第210話 落ち着いて読めば、数字があなたに語りかけるでしょう。
「だったら、俺は積極的にトーマと関わるべきでしょうか?」
「俺は宿命論者じゃないが、起こるべきことは起こると考えている」
「こうあるべし」と誰か、あるいは何かが規定したことはいつか起こるのではないか。サントスはそう感じていた。
「トーマの加入が必要で、ふさわしいものであれば最後はそうなる。ステファノが無理する必要はない」
スールー同様サントスもステファノに無理をするなと言う。
人の出会いとは無理をするものではなかろうと、ステファノ自身も思った。
「わかりました。トーマのことは自然に任せようと思います」
「それとは別に、研究報告の役に立ちそうな物を思いついたんで今日の午後報告します」
「ほう。初会合から成果あり?」
「物になるかどうかはこれからですが」
「上等。それを考えるのが研究会」
研究に失敗はつきものだ。失敗を恐れていては研究などできない。
そのことをサントスはよく知っていた。
「集合場所はサントスさんの部屋ですよね?」
「今日はそう。今日はステファノに試作品を見せる」
「これまでの成果ですね? サントスさんの部屋にあるんですか?」
「スールーは片づけられない子。大事なものを預けられない」
どうやらスールーは頭の中身は整理できても、部屋の中身になるとだらしなくなるようだ。
さすがに年頃の女子部屋に入るのは気が引けるので、ステファノとしてもサントスの部屋の方がありがたかった。
3限目の時間が近づいて来た。
ステファノはサントスと別れて、「商業簿記入門」の教室に移動した。
◆◆◆
商業簿記入門の講師はセルゲイと言う中年男性だった。
教室に集まった生徒は8人。全員1年生で、内2名は一般学科の平民。5名は一般学科の貴族であった。魔術科からの履修はステファノ1人である。
(どうして魔術科から来ているのが俺1人なんだろう? トーマとかデマジオは商人の跡取りだろう? 簿記の勉強をするべきじゃないか?)
彼らが受講しない理由は「面倒くさいから」である。簿記など使用人に任せれば良いと考えていた。
「みなさんこんにちは。商業簿記入門の講師を務めるセルゲイです。よろしくお願いしますね」
セルゲイは黒目、黒髪で身長175センチ。がっちりした体格の男だった。
教壇には助手に運ばせた書類の束が積まれている。結構な量であった。
「ほお、今年は魔術科から1人登録しているんですね? ステファノ君ですか? 君はどうしてこの授業を?」
教壇から降りて生徒の列に近づいたセルゲイは、早口で畳みかけるように質問した。
「実家が食堂をやってます。家の手伝いで簿記を習ったことがあるので、きちんと勉強したいと思いました」
ステファノは正直に事情を答えた。
「なるほど、そういうことですか。魔術科からの受講は珍しいのでね。結構ですよ。一緒に勉強しましょう」
セルゲイは他にも一般学科の生徒2名を指して、同じ質問をした。
「家庭教師の勧めです。政治を学ぶために有益であると」
「同じく教師の勧めです。経営者にとって重要な技術だと言われました」
前者はお貴族様、後者は平民の生徒である。
「はい。結構ですよ。どちらも本当のことですね」
セルゲイは生徒から離れて、教壇に戻った。
「簿記はね、武器なんですよ」
秘密を打ち明けるような声音で、セルゲイは生徒に語り掛けた。
「個人を超えてある規模の経済活動をするならば、簿記を知っているか知らないかで勝敗が変わります」
「商いは経済活動ですね?」
「都市の内政も経済活動です」
「国家経営も経済活動ですね?」
「戦争も経済活動です」
「衛兵も、孤児院も、医療所も、売春宿でさえ、すべて経済活動であります」
わかったかと言うように、セルゲイは8名の生徒を1人ずつ見詰めた。
「簿記を知り、使いこなすことであなたは組織の財政状況、経営状況を正しく知ることができます。何が上手く行き、どこで失敗しているか、それをいち早く知ることができるのです」
「どうです? 素晴らしいでしょう?」
セルゲイは目を輝かせた。
「しかし! 正しい状況判断をするためには正しい情報が必要です。取引を正しく適切に記録しなければなりません」
「そのための知識が商業簿記なのです」
セルゲイは深呼吸をして息を整えた。
「ですからつまらないとか、退屈だとか、面倒くさいという理由で授業を放り出さないでほしい。……もったいないのでね」
気のせいか、ステファノにはセルゲイの表情が寂しげに見えた。
「つまらないのは簿記の方法論が確立されているからです。ルールが決まっているので、創造性に欠けるように感じるのですね」
セルゲイは指を立てて見せながら、語った。
「退屈なのは内容を理解していないからです。理解するための勉強がこの講座ですね」
2本目の指を立てた。
「面倒くさいのは、簿記の重要性を理解していないからです。重要と知っていれば、労力を割いても面倒とは感じません」
3本目の指を立ててセルゲイは力説した。
ステファノは自身の経験を振り返ってみる。帳簿記入はつまらなかったか?
面白いか、つまらないかで言ったら「つまらない」であろう。必要があるから記帳していたという気持ちであった。
帳簿記入は退屈だったか? これには「否」と答えるべきだと感じた。単調な作業であることはその通りであるが、やらなければいけない重要な仕事だと意識していたので「退屈」に感じる余裕はなかった。
帳簿記入が面倒くさかったかどうか? これも答えは2番目と同じだった。セルゲイのいう通り、簿記の重要性を理解していれば「つまらない」と感じても、「面倒くさい」とは感じない。
結局「入り口」のところで「つまらない」と感じてしまうために、「退屈だ」だとか「面倒くさい」という否定的な感想が引き起こされてしまうのだろう。
通常の講義ではここから帳簿の種類とか形式の説明が始まる。「損益計算書」や「貸借対照表」などの構成や特徴を勉強するのが通例だ。
「それをやると多くの生徒が初日で飽きてしまうのでね。ちょっとやり方を変えてみました」
セルゲイは黒板に図表を映し出した。
「ケースAというのが成功例ですね。反対にケースBというのはつぶれた組織の事例です」
帳簿に現れた数字だけを見て、両者はどう違うのか?
それを振り返ってみようというアプローチであった。
(これは面白いやり方だな)
ステファノだけでなく、他の生徒たちも興味を惹かれたようであった。
興味があれば知識は意味を持つ。
セルゲイは巧みに生徒の興味を引きながら、簿記の入り口を紹介して行った。
「さて、簿記が面白いかどうかは別として、役に立つものだということは理解してもらえたのではないでしょうか?」
一通りの説明を終えたセルゲイは、生徒たちに問いかけた。
「ここでお待ちかねのチャレンジです。今からみなさんにある商店の帳簿の写しをお渡しします。ちょうど1年分ですね」
セルゲイは生徒を呼び寄せ、1人ずつ書類を持って行かせた。
「さて、この商店では経理担当者による不正が行われました。それはこの期間の中に含まれています。皆さんはこの帳簿を見てどこに不正があるのかを発見してください。そしてわかった人はそれを不正と考える根拠を書いて、次回の授業で提出すること」
これはまた大変そうな課題であった。調べる対象が1年分とは。
「もちろん強制ではありませんよ。通常授業の成績とは関係ありませんので、チャレンジを目指さない人は取り組まなくても結構です。そのことで差別はしません」
これはチャレンジ全般に共通したルールであった。挑戦者とそれ以外の間で取り扱いに差を設けないこと。
生徒の中には帳簿の写しを見て諦めたのか、早々に返却する者もいた。
「1つだけヒントを上げましょう。簿記にはルールがあり、帳簿には秩序があります。この帳簿は一見破綻なく作られていますが、所詮偽りの物です。見る人が見れば
「本日の授業は以上です」
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ここまで読んでいただいてありがとうございます。
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