五.少女、捕物にて宙を舞うこと
「どうですか紡さん?」
「うーん……」
交番、紡は眼科医のように「ぬ」の瞳を覗き込む。しばらく「ぬ」と見つめ合った後、彼女はゆっくり目を逸らす。
「駄目だ、全く分かんない」
「あは。『目は口ほどに物を言う』と言うんですがねぇ」
「いやいや、だからってまさか書いてあったりはしないでしょう」
「でも別に桃子ちゃん齧られたり体調不良になったりはしてないんだよね?」
「今人間ドッグ行けって言われても自信あります」
「じゃあまぁ問題無いのかなぁ?」
紡は相変わらず「ぬ」の正体を探っているのだが、今日も成果は上がらないようだ。桃子から見ても迷走した行動に出るくらいには。
「それよりも気になるのはさぁ」
「私の健康より気になるですと!?」
「この子がその存在らしい所を全く見せないことなんだよね」
「スルー! で、それってどういうことです?」
「例えば妖怪なんかでさ、
紡が「ぬ」を見ると彼女は小首を傾げて「ぬ?」と呟く。
「特徴的な行動なら高い所に登りたがるというのはあるけど……」
「
「なんですかその頭の悪いネーミングは」
桃子はよじ登ろうとしてくる「ぬ」を手で制する。大柄でない彼女には「ぬ」のサイズでも登られたらしんどい。紡はそんな「ぬ」を見ながら溜め息を吐いた。
「もしかしたらこの子は未完成な存在なのかも知れない」
その午後、桃子はいつものように「ぬ」を連れて、手を引きつ引かれつパトロールに出掛けた。二人乗りは犯罪、「ぬ」がチャイルドシートに収まるサイズではないという条件から自転車ではなく歩きで回るという、牧歌的にして意識が低い道行である。
「子供用自転車とか買ってあげた方がいいですかね? いくらくらいするんだろう?」
「自転車?」
「あぁ、自転車知らないんですね。私がよく乗ってるアレです」
「乗ってみたい!」
「そうですかそうですか」
「どうやって乗るの?」
「なぁに、ちょっと練習すればすぐにでも……」
その瞬間桃子の脳裏に幼き日々が蘇る。中々上手く乗れなくて
「いや、乗らなくていい、乗らない方がいいです。事故も多いし」
「泣いてるの?」
「泣いてません。大人は足の小指を強打した時しか泣かないんです」
涙を拭おうとしてくれているのかまたよじ登ろうとしているのか分からない「ぬ」を適当にいなしながら桃子は早歩きになった。一応パトロールにもタイムスケジュールというものがある。
「あら桃子ちゃん、今日もぬーちゃんとお散歩?」
「お、お散歩……」
「青木のおばあちゃん、おはようございます!」
「ぬーちゃん挨拶出来て偉いねぇ」
「えへぇ〜!」
青木のおばあちゃんが鞄から飴玉を取り出す。それをキャッキャと受け取る「ぬ」を見ると、桃子は「ぬ」がおやつ目当てでお手をする犬みたいに礼儀正しくしているのではないかと思ってしまう。
しかし彼女は丁寧に礼儀正しくお菓子を受け取るし、そもそももらってあげる、その場で食べてあげる方が老人は喜ぶので、これはこれで愛想よく育ちよく(?)折目正しいだけなのかと感じたりもする。
「私の教育の
「……どうしたんだい桃子ちゃん?」
「人間は怪奇……」
その時だった。
「きゃあああ!」
閑静な町に悲鳴が響き渡る。
「何事っ!?」
桃子が振り返ると遥か後方からバイクに乗ったフルフェイスライダースーツの体格的におそらく男が。手には女性ものの手提げ鞄。
「ひったくりよーっ!」
追い掛けるように先程と同じ声の悲鳴が飛んで来る。どうやらバイクの男がそのようだ。
「二人とも退がって!」
ここは住宅地の一車線道路。相手はバイクとは言え道幅自体は狭いので桃子は二人を出来る限り端に寄せる。
「桃子ちゃんは!?」
「私は警官なので逮捕しなければ!」
「危ないよっ!」
青木のおばあちゃんの心配を背に受けながらも、
「任せて下さい! それよりその子のことを……」
と振り返った所で、
「ぬ」が忽然と何処にもいない。
「なんとおおぉぉぉ!!??」
「どうしたの!?」
「おばあちゃん! ぬーは何処に!?」
「あ? あ、あれっ? 一瞬目を離した隙に!?」
そうして大人二人動揺している間にひったくりバイクが目の前を通過して行く。
「しまった!」
桃子は反射的にバイクを追い掛ける。走りでバイクに追い付けるはずなど無いが、やはり警官としての本能(そういうものがあったらしい)、犯罪者を見たらなんとかしようとせずにはいられない。そうしてバイクの進行方向を向いた桃子の目に映ったのは、
「おあああぁぁぁぁぁああああああー!?」
ひったくりを、行き先にある電柱を三分の二の高さ程登って待ち受ける「ぬ」の姿だった。
「何してるですかーっ!?」
桃子の叫びに、バイク男をキッと睨んでいた「ぬ」は一瞬キリッとした顔を桃子に向ける。そして、
パッと飛び降りた。
「わあああああー!!!」
我知らず発した絶叫の中宙を舞った「ぬ」が、桃子にはまるでスローモーションのように見える。その勇壮な表情から可愛らしい足の角度、華奢な指先の細やかな動きまで。
そして、
「ぬ」の膝が前傾姿勢でバイクを飛ばす男の背骨を捉える。
低い呻きが鈍い音に掻き消され、ついでヘルメットが地面を打つ音、バイクがアスファルトを引っ掻く音が木霊する。
「ぬ」が地面に叩き付けられるのもそれとほぼ同時だった。小さな体がアスファルトをゴロゴロ転がる!
「ぬー!」
桃子が慌てて駆け寄り抱き起こすと、「ぬ」は傷一つ無い所かニッコリと笑っている。しかし桃子は安心するより先に硬直してしまった。
何故ならその笑みは今までのキャッキャと浮かべる無邪気な笑みとは違う、何か本能的な部分の発露とも言えるような表情だったからだ。
「え、えっと……」
桃子が言葉を失っている間に「ぬ」はムクリと起き上がる。あれだけの高さから落ち、あれだけの衝撃を受けたのに何事もなさそうなのはやはり人とは違う存在だからだろうか。
「ぬ」はゆっくりひったくりに近付く。そして彼女とは対照的に鈍痛で動けないでいる彼の耳元に顔を寄せると、高らかにこう謳った。
「ひひひひひ! 夜業すんだか釣瓶下ろそか! ぎいぎい!」
思わずぞっとするような声で。
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