第564話 それではまるで獣を語っているようだな。

「どうした、ステファノ? お前、震えているのか?」

「すみません。アレはあまりにも異質でした……」


 ゴダールの求めに応じ、ステファノはかゆを作った。アーチャーを助けてかゆを口に運んだのはポトスだ。

 アーチャーの食事中ステファノはただそれを見守っているだけだった。


 食後手持ちの胃腸薬を勧め、ステファノは薬を飲む手伝いをした。その時に、アーチャーのイドを整えてやろうとした。

 アーチャーの背中に手を添え、上から下へとそっとさすった。手のひらからほんのりと陽気を送りながら。


「陽気を送り込む時、アーチャー自身のイドを感じました。散ってしまったイドを集めてスムーズに流してやろうとしたんです。その時の手応えが、何て言うか――」

「どう変わっていたんだ?」


 ステファノを促すドリーの声もつい低くなる。


「人のものとは思えませんでした」


 人間の自意識であれば、おのずとそこに秩序がある。願望と制約がせめぎ合う表層意識の下で、無意識の自我であっても一定の秩序の枠に収まっている。

 その枠を外れてしまえば、それはもう狂人である。


「アーチャーのイドには秩序というものが見当たりませんでした。感情さえもなく、衝動だけで生きているような」

「それではまるで獣を語っているようだな」

「そうですね。人の形をした獣がいるとしたら、あんな感じでしょうか」


 外見が獣ならば驚かない。人の容姿に獣の無意識が収まっているから恐ろしいのだ。


「人の形をした獣か……。トゥーリオ・ヤンコビッチにふさわしい表現だな」

「俺がゴダールさんと別れたのは、アレと同じ馬車に乗る気になれなかったからです」


 人食いの猛獣と一緒の馬車に乗るようなものだった。


「俺はどうしたらいいでしょうか?」

「どうすると言っても、できることは少ないな」


 衛兵隊に報告してゴダール一座を追ってもらうことはできるだろう。ネルソンとギルモア家の後押しがあれば、訴えが黙殺されることはない。

 だが、それが役に立つだろうか?


「トゥーリオが病から回復すれば、衛兵隊の手には負えまい」

「あの様子なら2、3日の安静で回復するでしょう」

「ならば今頃は元気に歩き回っているな」


 衛兵隊が下手にゴダール一座に踏み込めば、ヤンコビッチ兄弟は煙のように姿を消すだろう。

 いくつかの死体を後に残して。


「クリードさんに連絡をつけることもできませんし……」


 ステファノは顔色を暗くした。

 ヤンコビッチ兄弟を追い求めるクリードは、傭兵稼業を務めながら旅暮らしをしている。


「自分で探しに行くのは……」


 ステファノの語尾が小さくなる。自分で行くのは怖い。それが偽らざるステファノの想いだった。

 魔法やイドの攻防で勝てる、勝てないを考える前に、トゥーリオに近づくことが恐ろしかった。


「ステファノよ、お前が背負う必要はない」


 ドリーはステファノの胴に回した腕に、そっと力を込めた。


「ウニベルシタスにはお前が師と仰ぐ人たちがいるのだろう? まずは彼らに相談することだ」

「そうですね。旦那さまやマルチェルさんなら良い知恵があるかもしれません」


 ステファノはジュリアーノ王子暗殺未遂事件のことを思い出した。マルチェルはネルソンの指示を受け、一味を一掃したという。

 ギルモア家には「鴉」という諜報組織も備わっていた。


「俺1人で悩んでも仕方ないことでした。俺にできることなど何もない」


 ステファノは歯がゆさに唇をかんだ。


「ステファノよ、うぬぼれるな」

「え?」


 ドリーの口から出たのは意外な言葉だった。


「何でもできる人間など、この世にいない。できないことがあるのは当たり前だ」

「それは……そうですが」

「たとえば、お前でなければトゥーリオの偽名に気づけなかったろうさ」


 イドを看取る力を持つステファノだからこそ、アーチャーの異常に気づくことができた。それは当たり前のことではない。


「それにお前はゴダール一座全員の顔を見た。お前なら似姿が描けるはずだ」

「そうだ! 描けます!」

「たとえゴダール一座全員が名を変えようとも、お前が描いた似姿があれば見逃すことはない」


 自分1人で行動を起こさなければならないと思い込んでいたステファノは、そんなことも考えつかなかった。


「ドリーさんの言う通りです。俺は自分1人で何でもできるとうぬぼれていました」


 ステファノは、隠さずに言った。


「まあ良いさ。うぬぼれるのは悪いことじゃない。特に若い内はな。問題はのぼせ上って視野が狭まることだ。――自分も人に言えた柄じゃないが」


 年寄りくさい物言いに照れて、ドリーは最後に自嘲した。


「いえ。ありがとうございます。ドリーさんも俺にとっては師匠みたいなものですから」

「人を年寄り扱いするな。そこは『優しいお姉さん』というところだろう」

「はい、優しいです」

「お姉さんを忘れるな! お姉さんを!」


 ステファノの声に元気が戻っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る