第534話 こうなったら持久戦だ。

「散らばって逃げろ!」


 猟師の長は腹の底から声を出して、全員に退却を命じた。仲間想いの若者が、河原に座り込んだ男を助けに走った。

 それを構っている余裕は誰にもない。とにかく今は逃げて、命をつなぐことだけを皆考えていた。


 クラウスは木々の間を縫うように走った。


 直線では熊のスピードにかなわない。突然方向を変え、後を追う熊がスピードを落とさざるを得ないように進路を取った。

 それでも熊は着々と背中に迫って来た。茂みをかき分ける音、立木をへし折る音、叩きつける足音。


 激しい息づかいまで感じられるようになったところで、クラウスは逃走を諦めた。

 目の前に迫った立ち木を駆け上がり、そのまま飛んで隣の木に取りついた。


 ガツッ!


 一瞬遅れて飛び込んできた人食い熊が、そのまま立ち木に激突した。樹皮をまき散らしながら、勢いのままに数メートル転がって行く。


 片目を潰されて距離感を失ったため、立木との衝突を避けられなかったらしい。


「――ガウッ」


 熊は怪我をした様子もなく起き上がると、逃げた敵を求めて周囲を見回した。片目のせいで普通より大きく首を動かさねばならない。

 右目が樹上に逃れたクラウスを見つけた。


「グワァア―!」


 木に駆け寄り、伸び上がって手を伸ばすが、クラウスは既に3メートル以上の高さに上っていた。

 熊も木に取りついたが、体が大きすぎて登れない。唸りながら木の根元を歩き回ることしかできなかった。


(危なかった)


 クラウスはさらに高い枝まで慎重に位置を動かした。木を揺さぶられても落ちないように、枝の股に腰を下ろす。


(こうなったら持久戦だ)


 森の中では他の猟師も手を出しにくい。矢を飛ばそうにも、間の木が邪魔して射線が通らないのだ。

 熊の体には既に数本の矢が刺さっている。時間がたてば毒が回ってくるはずだった。


 熊はクラウスが木から下りるまで立ち去る気はないようだ。


(動く気がないならこれでも食らっておけ!)


 クラウスは懐から取り出した附子栗ぶしぐりにトリカブトの毒を塗った。ストリングにセットし、樹上に立ち上がる。


(真下に投げたことなどないが、この距離なら外さん!)


「ブン」と音を立てて投げ下ろした附子栗は狙い通り熊の首元に突き刺さった。


「グギャッ!」


 突然の苦痛に熊は体をけいれんさせた。予期せぬ攻撃に驚いたせいだが、傷そのものは深くない。熊はすぐに立ち直り、頭上の敵に向かって唸り声を上げた。


「グルルルル……」


「しぶとい奴だ。今ので附子栗は最後だ。毒が効いてお前が死ぬまで、俺にはもう何もできん」


 木の上で独り言を吐き捨て、クラウスは自分の胴体を木の幹にしばりつけた。こうしておけば木から落ちることはない。


「悪いが俺は休ませてもらうぜ。お前は勝手にくたばれ」


 そう言うと、クラウスは木の幹に体を預けて目をつぶった。


 地表の人食い熊は諦めきれずに何度か木に登ろうとしては、滑り落ちた。その内にこちらも長期戦を覚悟したのか、地面に伏せて動かなくなった。


 ◆◆◆


 陽が落ちて、山は暗闇に包まれた。夜の山は異世界だ。人の住むところではない。


 山狩りに参加した村人たちは日暮れ前に山を下りている。猟師も例外ではない。

 手負いの人食い熊がいる状態で、山中の夜明かしなどできるはずがなかった。


 クラウスも夜間の救助は期待していない。助けが来るとしたら陽が上ってからだろう。

 もっともそれまでには、毒が回って熊は死んでいるだろう。体に刺さった矢と附子栗に塗られた毒は、熊にとっても致死量を超えているはずだった。


 木から落ちずに待っていれば助かる。そう確信して、クラウスは眠りについたのだ。


 深夜、クラウスの知らないところで、その状況が変わった。


「ブフッ、グフゥ」


 地上に横たわった人食い熊が苦しそうに息をしていた。さしもの巨体にも毒が回り、トリカブトの毒が内臓を侵していたのだ。

 締め付けるような痛みと、感じたことのない熱が体の内側から巨熊を苦しめた。


「グ、ガフッ!」


 灼けた喉に詰まったものを吐き出すと、それは黒々とした血の塊だった。闇の中で色は見えないが、血の匂いと味が熊に危機を悟らせた。

 熊は力を振り絞って地面から立ち上がった。


 その時、巨熊の気配に気づいて木々を縫って近づく者がいた。


 若き日のネオンだった。


 制止する村人を振り払い、ネオンは1人森に残ったのだ。父親が生きて救出を待っていると信じて。

 ネオンは若かった。山での無理は二次遭難につながることを理解していなかったのだ。


 クラウスに生き残る知恵があることを信じ切れなかった。


 はやる気持ちを抑え気配を消しながら、ネオンは物音が聞こえた方角へと森の中を移動した。

 その動きに落ち度はなかった。相手が野生の熊でも気づかれないはずだった。


 しかし、熊は死を前にして異常に感覚が研ぎ澄まされていた。それは原初の恐怖におびえる野生の本能かもしれない。

 耳には聞こえぬ空気の揺れを、巨熊は異物として捉えていた。


 人への憎しみと狩猟本能が熊の呼吸を小さくさせる。跳躍に備え、巨熊は脚を曲げて体を低くした。


 血が匂い立つような緊張感が夜の闇を支配する。


(う、ん? 何だ……?)


 異変を感じ、木の上でクラウスが目を開けた。クラウスの眠りは浅く、頭のどこかで常に危険に備えていたのだ。


(何の音だ? 熊が動いたか?)


 枝から身を乗り出して下をのぞこうとした。そのわずかな気配を、巨熊とネオンが察知した。


「おとう?」


 顔を持ち上げ、ネオンが声を発するのと、人食い熊が走り出すのが同時だった。

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