第544話 道は1つではないんだねえ。
「驚いた。僕は専門家じゃないが、なかなかの腕前に見えるよ。修行を始めて1年だって? 大したもんだ」
掛け値なしでジェラートは言った。武術を学んでいると言っても1年未満だと聞いた。まねごと程度の腕前だろうと、ステファノの武術を侮っていたのだ。
「僕に武術の深奥はわからないが、仕事柄筋肉の使い方には敏感なんだ。弛緩から緊張へ一瞬で切り替わる、君の動きには一流の切れ味があるね」
「
感心するジェラートにステファノはイドとは何であるかを説明した。
「武術家が気功と言っているものだね? それを濃くすると、そんな風に筋肉まで制御できるのか。そういうことだったんだね?」
ジェラートは今初めて気功というものを自分が知る筋肉制御と結びつけることができた。
「恐らくですけど、ふつうの武術家は肉体の制御からイドの制御に至るんじゃないでしょうか。俺の場合はその逆をたどっているわけです」
「ああ。そう言われると良くわかるよ。それなら僕も筋肉の制御をもっと極めれば、気功を操れるようになれるのかな」
のんびりとした口調だったが、ジェラートは興奮していた。「縛り屋」と馬鹿にされる自分の捕縄術にも、一流の武術に通じる「道」がある。
「道は1つではないんだねえ」
「ある人は『
「面白いね。君の師匠たちが始める『ウニベルシタス』というものも、色とりどりでさぞかし刺激的なんだろうね」
微笑みを浮かべてジェラートは言った。ステファノは笑顔の下にある一抹の悲しみを見逃さなかった。
「ジェラートさんもサポリに行ってみたらどうですか?」
「僕がかい? でも、衛兵隊の仕事があるし、ほら、あっちの――
ジェラートはあっさり言ったが、その声には諦めの響きがあった。武器防具の手入れ係はともかく、処刑人としての役目は代わりがいない。
「本当にそうでしょうか?」
「え? 何だって?」
ジェラートはステファノが異を唱えるとは思っていなかった。不意を突かれて考えが停止する。
「ジェラートさんが縛り屋である必要はないはずです」
「それは家代々の役目だから……」
「ジェラートさんは『家』ではないでしょう」
ステファノが言いたいことはジェラートにもわかる。家と個人は別のものだ。そんなことは知っている。
それでも――。
「誰かがやらなければいけない仕事だ」
「その誰かがジェラートさんじゃなくても……」
「僕が一番上手にできるんだ」
「ジェラートさん……」
ジェラートはただ責任感に押しつぶされているわけではなかった。意味のある仕事として家業を継ぐことを選んだのだ。
「楽しい仕事とは言えないがね。この仕事から逃げ出したいとは思っていないよ」
生きるための仕事は楽しいばかりではない。誰もがどこかで苦しみながら働いているのだ。
「縄を使わせたら僕が一番うまい。だからこの仕事は僕がやるのがいいんだ」
「すみません。余計なことを言いました」
「気にしないでくれ。僕のためを思って言ってくれたことだからね」
詫びるステファノにジェラートは微笑みを向けた。
「そうだな。たまには休みをもらうのもありかな。そうしたらウニベルシタスを見学に行くよ」
明るい声でジェラートは言った。
ステファノもそれに応じる。
「ぜひそうしてください。師匠たちと一緒に待っています」
重くなりかけた話に区切りがついた。
ジェラートは指導者の顔に戻って、稽古用の捕縄を持ち出した。
「さて、ステファノ。縛られる覚悟はできたかい?」
「はい。怖さが消えたわけではありませんが、耐えてみせます。縛ってください」
恐怖症とは理屈ではない。ステファノの心と体が「縄で縛られること」の恐ろしさを覚えている。
いつ殺されるかわからない不安と緊張を、ステファノは死ぬまで忘れない。
忘れるはずがない。
あの孤独と不安は誰とも分かち合うことができない。あの苦しさは説明できない。
次の瞬間には誰かが抜き身の刃物を引っさげて、ドアを開けて入ってくるかもしれない、その恐怖を。
「後ろを向きなさい」
綿糸を編んだロープを手に、ジェラートは静かに言った。
ステファノは固まってしまった手足を動かして、それに従う。
後ろ手に腕を組まされ、容赦のない力で手首に縄が巻かれた。
(くっ! ここは口入屋じゃない。俺を殺しに来る人間はいない!)
ステファノは必死に自分自身に言い聞かせた。しかし、思いとは裏腹に体は恐怖を思い出し、大きく震え始める。
呼吸が浅く、せわしないものに変わった。手のひらや脇の下が汗ばむ。心臓がどくどくと動き、頸動脈が大きく脈打つ。
頭髪の下で毛細血管が膨れ上がり、ステファノの視野は狭まっていった。
(だめだ! このままでは……意識を失ってしまう。そうだ! 成句を――)
ギフトの成句を唱えればステファノの肉体と精神は安定する。イドや肉体のメカニズムを考えなくても、自動的にそうなるところまでステファノの訓練はでき上がっていた。
「色は匂えど……」
「
ステファノは海老のように反り返りながら床に倒れ、意識を完全に失った。
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