第3節 イデア覚醒
第257話 あなたにあって、わたくしにはないもの。それは何でしょう?
一方で、自分はどうだろうか? 進歩しているのか?
ステファノの変化が著しいため、ミョウシンは自分のことが気になった。他人と比べることに意味はないと、頭ではわかっている。しかし、それでも気になってしまうのが人というものであった。
「ステファノ、わたくしは進歩しているのでしょうか?」
「えっ? どういうことですか?」
「あなたは日に日に進化しています。相手をしているわたくしにはよくわかるんです。それに比べて自分はどうなのだろうと、不安になります」
「そんなことがありますか? うーん、自分のことはよくわからないと言いますが……」
ステファノは先程までの稽古を思い返していた。
「そう言われると、俺の方は柔に慣れて来たんだと思います」
「慣れですか?」
「はい。最初はすべて知らない動きでしたから。稽古を重ねて自分の動きになってきたということじゃないでしょうか?」
確かにその通りだろう。それにしてもそこまでの期間が短すぎるのだが。
「それだけではない気がするんです。あなたほど崩しにくい相手は同年代にいませんでした」
「崩しがききにくいということですか。なるほど……。それは技とは関係ないかもしれません」
ステファノには心当たりがあった。
「それは何でしょう? 基礎体力ですか? 精神力ですか?」
ミョウシンはステファノの言葉に食いついた。自分の柔を進化させることができるなら、どんなヒントでも手に入れたいと思ったのだ。
「あなたにあって、わたくしにないもの。それは何でしょう?」
「それは……イドの制御かもしれない」
ミョウシンの必死な目を見た時、ステファノは適当に話を誤魔化すことができなかった。
(この人にとって、それは人生を懸けた問いなのだろう)
「イドの制御、ですか……?」
ミョウシンの声が尻すぼみに小さくなった。
「魔力のないわたくしには縁のない話なのですね?」
がっくりと肩を落として、ミョウシンは俯いた。
「それは――違います!」
一瞬のうちに、ステファノは心を決めた。ミョウシンを信じようと。
「イドとはすべての人が持つ存在の本質です。人にとどまらず、この世界の森羅万象すべての
ミョウシンは初めてステファノを見た。そこにいたのはおとなし気な田舎の少年ではなく、道を説く修行者であり、1人の哲学者であった。
「すべての物事が持つもの……わたくしにもある?」
暗闇に灯りを見つけた人の目で、ミョウシンはステファノを見た。
「あります。それはあなたそのものです」
ステファノは柔らかな春のように微笑んだ。
「あなたのイドは静かで、ムラがない」
ミョウシンは頬を撫でられたように感じた。それは目じりからこぼれ落ちた自分の涙であった。
「見えるのですね。わたくしのイドが」
「見えます。その存在を疑う必要はありません」
ミョウシンは道着の袖から突き出た自らの腕をそっと撫でた。
「どうしたらわたくしにも見えるのでしょう? 制御する方法はあるの?」
「
そういってステファノはあぐらをかき、禅定印を結んだ。
上に向けた手の中に、
「イドは魔力の源であり、すべての魔力はイドに還ります。陽気は発し、陰気は滅す。陰陽は2つにして1つ」
ステファノは禅定印を解き、左右の説法印に分けた。
「瞑想の仕方を教えます。先程の俺のように、へその下に手を置いてください。そうです。丹田の位置です」
ミョウシンは素直にあぐらをかき、印を結んだ。このような瞑想作法は柔の修養に含まれていたので、抵抗はない。瞑想中は心を無にせよと教えられていた。
「呼吸は長く、静かに。吸い込んだ息を下腹まで運び、そこで回してからまた上に戻すイメージ」
ミョウシンはステファノの声に意識を集中する。その言葉のある場所に自分の心を運ぼうとした。
呼吸は深く、長く、繰り返された。
「宇宙は、世界はあなたの体内にあります。存在の内側に世界がある。世界に開く扉こそが、あなたのイドです」
ミョウシンは想像する。体の芯に内包された宇宙を。黒い黒い、どこまでも黒い球が、体の芯に浮かんでいることを。
「深く、深ーく吸い込んだ息が内なる世界を押し下げます。息に乗って球は体内を下り、両手の中に収まる」
中が見えない茫洋たる幽玄を息に載せて手のひらに運ぶ。ミョウシンは体内に意識を集中した。
「あなたは赤い陽気です。宇宙の球を包み込み、その境界から内部を覗き込む。陽気となって息に乗り、体内を下りてきます」
息の動き、腹を膨らませ、凹ませる筋肉の動き、それらがイメージの世界に重なった。うねりの中を赤い球となってミョウシンは下って行く。
「丹田まで降りた陽気は、両手の中に収まります。両手の中で陽気は巡る。くるり、くるりと陽気は回る」
ステファノの声は静かにミョウシンの内面にしみいる。ミョウシンはまるで自分がそう考えているように感じていた。
「陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず。陽気は巡りながら陰気を生む。赤い球は、紫の球を生み、2つは互いを追って巡り、巡る」
「赤は紫に転じ、紫が赤を塗りつぶす。やがて2つの球は1つの
「赤であり紫であるその玉は太極を宿しています。太陽と太陰を宿し、太極の玉は再び呼気に乗り体内を上る」
ステファノは左右の手をミョウシンの体を挟むように広げた。その手の中には陽気の玉と、陰気の玉が収まっている。
陽気と陰気に挟まれて、ミョウシンの体内には押され、引かれる感覚が生じる。感覚はイメージの拠り所となり、さらに太極玉の実存が明瞭なものとなった。
「太極玉は
ステファノは左右の手、親指と人差し指で作った輪をほどき、陽気と陰気を解き放つ。放たれた2つの玉は互いを追って、ミョウシンの体の周りを巡る。
2つの玉が描く軌道の中心に、ミョウシンの意識はあった。そこにイメージした太極玉は体外を周回する2つの玉の投影であった。
想像上の太極玉がミョウシンの頭頂部まで上り詰めた時、ステファノは左右の手でふわりとミョウシンの頭部を挟み込んだ。
「そこに宇宙がある。初めから宇宙はそこにありました」
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