中に横たわっているのだが、「薄暗い」というように完全な闇ではない。何故ならそれは、壁際に備えられた大きな熱帯魚の水槽に取り付けられたライトが怪しい明るさを放っているからであり、ちょうどその水槽のガラス面に何かが映っている。
「ああああああああああああ!!」
背の高い影が乱暴に腕を振るうと、大理石のテーブルの上に載せてあったウイスキーのボトル、グラス、アイスペールとトング、その中のロックアイスが床で、あるいは鈍く、あるいは甲高く、各々壮絶な音を立てる。
「うぅっ! うぅっ! うおっ!!」
その影は下の階に響くような足音を立てて観音開きのガラス戸の棚へ近寄ると、その中からマニアが集めるような凝ったデザインの鞘付きナイフを取り出した。
「うぎぃぃ!」
影はナイフを抜き放つと、そのまま革張りの高級そうなソファへ倒れ込み
「おおおお!」
影はそのままナイフを引いて革をバリバリ引き裂くと、その裂け目から一心不乱に綿を引き摺り出す。その途中途中で突き立てられたままのナイフに手が当たりそうになっても、影はなんら気にする様子が無い。
と、影は不意に綿を引き抜くを止めたかと思えば、
「あぐっ、うぐっ、うっうぅ〜!」
ソファに顔を埋めて、雄叫びから一転腹痛を堪えるような、嗚咽するような声を漏らし始める。そうしてしばらく震えていたかと思えば、次第に震えも声も息遣いも静かになって行き……
疲れ果てて眠りに落ちたか
と思えば影はガバッと起き上がり、
「んああぐうううう!!」
立派なアイランドキッチンにすっ飛んで金属タワシで激しく手を擦り始める。蛇口から流れる水に赤色が混ざり始めると、
「くっ!」
影は手を洗うのを止めて金属タワシを思い切り投げ捨てた。タワシは一直線に水槽のガラスの壁面にぶつかるも、大した音も立てずに情けなく床へ落ちた。
それをぼうっと眺めていた影は、痩せ衰えた老人のようにぼんやりと歩き、リビングを後にした。
その一部始終をガラスの向こうで見ていた真っ赤なトラディショナル・ベタは、一体何を思っただろう。おそらく何も思わなかったに違いないが。
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