第474話 「虎の眼」は、指を締めつけるだけの重りになった。

 マランツの魔視脳まじのういた。


 度重なる戦の中で「虎の眼」を使い過ぎたために、脳全体がダメージを受けていた。壊れかけた脳が見せる悪夢と幻覚を逃れるため、マランツは酒浸りとなった。

 すると、今度は酒が体を蝕み、脳を侵した。


 迷える弟子ジローの助けになろうとマランツは非常手段を取った。「虎の眼」で自らにプレッシャーをかけ、強制的に脳を覚醒状態に追い込んだのだ。


 弱った脳細胞を無理やりに賦活化し、心気を練り、魔力を動かした。

 それによりマランツは往年に近い魔力操作が可能となったが、魔視脳を限界を超えて酷使することになった。

 

 眠っていてもマランツの無意識は活性状態にあり、戦場の悪夢を見せ続けた。


 折れた肋骨が飛び出した脇腹。うじのわいた眼窩がんか。汗と糞尿と、血の匂い……。

 自分が出す唸り声で目覚めれば、寝室としてヨハンセンにあてがわれた道場の一室であった。


 それなのに、闇の向こうから死にきれない戦友の声が聞こえる。

「痛い、痛い、痛い……」と。


 手が震え、頭がずきんずきんと脈打っても、マランツは酒を近づけなかった。ジローに「生き残る術」を伝えるまでは、と。


 手首にかみつき、震えながら朝を待つ夜が続いた。


 そしてついに、「虎の眼」を使った訓練でマランツの負荷が限界を超えた。

 マランツは「魔視まじ」を完全に失い、魔力とのリンクを感じ取れなくなった。


「虎の眼」は、指を締めつけるだけの重りになった。


 ◆◆◆


 一昼夜死んだように眠ったマランツは、2日後の朝に目を開けた。


「う……。記憶がない。わしは倒れたのか?」


 寝台の横に置かれたナイトテーブルから水差しをとって、直接がぶ飲みする。乾ききっていた喉を、ぬるい水が潤してくれた。


(確か、ジローに「虎の眼」を渡したはず)


 右手に目を落とせば、その指から「虎の眼」は消えていた。


(やはり、ジローに渡したことに間違いはない。ならば、わしにはまだあいつに伝えるべきことがある)


 マランツは立ち上がり、寝室を出た。

 1カ月暮して来た道場の建物が、どことなくよそよそしく見える。


(何かが変わった……。そうか。建物ではない。わしが変わったのか)


 目に映る色も、光も、以前と同じであるはずなのに、どこか色あせたように見えるのだった。


(……魔力の制御を失った。ふ、今更どうでも良いこと)


 魔術師としては既に終わっていたのだ。ようやく体が現実に追いついただけのことであった。


 道場に出てみれば、ヨハンセンが1人で朝稽古を始めたところであった。


「邪魔をしてすまぬ」

「先生、お目覚めですか。お体に異常は?」


 ヨハンセンは瞑想を中断して、師匠を迎えた。


「どう言うべきか。体に異常はない。魔力を使えなくなったがな」

「それは……。何と申し上げるべきか」

「大事ない。どうせ魔術師などと名乗れる状態ではなかったからな。命があるだけ恵まれていると言うべきだろう」


 戦場で肩を並べた人間の大半は、既にこの世を去った。マランツが生き残っていることの方が不思議なのだ。


「わしのような中途半端な魔術師が生き残れたのは、師匠から受け継いだ『虎の眼』があったからだ。もっとも、そのせいで脳を酷使し、酒に溺れるようになってしまったが」

「『虎の眼』は使用者の精神にも影響を及ぼすというのは本当ですか?」

「本当のことだ。わしを見ればわかる」


 このひと月でマランツの頬はこけ、体の肉も落ちていた。ストレスと不眠が彼の体力を削っていた。


「くれぐれも指輪の使い過ぎに注意するよう、ジローに気を配ってやってくれ」

「気を配るとは、どのように?」

「『虎の眼』は使用者の脳を独占する」


 マランツは真正面からヨハンセンと目を合わせるようにして言った。


「使っている本人は自分の状態を判断できる状態にない。慣れない内は特にそうだ。よって、慣れるまでお前が側で見てやってほしい」

「使いすぎの兆候を具体的に教えてください」


 症状を知らなければ適切な治療ができぬように、ヨハンセンは「虎の眼」の使い過ぎによって何が起きるのかを知る必要があった。


「まず、頭痛だ。額の中央部が熱くなり、刺すような疼痛とうつうを感じる。最初はわずかだが、繰り返すうちに痛みは強くなる。次に、魔術の精度に影響が出る。術の発動時間が長くなり、命中精度と威力が落ちる。他にも細かい魔力制御に支障が生じ、全体的に切れ味・・・が悪くなる」


 それらはマランツが自ら経験したことであった。


「そして脳に疲労が蓄積する。睡眠中に悪夢を見るようになる。それは寝不足を招き、体力の減退、全般的な体調不良を常態化させる。そこまで行くと、泥沼のような悪循環から抜け出せなくなる」

「先生はそれで酒を……」

「わしの場合はそもそも心が弱かった。『虎の眼』が大きなきっかけであったが、そうでなくとも酒に溺れていただろう」


 戦場のストレスがマランツの精神をむしばんでいたのだ。マランツには悩みを打ち明け、支えてもらえる人間がいなかった。


「それで、わたしにジローの支えになれと言うのですね」

「脳の灼けたわしではジローの細かい不調に気づいてやれん。気づいたとしても止めるための魔術を練ることができん。すまぬがわしに代わって、ジローを助けてやってくれ」

「わかりました。魔術試技会までの間、ジローの稽古につき合いましょう」

「恩に着る」


 マランツは師としての態度を捨てて、ヨハンセンに頭を下げた。


「それで、先生ご自身はどうされますか? 道場に残って、ジローの稽古を見届けますか?」

「いや、わしは出て行こう」

「そうですか……。ジローが寂しがるでしょうな」

「わしの時代は終わった。ジローの気を散らすだけの重荷にはなりたくない。サポリの町で余生を送るさ」


 マランツはジローに別れを告げることもなく、ひっそりと道場を旅立って行った。

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