第1話 哀原薫

————人間は、生まれたまま何も考えずに過ごすと、心の中が、哀しい気持ちで満たされてしまうのかもしれない。

しかし、喜びに触れたその日から、さまざまな感情が、心のどこかから湧き出してくるのではないだろうか。




「おかあしゃ」


2歳ぐらいの幼児が、キッチンにいる母親のスカートの裾を引っ張りながら言う。


「どうしたの?」


母親は、優しく対応する。


「おにわ、あそこに、へびしゃ、いう」


窓の外を指差して、まだうまく呂律の回らない舌で、幼児は伝えようとする。

どうやら庭に蛇がいるらしい。

そして、その幼児には、何にでも『さん』をつけて呼ぶ癖があるようだ。


「あら蛇?いやね、マムシかしら?」


心配そうな顔で窓の外を見る母親。


「ううん、かおる、しってう。あれはね。」


どうやらこの幼児は、蛇の種類がわかるようだ。

そして、その名前を『かおる』というらしい。


「まぁ、お誕生日にあげた図鑑、覚えたの?」


母親が尋ねると、かおるはこくりと頷き、


「あれはね、えーとね、どえだっけ?」


下を向いて考え込んだ。母親が窓際に行き、外を見るのとほぼ同時に、かおるは顔を上げた。


「わかった!『あなこんだ』しゃ!」

「いやああああああああああああああああああ!」




この状況に、あなたは違和感を覚えなかっただろうか。


最初に『2歳ぐらい』であるとも言った。

そして、母親は、かおるの誕生日に図鑑をあげたらしい。

最後に、かおるは、まだ呂律が回らず発音できていないが、確かに『どれだっけ?』と言ったのだ。


つまり、このかおるという幼児、母から誕生日に図鑑を貰い、読み込み、内容を覚えているのである。

さらに言うと、この図鑑が全てひらがなで書かれていたとしても、普通、ひらがなを読めるようになるのは4歳〜5歳の間なのである。

全てをまとめて言うと、この幼児は、常人の倍の速度でひらがなが読めるようになり、しかもその内容を理解し、頭の中で現実に応用させているのである。


こういう人物を、世の中では『天才』と呼ぶのだろう。



そして、時は進み、私立青林高等学園のS組に座るその少年。

その少年こそ、先程の天才『哀原あいはらかおる』である。


そう、彼は天才だった。


日本の民間人の庭で野生のアナコンダが見つかったら、それは大事件である。

どうやらそのアナコンダは、周辺の住人が飼育していたものが逃げてしまい、1週間ほど行方がわからなくなっていた一匹だったらしく、薫は、史上最年少である2歳で警察から感謝状をもらった。


これは薫の最初の伝説。その後も薫の武勇伝は続く。


小学校に上がる前のこと。

薫の頭の良さを見込んだ両親が、幼稚園児が受ける学力テストを薫に受けさせた。

しかし、その会場は小学生が受けるテストと会場が同じで、薫は部屋を間違えてしまい、小学6年生の受けるはずのテストを受けてしまう。

だが、薫にとってはそんなこと問題外だったようで、彼の元に帰ってきた答案は全て90点以上のものだった。


そして小学3年生の夏休み、書道コンクール、読書感想文コンクール、俳句コンクールの3つの金賞を総ナメにした。

まぁ、小学生の間、夏休みの課題であるコンクールに出品するものは、6年間、毎年どれか一つは金賞をもらっていたのだが。


そして、天才であることは頭脳だけに言えるものではない。

毎年行われるピアノのコンクールでは、審査員が薫の演奏のみを聴きにきたのかと思うほどの高得点を叩き出し、地区で行われたマラソン大会では、本気で走る大人よりを追い抜く速度で走り抜き、1番にゴールテープを切った。

中学生になってからは、定期テストで全教科1位を独占し、毎年行われる持久走大会ではトップを譲らず、文化祭と同時に行われる合唱コンクールでは、薫が所属するクラスでない生徒は負けを確信した。


まぁ、語ればもっとたくさんの伝説が出てくるのだが、これらの全てに共通することがある。


彼は、全てのことにおいて、努力を知らないのである。


何をするにも、彼はやる気というものを見出せなかった。

テスト勉強だって必死でやったことはなかったし、ピアノも面倒な習い事として認識していたし、とんでもない身体能力だって気づいたらついていたもの。


つまり、彼は才能だけでここまでの伝説を叩き出したのである。

青高の入試だって、親の後押しでなんとなく受けたら受かってしまっただけだし、S組に入ることだって想定外だった。


そんな天才の彼だが、二つだけ欠点があった。


一つは料理ができないこと。それはどうでもいいのだ。大事なのはもう一つの方。


彼は、エリートゆえ、いや、エリートすぎるゆえ、周りに近寄り難いと思われてしまい、友情というものを知らずに育ってしまった。


それはこの学園に入ったとしても変わらないこと。

本人も、唯一薫に愛を注いだ家族でさえも、そう思っていた。


しかし、転機は訪れる。


教室の中で、一人、入学式を目前にし、時間を間違えて早く来すぎてしまった薫。


そんな彼に近づく……


「あ、いた!」


金髪の少女が、一人いた。

彼女は、赤色のスカートを翻しながら教室に入り、薫の前に立った。


「君……だよね! 勉強入試主席の哀原薫……? って人」


なんだろうこの娘は……薫はそんなことを思いながら、「まぁ……そうだけど……何か用事かな?」

と答えた。


すると、金髪の少女は、

「やっぱりそうだ! わたし、喜久嶺きくみねハルカっていうんだけど……!」

と、顔を輝かせた。


そしてそのあと、少し冷静になり、もう一度薫に目を合わせ、

「わたしはね……い、いつもは勇気出なくてこんなことしないけど、今日は! 君に宣戦布告しに来たの!」

と言った。


薫はますますわからなくなった。

初対面でこんなことを言われたのは、いや、初対面でなくてもこんなことを言われたのは初めてである。

そんな薫の心を無視して、少女は薫を指差して言い放った。


「わたしは、君には絶対に負けないんだから!」


薫は混乱した。確かに混乱していた。

しかし、そんな心の中に、確かな喜びを感じていた。

自分にこんなふうに話しかけてくれる人がいることを知って、嬉しくなったのだ。

それと同時に薫は、なぜ彼女がこんなことを言ってきたのか、彼女が自分の何に対して負けないと言ったのかを知りたくなった。


しかしその前に、この宣戦布告に応えるのが礼儀だというのが、薫の中の結論だった。


「こっちこそ、勝たせる気はないよ」

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