第472話 先生はこれ程の達人だったか。

 マランツの指導・・は1カ月の間続いた。

 その内容は魔術の撃ち合いである。アカデミーの魔術試技会のようにお上品なものではなかった。


 防具などなしに、生身で撃ち合う。標的? イキの良い標的が目の前にあるだろう。


「遠慮はいらん。撃って来ればよい。当てられるものならな」


 そう言って、ジローが術を発動しようとすれば、それに先んじて土魔法で小突く。

 あるいは、わざと撃たせて陰気で押し流す。


 術行使のタイミングとぴったり合わせて大量の陰気をあふれさせるのだ。ジローが練った魔力は大波にさらされた砂山のように、跡形もなく流される。


「遅い! すべてが遅い! のろのろと魔力を練るな! 術の宣言の前に集中だと? 止まるな、固まるな! 貴様はただの的か?」


 マランツ自身は一歩も場所を変えていない。稽古が始まった瞬間から、同じ場所に棒立ちである。


「止まった的にも当てられんのか? ほれ、呼吸法を忘れるな! 魔力が乱れているぞ!」


 ジローが必死に発する魔術を、マランツは自在に受け流し、かわし、あるいはカウンターで撃ち返した。


 マランツが撃つ魔術は威力を抑えてある。ジローを転倒させ、苦痛を覚えさせるが、後に残る怪我にはならない。


 絶妙の力加減であった。


(先生はこれ程の達人だったか)


 道場で稽古に立ち会うヨハンセンは、落ちぶれたとばかり考えていた師が操る精妙な魔術を見て、感動すら覚えていた。


 夜ごと繰り返される自由稽古で、マランツはジローが放つあらゆる攻撃を見事にさばききり、余裕を持ってカウンターを決めていた。


(ジローとて学生としては群を抜く実力だが、これではまるで赤子扱いだ)


「魔力の動きを敵に見せるな! のんびり魔力を練っているから、カウンターを合わされるのだ。息をするように、自然に術を飛ばせ!」


 マランツの指摘は的確かつ細部に渡っていた。自身が語っていたように、戦場で生き残るための工夫をジローの頭と体に叩き込んでいるのだった。


(先生はこれだけの極意を身につけるために、どれほど傷を負い、血を流したのだろう……)


 ヨハンセンの目にはマランツの背後に、血煙立つ戦場が見えた。汗と埃にまみれた人の群れが武器を振るい、魔術を飛ばす、狂乱の戦場が。

 軍馬のいななき、剣戟の音、ときの声までが聞こえてくる。


 食い入るように師の姿を見つめるヨハンセンの筋肉は震え、その全身は冷たい汗に濡れそぼった。


 1時間の稽古が終わるころには、ジローの脳は焼け、全身が筋肉痛に悲鳴を上げていた。


「今日はこれまで。しっかり汗を流してから寝るように。呼吸法千回、忘れるな」

「……ありがとうございました」


 ジローは気を失って倒れた。


 ◆◆◆


 最初の1週間は単純な魔術の撃ち合いだった。7日めにはジローの呼吸は安定し、息を乱すことがなくなった。


 2週目は武器を持たせた。杖や剣を手に、魔術と武器を使った攻防を繰り返した。ジローは武器を振る合間に魔術を使うだけでなく、武器から魔術を発すること、武器を使いながら同時に魔術を使うことを覚えた。


 3週目は飛び道具を使用した。弓矢や手裏剣、つぶてを撃ちながら魔術を使う。マランツは、飛び道具に魔術を乗せて敵に当てる技を見せたが、これはジローには難しかった。

 自分から魔術付与することまではできず、マランツが放ったつぶてを受け流すことで精一杯であった。


 4週目は正座したままの稽古が行われた。


「体を鍛えなければ生き残れぬ。だが、魔術師にとって最も重要なのは精神だ。精神の力で敵を凌駕りょうがしなければ、戦いを制することはできない」


 心身一如の境地を目指すならば、それは真理である。しかし、どうやって精神を鍛えたらよいのか?


「今からわしはお前の精神を攻撃する。お前はそれに耐えよ」


 正座してジローに向き合い、マランツはそう宣言した。


(精神を攻撃するとはどういうことだ? 先生はどうやってジローを鍛えるおつもりか?)


 異変は前触れなく訪れた。


「うぅ、ううー!」


 突然、ジローの体が傾いた。


「今お前が感じているのは、肉体の苦痛ではない。わしが送り出している、お前の精神への圧迫だ」

「ぐ、ぐぐ……」

「苦しいか? 痛いか? 熱いと思えば熱くなるぞ? 冷たいと思えば冷たくもなる」

「は、あぁぁ……」


 何が行われているか、ヨハンセンの目には映らない。ジローが勝手に苦しんでいるように見えるだけであった。


(先生は、一体何をしている? これは暗示なのか、幻術なのか? いや、そのような素振りはなかった)


「ジロー、忘れたか? 魔術師にとって大切なものは何か? 思い出せ!」


 マランツはそれまで以上のプレッシャーをジローに与えながら、全身全霊で大喝した。


「う、うぅううう……。ふ、はぁ、すー……」


 苦痛に顔を歪ませながら、ジローは意志の力で呼吸を整えた。すると、大きく動いていた体の揺れが徐々に治まる。


「わかったか。すべては呼吸に始まる。呼吸を支配する者は、己の脳の主人たり得るのだ。脳を制する者が魔力を制す」


 静かに、噛んで含めるようにそう言うと、マランツはジローへのプレッシャーを解除した。


「わしの教えはこれまでだ。後は自ら工夫せよ。魔術の道に終わりはない。精進せよ」

「先生、ありがとうございました!」


 両手をつかえたジローは深々と頭を下げた。


 冬休みに見舞った時にはマランツは酒毒に身を侵され、まともに歩くこともままならなかった。その師が1カ月もの間、連日激しい稽古をつけてくれた。

 ダメージが残る脳にとってどれほどの負担であったか?


 1時間の稽古が終わるころ、マランツは汗の1つもかいていなかった。それがむしろ不自然であった。

 顔面から血の色が失せ、仮面のように表情を無くしていた。


(先生は、自分のために命を削ってくださったに違いない)


 顔を上げると、マランツは自分の指から1つの指輪を外し、ジローの前に差し出した。

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