第533話 これは人間と熊との、命がけの鬼ごっこだった。
その年、村に熊の被害が出た。
作物を食われたとか、家畜を襲われたという話ではない。農家が襲われ、一家皆殺しになった。
全員内臓を食われていた。
「このままにはしておけねぇ」
人肉の味を覚えた熊は、再び人を襲う。人間か熊か。村人が生き残るためには、熊を殺すしかなかった。
「山狩りだ」
「人食いは生かしておけねぇ」
動ける男は否応なく駆り出された。熊を仕留めるのは猟師だが、山から追い出すには
全員命がけの狩りであった。
ネオンの父クラウスは猟師の集団に加わった。弓を使う猟師と共に、人食い熊を攻撃する役割だった。
しかし、相手は熊だ。石をぶつけたところでほとんど通用しない。それで言えば矢であっても大差ない。
剛毛と硬い皮膚、分厚い皮下脂肪と筋肉に覆われた熊には、矢が当たったとしても効き目が薄かった。
「矢には毒を塗れ」
リーダー格の猟師が仲間たちに言った。
村で毒と言えば、トリカブトの根から抽出したものだ。人なら葉っぱ1枚を摂取しただけで死に至るという猛毒であった。
トリカブトの毒は主に根に集まっている。根から取った絞り汁を小筒に納めて、猟師は各人腰に下げていた。
熊を射る直前に矢尻にこれを塗り、射かけるのだ。
トリカブトは猛毒ではあるが、毒矢に当たった熊はすぐに死ぬわけではない。当たった場所が悪ければ、毒が効くまでに長い時間がかかった。
なるべく多くの毒矢を当てて、後は熊に毒が回るのを待つ。それが熊狩りのやり方だった。
クラウスもトリカブトを使う必要がある。しかし、石に毒を塗っても熊の体内に注入できない。やはり刃物でなければならない。
クラウスは直径4センチの鉛玉に釘を10本打ち込んだ。栗のイガのようになったところで、釘の頭を切り落とし、ヤスリでとがらせる。
これにトリカブトの毒を塗って、
これをクラウスは「
これならば射程は弓よりも長く、安全な距離から熊に当てることができた。
体深くまで釘を刺すことはできないので、1つや2つでは熊を倒せない。そこは数多くぶつけることで補うつもりだった。
毒をぶつけては逃げ、熊が止まればまたぶつける。これは人間と熊との、命がけの鬼ごっこだった。
人食い熊を見つけたのは昼を過ぎた時分だった。森の中では矢が通りにくい。勢子が立木や地面を叩いて大声を上げた。
追い立てる先は開けた沢だ。熊の姿は丸見えとなり、良い的になる。
川の流れに熊を追い込み、逃げ足が鈍ったところで上から矢を射かけた。4、5本の矢が熊の体に刺さった。
「いいぞ! もう少しだ!」
猟師の長が周りを鼓舞する。猟師たちは毒矢を慎重につがえようとした。
その時、一番若い猟師が功を焦って前に出た。弓の腕に自信のないその男は、前の矢を外していた。
今度こそ当てようと、林の切れ目から河原に出てしまった。
「馬鹿野郎! 前に出るな。戻って来いっ!」
長が慌てて怒鳴ったが、興奮した若者の耳には届かない。若者は河原の石に足を踏ん張り、弓を引き絞った。
その時、流れを渡ろうとしていた熊が振り返り、若い猟師の姿に気づいた。弓矢という仕組みはわかりもしないはずだが、これは敵だと瞬時に認識した。
全身に殺意をみなぎらせ、人食い熊は身を翻した。川の水をはね上げて、若者目掛けて疾走する。
「ガァアーッ!」
体重600キロの純粋な憎悪。それが真正面から時速50キロで突っ込んで来る。
その迫力に若者はすくんだ。
体は硬直し、精神はパニックを起こす。矢を射るか、逃げるか、するべきことは2つに1つなのだが、どうすることもできない。
木立の端で息をのむ猟師たちは、助けたくても手を出せない。熊を狙って矢を射れば、若者に当たってしまうのだ。
「あ、ぁあああ~!」
ただ情けない声を上げるだけしか、若者にはできなかった。
「走れえ!」
「逃げろぉお―!」
猟師たちが口々に叫ぶが、声が重なって意味も分からない。悪夢に似た数秒が、泥のような空間に流れていく。
「ああっ!」
「ダメだぁー!」
若者に迫った人食い熊が後ろ足で立ち上がると、巨大な右腕を振り下ろそうとした。
「
風を切って飛んだ何かが、斜め横から熊の顔面を襲った。
「ガウッ!」
狙い違わず礫が人食い熊の左目を捉えた。痛みにひるむよりも、残った右目に怒りを籠めて熊は己の敵を探した。
若者斜め背後に走り寄っていたのは
「逃げろっ!」
若者に向かって怒鳴りつけながら、クラウスは足元から大ぶりの石を拾った。素早く紐に載せ、自分に狙いを変えた人食い熊に投げつける。
ガツッ!
今度も石は熊の顔面に当たった。しかし、熊が寸前に顔をそむけたため右目には当たらず、硬い額に当たって跳ね返された。
「グ、ガァアーッ!」
怒りに狂った人食い熊は若者のことを忘れ、クラウスを目掛けて走り出した。
こうなっては礫では止められない。クラウスは森に向かって必死に走った。立ち木の中なら熊の動きが鈍くなる。そうなれば、逃げる機会が得られるかもしれない。
両眼を恐怖に見開きながら、クラウスは駆けに駆けた。
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