二.その女、ミル・クレープにてシヴァ神の故事を説きたること
門の所にも玄関にも、これといった看板はない。
「カフェではなさそう」
それどころか表札もない。ただでさえ異様な外見をしているのに、ますます怪しい家だ。
「変な人が住んでたらどうしよう……」
街の平和を守ると息巻いていた桃子だが、「週末は地下室で人間解体してます」とか言うような人物がいたら、普通に怖いし逃げたい。
しかしまだ、拷問マニアが住んでいると決まったわけでもなし、桃子は意を決してインターホンを鳴らした。すると、
「はーい!」
家の中から直接返事が聞こえた。女性の声だ。
声だけで人間分かるものではないが、少なくともドスの効いた低音とはほど遠い穏やかな高音に、桃子は少し落ち着いた。
声のした方を見ると、縁側で女性がサンダルを履いている。どうやら玄関を経由せず、物干を通ってくるようだ。
「どちらさま?」
こちらへ向かってきた女性は、身長百五十センチ台中盤の桃子より少し高いくらいだし、手足もすらりと細いので、チェーンソーを振り回して人間を追いかけるようなマネはしなさそうだ。
格好もキャミソールの上にシースルーのトップス、ガウチョパンツなので爽やかそうな印象を受ける。
「警察の者なんですが」
「警察?」
女性が目の前まで来て止まった。
「うっ!」
桃子は思わず後ずさる。
「何か?」
(すごく美人だ……)
白人とのダブル特有の、オリエンタルな柔和さと西洋風な目鼻立ちの融合した顔。茶髪でぎりぎりボサボサにならないくらいのエアリーボブに白い肌、エメラルドの瞳孔による色のコントラスト。
同性の桃子が赤面するほどの美人だった。
「何か?」
女性が明らかに
「あ、いえね? ちょっとした聞き込みでして」
「そうですか。どうぞ、上がってください」
「いいんですか? そんなに長くなりませんよ?」
「ちょうどお茶が入ったものですから」
「いやでもやっぱり、他の同僚が頑張っているなか、自分だけお茶をご馳走になるのは」
「まぁまぁ。誰も見てやしないんだから」
誰も見てないなら、いいよね? 桃子の思考は完全に、青少年が犯罪に走る第一歩のそれだった。お巡りさんとしての使命感はどこへ。
廊下にはサイドボードがいくつも置いてあり、その上には皿や壺、どこかの民族的サムシング、そもそも何かすら分からないグッズが並べられている。
異様。ただでさえ住まいの実家は古民家、馴染みのある洋風建築と言えば、子どもの頃遊びに行った友達のマンションのフローリングな桃子にとって、しっかり洋風の、それも一戸建てというよりは邸宅の廊下は、慣れない雰囲気がある。
なので、角を曲がると急に雰囲気の暗い人物画が飾ってあるだけで、
「ぎにゃあ!」
鳥肌が立つ。置いてあるものの雰囲気がいちいち湿度高いし、廊下に窓がないので薄暗いのも悪い。
地下室に拘束台や肉フックはなさそうだが、これはこれでヤバい家に招かれたのでは? ちょっと調度品が多いだけでこう思う桃子は、人の家に上がるのには向いてないのかもしれない。
桃子が通されたのは、二階のバルコニーだった。和風フロアと庭が見える。
ガーデニングテーブルの上にはティーセットとミル・クレープが二つ。そして綺麗にされた灰皿。
「あれ?」
「どうかしました?」
たしか彼女は、玄関で私を出迎えて、その場でお茶に誘った。そしてここまでずっと一緒にいた。
ではこの二つ目のミル・クレープは、いったいいつ用意した?
桃子の頭に疑問が浮かぶ。
が、それはすぐにかき消される。
「ミル・クレープ、お好きなんですか? 食い入るように見て」
「あ、いえ」
「ではお嫌い?」
「いやまさかそんな」
一人で二つ食べるつもりだったんだろう、桃子はそう結論付けた。
向かい合うように椅子とミル・クレープが用意されていることは、考慮しないでおく。
女性は椅子に座って、桃子にも座るよう促した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
桃子が席に着くと、女性はカップに紅茶を入れて差し出す。
「どうぞ召し上がってください」
「いただきます」
フォークで生地を切ると、クリームと何層も交互になっていることによる、心地よい抵抗感の違いが伝わってくる。まるでギターや琴の弦を、上から一本ずつ撫でていくような気持ちのよさ。食べる前から嬉しいという贅沢な存在。
切り分けたピースをフォークで刺してお口へ。甘味のあるしっとりしたクレープ生地と、それに合わせてあっさり滑らかなクリームが実に調和する。そして
そこに紅茶を一杯。渋みで甘みを締め、クリームの油分を熱い液体で
この一息でまた、新鮮な一口を味わうことができるのだ。
「お口に合いますか?」
「それはもう!」
「よかった。ミル・クレープは大変なスイーツですから」
「ですよねぇ。生地とクリームを薄く薄く交互に交互に」
「そうではありません。ミル・クレープが象徴する意味です」
「あ?」
女性は急に、ワケの分からないことを言い出した。しかも、さもそれが普通のことのような態度で。
「象徴? 意味?」
「えぇ、世界というのは、いくつもの層でできているのです。このミル・クレープみたいに」
「はいぃ?」
桃子はうさんくさい実演販売CMを見る目付きだが、女性は構わずフォークで虚空に層を数える。
「人が生きる層、霊が
「……はぁ」
「そこで問題になってくるのが、ミル・クレープの食べ方。今、私やお巡りさんが手に持っているのは?」
「フォークですね」
「そのとおり」
女性はフォークを立たせて持ち、ずいっと桃子の目の前に突き出した。
「そう、フォーク。
女性はフォークをミル・クレープに突き立てる。
「こうして層を貫いて食べる。お分かりになりますか?」
「まったく分かりません」
「シヴァ神です。ヒンドゥー教の神話において破壊と再生の神たるシヴァは、アスラ族の神が作った『地上の鉄でできた町』『天空の銀でできた町』『天界の金でできた町』の、三層の世界を破壊するのです。自身の武器トリシューラ、三叉の槍で」
「へぇー」
桃子のニヤつきは、スベっているお笑い芸人を見るそれだ。
「つまり、層が重なっているミルフィーユを三叉のフォークで貫くのは、シヴァの故事を再現する壮大な儀式であり、それはシヴァのストーリーを象っているため、破壊のあとに新たな再生のエネルギーを発露させるのです」
「そのエネルギーとやらは、どうなるんです?」
「食べ物においてエネルギーと言えば?」
「身も蓋もない! まぁ、なんでしょう。そういう妄想をするのが楽しい人もいますよね」
「妄想、ね」
女性がフォークでミル・クレープを割ると、
桃子の背後で、強烈な光と衝撃が走った。瞬間、ドシーンと腹の底に響くような轟音と揺れが、
「なな、何!? 何!?」
桃子が振り返ると、庭に真っ黒で歪な円ができている。焦げ臭い煙がバルコニーまで漂ってくる。
「庭に落雷したね」
女性は何でもないことのように紅茶を飲んでいる。
「ららら、落雷って!?」
「世界を三つ焼き払う神話ですよ。術者が使えば落雷の一つ、造作もない」
「は、はぁ!? 術者ぁ!?」
「えぇ」
女性はテーブルに両肘をついて手を組み、その上に顎を乗せた。
「私は
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