一.ハンバーグバッドトリップ

 年末年始が過ぎた。さてこそ起きるが乙女の悩み。


「太……」

「太ってない!」

「丸……」

「丸くない!」


紡邸のリビング。桃子は紡とつばきから十字砲火を受けていた。乙女の名誉にかけて太ってはいない。寒稽古に取り組めば済むだけの話なのだから。


「と言うかですよ! どうして明らかに私より暴飲暴食してそうな紡さんが据え置きなんですか! つばきちゃんは幽霊だからいいとしても!」


白百合色で薄い長袖の木綿シャツにかつ色のポロシャツを重ね、素鼠すねずみのルームウェアパンツを履いた紡。上下煉瓦色のパーカーとガウチョパンツのつばき。両者とも身体のラインが崩れた様子は無い。


「どうしてだろうねぇ。体質と日頃の行いかな?」

「ウギィィィ!!」

「あは。この人親類がロンドンと香港で会いに行ってないから、元日以外案外慎ましかっただけですよ」

「あ、なぁんだ」


確かに親戚中から甘やかされている純粋培養桃子、そこは大きく差が出るのかも知れない。が、そんなこと彼女には関係無い。


「とにかく、今日のお献立はヘルスィ〜な感じでお願いします」

「あは。今日はハンバーグですよ」

「ぐあああああ!!」

「やっぱり体重気にしてんじゃん」

「無理に食べなくていいんですよ?」

「殺生なぁぁぁ!!」


桃子は欲望に屈することにした。微増くらい、寒稽古に取り組めば済むだけの話なのだから。






「ううぉぉぉぉぉ!!」

「かぁぁぁぁぁ!!」

「ふーっ! ふーっ!」


地獄の玉ねぎ微塵切りを終えた三人は、ようやくタネを捏ねて整形する段階へ。


「ハンバーグって、一人で作ると大変だけど、複数人で作れば楽しい……、けど、ここだけは変わらず苦行だよね……」

「目があああ!」

「あぁ、はぁ……ん」


一休み挟んでから、ボウルにミンチ、玉ねぎ、卵、塩胡椒、そして


「それはなんですか? きな粉?」

「んなわけないでしょ。これはナツメグ」

「棗」

「グ」

「あは。挽き肉料理に相性抜群な、四大香辛料の一つですよ」

「はえー」


つばきは醤油を一滴ずつ垂らす時のような丁寧さで、ごく少量のナツメグを加える。


「そんな量で味するんですか? いくらスパイスやら隠し味ったって」

「欲張ると死ぬよ。昔話でよくあるでしょ」


紡がミンチを混ぜろと言わんばかりに、ボウルを桃子へ差し出す。桃子は使い捨てのポリグローブを着ける。


「死ぬってそんなまさか」

「ナツメグは成人だと五グラムを超えた辺りから中毒症状の危険性がありますね。十グラム前後になると死亡例もあります」

「五!? と言うかマジで死ぬんですか!?」

「呼吸系がやられたりするからね。他には興奮作用に幻覚症状、多幸感……。駅前のスーパーで買えるドラッグだったりする」

「ひえぇ……」

「よく『夫を早死にさせる為に塩や砂糖をたくさん料理へ入れる』とかいう話ありますけど、ナツメグなら一発です」

「えぇ……」

「ほら早く混ぜて」


そこから桃子はぐいぐいタネを捏ねるが、どうにもこうにも。それを腕組みじっと見ている紡とつばき。その空気に桃子は音を上げた。


「だ、黙ってないで何か喋って下さいよ! プレッシャー半端無いじゃないですか!」

「だってプレッシャーかけてるもん」

「やめて!」


桃子が懇願するので、紡はやれやれと言うように首を振ってナツメグの小瓶を手に取った。


「このナツメグは『香辛料として有名だけど、実は過剰摂取は薬物で禁物』ってなってる。でも陰陽道に欠かせない芥子けしなんかはその逆だよね」

「いいですよー、この際そういう話でもいいんで進めちゃって下さーい」

「あは」


紡はナツメグの小瓶を下ろした。つばきはそれを棚に仕舞う。


「芥子、阿片の原料になることで有名だけど、あれは平安時代には素晴らしいアイテムだった」

「みんなでバッドトリップするんですか? ヒッピーみたいに」

「あは。アメリカン・ニュー・ウェイブでも見ましたか?」

「なんですかそれは?」

「話ややこしくなってきたね……」

「あ、続けて下さい」


紡は気を取り直して、組んでいた手を腰に当てる。


「退魔に使うんだよ」

「大麻ってやっぱりトリップじゃないですか」

「邪鬼を祓う!」

「あ、はい」

「桃子さん手を止めないで」

「あ、はい」


桃子は混ぜ捏ねと言うよりは、体重を掛けて掌底を沈めるような動きを再開する。


「平安時代は今より多くのことが鬼の仕業とされていたから、その分鬼を祓う『加持かじ』という『呪』が盛んに行われていたんだよ。その時にお香として色々焚かれたんだけど、その中に芥子も欠かせないものとして存在した」

「あは。『源氏物語』の『あおい』に、六条御息所ろくじょうのみやすどころが無自覚に生霊となって、妊娠している葵上あおいのうえを苦しめ、難産の末の死に追いやるくだりがあるんです。そこで御息所が『何度着替えても髪を洗っても魔除けの芥子の匂いが落ちない』ということで、『もしや自分は芥子の煙を身体に染み付く程浴びせられるような存在になって、葵上を取り殺したのでは!?』と恐れおののくことからも、芥子の扱いが分かりますね」

「……それってやっぱりバッドトリップで、『うわーい鬼が逃げて行くぞー☆』的なアレでは?」

「あは。薬物で不安がトんで『鬼がいなくなった!』かも」

「……そろそろ成形して焼こうか」


紡はフライパンを取り出し、油を引いて火に掛ける。


「話切りましたよあの人」

「せっかくの陰陽道の奥義が、ただのラリラリってなったら困りますし」

「うるさいよっ! 他にも地中海にあるクレタ島では、古くより芥子が鎮痛剤として使われてきた。と言うか麻薬と鎮痛剤は大体一緒だからね。つまり、ナツメグのように『用法容量を守らないと牙を向く』とか『なんでもないように見えて実は恐ろしい効力を秘めている』ものはたくさんあるということ! 焼くよっ!」


紡は苛立ちをぶつけるようにハンバーグからベチベチ空気を抜くと、フライパンには丁寧に下ろした。ジュアッといい音が響き、程なくして香ばしい煙が立ち上るのだった。

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