第471話 泣くのは構わんが、それより先に敵を憎め。

「立て。戦場で敵が休ませてくれると思うか?」


 冷たい声で老人は、ぼろきれのように床に倒れた少年を罵った。


「ぐっ。はあ、はあ……」


 少年は床板に片手を突いたが、腕が震えるだけで一向に体が持ち上がらない。

 汗で手のひらが滑り、どさりと転がってしまった。


「立て! 立たねば死ぬと思え!」


 鋭い語気と共に、老人は爪先で少年の脇腹を蹴りつけた。肉の一番柔らかい部分に、親指が突き刺さる。


「ぐふぅっ! うう、ご、おおう……」


 芋虫のように身をよじった少年の口から、押えきれず胃液が噴き出した。食道を焼く苦しさに思わず咳き込めば、胃液は鼻に入ってさらに少年を苦しめる。


「己の弱点を敵に晒すな! 腹を蹴られても胃の中身を戻すな! 咳をするな! 目をつぶるな!」


 叱咤を続ける間も、老人の足は少年を蹴りつける。骨を折ることも、傷をつけることもない蹴りは、ただ「苦痛を与えること」のみを目的に繰り返された。


「どぅうっ! あっ、ぐぅ、お、お、お……」

「悲鳴を上げる暇があったら、呼吸を整えよ! 声を上げても痛みは去らんぞ!」


 少年は必死に体を丸め、唇をかみしめた。


「唇をかむな、馬鹿者! 自分の歯で唇をかみ切るつもりか?」


 ぽんと足の裏で軽く踏んでやるだけで、少年の唇から血が流れた。


「顔面を敵に晒すな。目、鼻、口から出血すれば、視界を塞がれ、呼吸ができなくなるぞ!」


 声を殺し、苦痛に耐える少年の目じりから、こらえきれず涙が流れる。


「泣くのは構わんが、それより先に敵を憎め。憎しみと怒りは、体を動かす力になる」

「グゾ爺ぃ……」


 床に顔を擦りつけ、亀になろうとする少年の口から呪詛の言葉がこぼれ出た。


「ふん。少しは元気が残っているようだの。……立て、ジロー」


 床で自らの胃液にまみれているのは、ジロー・コリントであった。


 それを冷たく見下ろすのは、もちろん師であるマランツだ。


「ぐ、ぐ……」


 苦痛をこらえてジローは、立ち上がろうとした。


「馬鹿か、お前は―!」


 短杖ワンドの一振りで、土魔術がジローのふらつく体を襲い、空気の塊が全身を叩く。


「がふっ!」


 壁に叩きつけられたジローは、衝撃のあまり肺の空気をすべて吐き出した。


「がはぁっ、はあっ!」

「どこの世界にのんびりと立ち上がるのを待ってくれる敵がいるかっ! 隙を見せるな!」

「はあ、はぁ」


 ジローはよろめく足で床を踏みしめ、自分の短杖を構えた。


「敵が死ぬまで戦いは終わらないと思え。……あるいは、自分が死ぬまでだ」

「はぁ、はぁ」

「呼吸は深く、長く、できるだけ静かに行え。敵に呼吸を読ませるな」

「はぁ、ふ……」


 空気を求める肺を抑えつけて、ジローは呼吸をコントロールした。呼吸法は魔術師の基本である。

 短杖を構えるだけで震えていた右手が、ようやくぴたりと静止した。


「よし。今日はこれまで! 寮に帰って呼吸法千回、今日の教えを反芻しながらだ」

「……ありがとうございました」


 ジローは残心のまま床に正座し、短杖を膝の前において平伏した。

 礼を終わって顔を上げた時、脂汗にまみれた顔は土気色であったが、その眼は光を失っていなかった。


 ◆◆◆


「先生、厳しすぎるのではないでしょうか」


 ジローが去った後、マランツに茶を給しながらヨハンセンが言った。


「ジローは伯爵家の次男です。あそこまで追い詰められたことはないでしょう」


 ことりとカップを置いて、マランツは顔を上げた。


「だからこそだ。戦いというものの本質を、わしが教えてやらねばならぬ」

「『殺し合い』ですか?」

 

 ヨハンセンは渋いものをかじったような顔で言った。


「馬鹿を言え! ジローに殺し合いを教えてどうする?」

「では何を?」


 意外な答えに当惑して、ヨハンセンは尋ね直した。


「『殺されないこと』だ」

「殺し合いと同じことでは?」

「何を言うか。『殺し合い』とは互いに相手を殺そうとするところから始まる。わしが言っているのは『生き残ること』だ。『サバイバル』と言っても良い」


 マランツにはきちんとした理論があるらしい。現実に、彼は数多くの戦で戦い、生き延びてきた。


「人ではない自然や動物を相手にしても、生き残るには心構えと技術が必要だ。わしは、それをジローに教えているのだ」

「心構えもですか」

「むしろ、心構えこそが重要だ。間違っても、アカデミーで教えることではないからな」

「それで厳しく当たっているわけですか」


 稽古でマランツはジローを追いつめていた。苦痛と疲労をこれでもかと与え、ジローの心を折りにかかった。


「一か八かですね。ジローの心が折れてしまったら、そこで終わる」


 下手をすれば魔術師としての人生がそこで終わるかもしれない。ヨハンセンには非常に危険な賭けに見えていた。


「そこで折れるような人間であれば、戦いに挑むべきではない。ならば、折れてしまった方が幸せなのだ」


 戦いを繰り返す人間とは、どれほど抑えつけられても折れない心を持つ者であった。


「大抵はねじ曲がってしまうのだがな」


 マランツは自嘲するように、乾いた笑い声を立てた。


「ジローは折れんよ。あれは次男だからな。それ戦うことしか道がないと思い込んどる」

「それはそれで、哀れなことですね」


 ヨハンセンはしみじみと言った。

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