第655話 ウチでわからぬ毒などない。
事の次第は遠話でコッシュにも報告した。一家殺害に使われた毒の正体をネルソン商会で調べてほしいという頼みを、コッシュは一言で受け入れてくれた。
「毒と薬は裏表だ。人の命を救おうとする俺たち薬屋にとって、薬で人の命を奪う奴らは許せない敵だからな」
コッシュの声には静かな怒りが籠っていた。
人間が軽く見えるコッシュだが、薬屋としての職業倫理はネルソンからたたき込まれていた。
ましてステファノは「ネルソン商会の人間」である。その家族を毒殺するなど、コッシュには許せないことだった。
「ウチでわからぬ毒などない。必ず正体を暴いてやる」
コッシュは声に力を籠めた。
水瓶は一抱えもある大きさで、そこそこの重さがあった。しかし、土魔法で重量を軽減できるステファノにとって運搬するうえで大きな問題はなかった。
風が強まった時に飛行速度を落とす程度の調整で
ステファノたちは商会の裏手に回り、通用口から水瓶を運び込んだ。
餅は餅屋である。2人は毒薬の採集と特定を商会生え抜きの薬師に任せ、旅の埃を落とすことになった。
清潔を重んじるネルソン商会には使用人が使うための洗い場があった。お湯もシャワーも出ないが、室内にもかかわらず潤沢に水が使えるようになっている。
「ステファノ、これを」
真新しい手拭いを2人分差し出したのは、痛みをこらえるように瞼を震わせたプリシラだった。
「ありがとう」
ステファノはそれだけを言って、手拭いを受け取った。後ろを向いたステファノの肩が細かく震えていることに気づき、プリシラはその背中から目を背けることができなかった。
洗い場で手桶の水を頭からかぶり、ステファノは漏れ出そうになる声を抑えた。
「くっ……」
サン・クラーレでは気を張っていた。「事件」を調査しなければという使命感もあった。
バンスたちの墓石に祈りを捧げつつ、犯人を捕まえなければと燃え立つ思いがあった。
それは今も変わらないはずだが――3日をかけた空の旅で何かが変わった。
(どうして。どうして死ななければいけなかった?)
田舎町の飯屋の親父。その息子嫁、幼子。
そんな人たちを殺して何になるというのか?
(なぜ殺した? なぜ?)
水瓶を揺らさぬように飛びながら、そのことが頭を離れなかった。
(狙いは俺だ)
考えても、考えても、答えはそれしか思い浮かばない。狙われたのは魔法師の自分だ。
どこで恨みを買ったのか、何の利益を求めているのか、それはわからない。どこかの誰かが無関係の3人を殺してまでも、
身内をさらっておいて何かをさせるというならわかる。そうやって脅されたらステファノは抵抗できなかったろう。
だが、いきなり殺してしまっては人質にならない。嫌がらせにしては質が悪い。ステファノを怯えさせようというつもりだろうか?
(何かが違う)
怯えさせることが目的であるなら、3人が毒殺されることはなかった気がする。もっと残酷な、もっと暴力的な方法で危害を加えたはずだ。
バンスは
ゆっくりと万力のようにのどぼとけを押しつぶしたり、静かに口と鼻を押さえたり。
護身具が「危険」と判定できない行動はいくらでもある。
(犯人は毒殺を選んだ)
殺し方はどうでも良かったのではないか? そう気がついたステファノは、思い切り腹を蹴られたような衝撃を覚えた。胃がねじれ、吐き気が込み上げてきた。
「ぐっ! ゴホッ!」
純粋な悪意。ただステファノを苦しめることが目的だったのではないか?
そう考えつくと、そうとしか思えなくなってきた。
ずきり。
ふさがったばかりの手首の傷が冷たい水を被って鈍く痛んだ。
(どうして……。どうして俺を狙う? どうして家族を?)
赤みを帯びてじんじんとしびれを発する手首の傷は、犯人がステファノにかけた
「ううっ……。親父!」
唇をかみしめても、ステファノはあふれる涙を止められなかった。
◆◆◆
体の水気を拭きとり、服を着直して洗い場から出ると、ヨシズミとプリシラがステファノを待っていた。
「ステファノ、手首が」
水で洗った手首が赤くただれていた。急ぎの道中、包帯を替える余裕はなかった。
「替えの包帯を持ってくるから、休憩室で待っていて」
ステファノが巻いていたものは垢と埃にまみれている。そのままにしておけば感染症を引き起こしかねなかった。
「そうしてもらえ、ステファノ。俺は調査の様子でも聞いてくッペ」
ヨシズミはステファノを残して、調剤室に向かった。
あえてステファノを1人にしたのは、自分がいては弱みを見せにくいだろうと気を使った結果だった。
(つらい時は泣けばいい。手を握って支えてくれる人がいるなら、なおのこといい)
1人で生きてきたヨシズミの、それは掛け値なしの本音だ。
調剤室では水瓶の内側を洗浄し、採取した水から毒薬の成分を抽出しようとしていた。
一方で、ステファノが見つけた吹き針に残っていた毒の正体はすぐに特定された。
「これはツハダという植物の根から採れる毒だね」
ヨシズミを迎えた薬剤師ノーラは言った。ネルソン商会に勤務して20年以上たつ女性だった。
「吹き針に使うだけで人を殺せますか?」
「ああ。小さな傷でも命取りになる。そのおかげで裏稼業の人間たちに重宝されているよ」
「バジルのような香りがするそうですが?」
「そうだね。それがこの毒の特徴だ」
やはりバンスはプロの殺し屋に狙われていたようだ。ヨシズミはメシヤの床に落ちていた毒針は、その事実を示すものだと推量した。
「水瓶に入れられた毒からもバジルの香りがしたそうです」
「おそらく針についていたものと同じツハダの毒だろう。確かなことは毒を抽出してみないと断言できないが」
2つの事件は同じ人間による犯行と考えていいだろう。犯人は吹き針での殺害に失敗し、毒殺に切り替えたと思われる。
バンスが店に出ている昼間の内に住居部分に侵入し、ひそかに水瓶に毒を投入したのだろう。
(手口が丁寧で……執拗だ。ただの恨みや怒りから出た殺しじゃねェ)
かつての法執行官としての感情がヨシズミの中に湧き上がる。社会への挑戦を続ける犯罪者は放置しておけなかった。
(これはネルソン学長とマルチェルさんに、裏の力を使ってもらうべきか――)
ヨシズミはギルモア家に「鴉」と呼ばれる諜報部隊が存在することを知っていた。
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