第535話 近くにいるのに何もできない……。

「ガフウーッ!」

「いかんっ!」


 それは父娘の絆が為せる業だろうか。巨熊が走る先にはネオンがいる。クラウスの心にその光景が稲妻のように走った。


 体を縛る縄を山刀で一瞬に断ち切ると、クラウスは枝の上を走り、地上へ飛び降りた。


 「闇夜鴉やみよがらす――!」

 

 クラウスには獣にも負けぬ暗視力があった。幼いころからの山暮らしで身につけたギフトである。


 片目を失い、毒に体を冒された巨熊を、暗視力を発揮したクラウスの速度が上回った。飛び出した空中で毒液を入れた小瓶を取り出し、山刀の刃に叩きつける。


「いやああああーっ!」


 裂ぱくの気合と共に、クラウスは人食い熊の背に襲い掛かった。

 走り出した熊の背に4メートルの高みから飛び乗ったのだ。衝撃で投げ出されそうになったが、熊の肩口に打ち込んだ山刀にクラウスはしがみついた。


 上空から降りかかった衝撃と、新たな激痛に巨熊は驚き、我を忘れた。


「ガ、ガウッ、グワッ!」


 首を振り、体をよじってクラウスを振り落とそうとした。クラウスはひたすら熊の背にしがみつく。

 業を煮やした熊は自ら地面に体を投げ出してクラウスを叩きつけようとした。


「くっ! させるか!」


 横倒しになりかかったクラウスは、山刀を熊の肉から引きはがしつつ、両足で熊の背を蹴った。地面すれすれを横っ飛びに熊から離れていく。


 地響きを立てて転がった後、手足をばたつかせて熊が立ち上がると同時に、クラウスも離れた地点で立ち上がった。右手の山刀を前に出して構える。


「ネオン! いるか? 近寄るんじゃない!」


 立ち止まったネオンは闇の中で聞き耳を立てる。彼女にはクラウスほどの暗視力がない。普通に夜目が利く程度だ。それなのに明かりを持っていないのは、追い詰められたクマに襲われるのを警戒したためだった。

 クラウスを見つけるまで、自分が目立つわけには行かなかった。


「声を出すな! 気配を消せ!」


 ネオンが居場所を明らかにせぬよう、クラウスは大声を出してけん制し続けた。巨熊の注意を己に引きつける。


 その間にもクラウスは音を立てずに動いていた。ネオンと熊を結ぶ線から横方向に離れていく。

 つぶての射線を通すためだ。


(おとう……)


 ネオンはクラウスの警告を受け、動きを止めて闇を見透かした。しかし、彼女の暗視力では熊も父親も見えなかった。荒い息づかいでうごめく巨熊が、何となくこの先にいそうだと感じられるだけだ。


(近くにいるのに何もできない……)


 ネオンは歯噛みする思いで闇と向き合っていた。


 巨熊は迷っていた。新しい気配に襲い掛かろうとしたら、樹上の敵に襲われた。これまでの傷に加えて、新たに受けたダメージで肩がうずく。

 痛みを与えた敵への怒りが腹の中で燃えているが、同時に恐怖と混乱を感じていた。


 木の下で体を休めたはずなのに、一向に体力が回復していない。内臓は火のように熱を持ち、心臓はどくどくと苦しげに脈打つ。

 体に力が入らない。


 あのちっぽけな生き物1つはねのけられないとは――。


 自分は弱っていると、ようやく巨熊は理解した。逃げるべきか? 逃げてもまた追われるのではないか?

 敵を襲うべきか? この弱った体で勝てるのか?


 逃げる。


 手負いの獣は心を決めた。巨熊には後悔も恥もない。死の危険を感じ取れば、そこから逃れるのに躊躇はなかった。


 ただし、逃げる方向を選ばねばならない。


 2匹の敵を避けて逃げ出せば、無事な2匹に追われることになる。それは面倒だ。

 ひ弱な山犬でさえ、集団行動を取れば巨熊を煩わせることがある。


 逃げるなら、敵に向かって逃げる・・・・・・・・・

 巨熊はネオンに向かって突進した。


(何だと? なぜあっちへ行く?)


 闇の中で位置を変えていたクラウスは、巨熊の動きを察知して焦った。熊に襲い掛かり、てっきり自分に関心を移したものと思っていたのだ。


「ネオン、木の上に逃げろ! 熊がそっちに行くぞ!」


(く、熊が来る!)


 ネオンは闇の中で視線を巡らし、一番近い立木を探す。ぼおっと浮かび上がる影に手を伸ばし、硬い木肌に触れて確かめた。

 木を選んでいる余裕はない。ネオンは手に触れた立木に取りつき、必死に登り始めた。


「くっ、はぁ……」


 地上から2メートルのところで太い枝が横に出ていた。それを足掛かりにしてネオンは体を引き上げた。


 ガツッ!


 足首のすぐ横で樹皮が弾けた。巨熊が爪で殴りつけたのだ。

 熊も十分に闇を見通せていない。あとわずかにずれていたら、ネオンの足首は砕かれていた。


「ひっ!」


 慌てたネオンは横に張った枝の上をよつんばいになって這った。途中から上に伸びる枝に頭をぶつけ、必死にしがみついた。


「ガフッ!」


 巨熊はなおも諦めずに、ネオンを目掛けて腕を振るった。しかし、今度もその爪は枝を削り取るだけだった。


「はあ、はあ……。おとう!」


 しがみついた枝を上り、何とか少しでも地面から離れようとネオンはあがいた。


 習い覚えた礫術のことなど、頭をかすめもしなかった。ただただ恐ろしく、熊から遠ざかりたい一念で上に伸びた枝を登る。

 

 その時、巨熊の爪を受けた大枝がミシミシと音を立てた。やがて音は大きくなり、バリバリと裂けて枝は地面に落ちた。

 上に乗せたネオンを道連れにして。


「あぁー! うっ!」


 体を地面に打ちつけてネオンはうめいた。


「フゥー」


 巨熊の生臭い息がネオンの顔にかかった。

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