第2話

 雨のなか、僕は母さんと一緒に車で十分のところにある総合病院に行った。エレベーターに乗って四階へ行き、ナースステーションの前を横切っていくとばあちゃんの病室がある。扉を開けて中に入ると、ばあちゃんが眼鏡をかけてベッドで本を読んでいる姿があった。読んでいた本から顔を上げ、ばあちゃんは僕達の来訪に気付いた。

「おばあちゃん、元気?」

 母さんが声を掛けると、嬉しそうに笑って頷く。

「あら、今日は晶も来てくれたのねぇ」

「うん。しばらく来られなくてごめん。体調はどう?」

「先生も驚くほど良いわ」

「そっか。良かった」

「おばあちゃん、もうすぐ退院になると思うのよ。これから先生と具体的な退院の日程を相談してくるから待ってて」

 そう言うと、母さんは病室を出ていった。僕は病室のベッドの傍らにある椅子に座った。

「やっと家に帰れるようになるわ。もうこの病室には飽きていたの」

「家に帰ったら、おいしいご飯も食べられるよ」

「そうねぇ」

 ばあちゃんは開いたままの本に栞を挟んで閉じた。

「お母さんから聞いたよ。受験、残念だったねぇ」

「……うん」

「これからどうするの? 来年、また受けるの?」

 僕は黙したまま視線をそらした。

「まぁ、晶の自由だけど、あまり長いこと浪人は続けていられないわね。受験しないなら他の道を見つければいい。やりたいこととか、目標はないの?」

 目標といえば、受験で合格し、大学に入ることだった。そのつもりで受けたが、、その目標はもう潰えてしまった。

「ないなら……仕事を探していくとかね。これからのこと、考えておきな」

 わかっている。でも、そんなに簡単じゃない。気持ちの整理がついていないのに、これからのことを冷静に直視出来るわけがない。それに、自分の無能さを痛感したのに、これからの自分の道にどれだけ選択肢があるのだろう? そもそも出来ることなんてあるのだろうか?

「あれ、もう水がないね」

 ばあちゃんの視線の先を見ると、脇に置いていたペットボトルの水がなくなりかけていた。

「同じやつ、買ってくるよ」

 僕はそう言って立ち上がった。

 窓から見える雨足はいつの間にか強くなっていた。


 病室を出て近くの自動販売機で水を買おうとしていた時、すぐそばの病室から見覚えのある男が出てきた。思わずじっと見ていると、昨日会った缶コーヒーの男だと気付いた。

 僕の視線を感じたのか、缶コーヒーの男が振り返ってきて目が合った。

「あっ! 昨日、駅で会った方ですよね?」

「どうも……」

 男は昨日と違って私服だった。僕は誰かすぐにわからず男を見続けてしまって、ばつが悪かった。

「お見舞いですか?」

「はい。ばあちゃんが肺炎で入院していて……。でも、もうすぐ退院できるそうです」

「それは良かった。お元気になられたんですね」

 僕は、男が出てきた病室をチラッと見て尋ねた。

「どなたか入院されているんですか?」

「えっ? ……あぁ、そこの病室には私が昔お世話になった先輩がいまして。時々見舞いに来るんです」

「そうなんですか」

「もうすぐ娘さんの卒園式と入学式を控えているそうなんですが、先輩は入院が長引いて、どちらも出席が出来る状態じゃないんです」

「重い病気ですか?」

 男はうつむいて言った。

「胃ガンです。先輩の場合、初期段階では症状が全くなく、すぐには気付くことが出来なかったようです。今は抗ガン剤治療を行なっています。家族のためにも元気になって退院するのを望んでいますが……厳しいようです」

 僕は慰めの言葉や気の利いた言葉が何一つ浮かばなかったが、そのとき思ったことを告げた。

「生きていくのが嫌になって自殺したり、すぐにでも死にたいって考える人が世の中たくさんいるのに、頑張って生きている人がそんな重い病気に罹るなんて不条理ですね」

 男は顔を上げて、じっと何かを読み取るかのように僕を見つめてきた。変なことを言っただろうか。

 やがて、男は口を開いた。

「……君は前者?」

「え?」

「今、生きていくのが嫌になっているの?」

 僕は答えに詰まった。でも、その沈黙こそが答えになってしまった。

「そうか。……今、時間ある?」

「えっ? ……少しくらいなら大丈夫ですけど」

「それなら、君に提案したい話があるんだ。もし良ければ聞いてほしい」

 僕は不思議に思ったが、頷いた。

「ありがとう」

 男は懐から名刺を取り出し、僕にわたした。

「まだ、名前を言っていなかったね。私は相沢透という者です」

 名刺には『最先端科学研究所 相沢透』と、連絡先が表記されていた。僕も自分の名を名乗った。

 僕と相沢さんはそばにあったベンチに移動して座った。

「君は今いくつ?」

「二十歳です」

 相沢さんは目を見開いた。

「……二十歳か。若いね。学生かい?」

「いえ……」

「仕事しているのか」

「バイトですけど」

 それから相沢さんは何事か思案していたが、僕を見て話し始めた。

「君がどうして生きるのが嫌になっているのか、無理に聞くつもりはない。ただ、そう感じている君だからこそ提案したい話なんだ。……あっ、布教活動ではないよ」

 僕の眉間に皺が寄り始めたせいか、相沢さんは言った。

「私は研究者でね。最近、技術者と協力してある装置を開発したんだ。一般の方にはまだ使用したことがないものなんだが、その装置を入院している先輩のために使用することを考えている。だけど、使用するためにはもう一人必要なんだ。二人いて使用出来るものなんだよ」

「そのもう一人が僕ってことですか?」

 相沢さんは頷いた。

「私が開発した装置は、人と人の病気を入れ替える装置だ。自分が罹っている病気を相手に、相手の病気を自分に移すんだ」

 相沢さんの話は僕にとって寝耳に水だった。そして困惑した。相沢さんの夢か妄想を聞いているのか……相沢さんの様子から、冗談を言っているようには見えなかった。

「君が戸惑うのもわかる。でも実際、こういった現実離れしたような研究が進んでいるんだ。公にはされていないが、人間が空を飛ぶための翼型の機械や、その日見た夢を映像化して見られるようにする、頭に装着するタイプの装置などね」

 僕は翼型の機械を想像してみた。それを身に着けて空を飛ぶ自分の姿は夢のようでもあり、同時に翼が重そうでもある。……やはり現実味がない。

「先輩にはすでにこの提案をしてある。今は交換相手を探しているんだ。交換してそのままということにはならないよ。娘さんの卒園式、入学式に出席できるように一時的に行なうという計画だ」

「それじゃあ……僕が交換相手になったら、僕が胃ガンになって相手の方が健康になるということですか?」

「そうだよ。信じられない話だと思うけど、自分の体で実験済みだ」

「交換したんですか!?」

「助手の一人がインフルエンザになってね。なるべく他の者にうつらないように私と彼、結果を見届けるためにマスクを着用した技術者の三人で実験した。実験後は急に怠くなってしんどかったよ。熱を測ったら三十九度もあった。元々罹っていた彼は、身軽になったようで元気そうに動き回っていたよ。成功したことを確認したらすぐに戻したけどね」

 僕は自分に置き換えて考えてみようとしたが、自分が胃ガンになるということが想像出来なかった。

「今回は胃ガンという重い病気だし、一時的な交換といっても実際にやるとなれば、もちろん不安があると思う。入院することになるから、君の生活にも関わることだしね。だから、今すぐに返事を聞くつもりはないよ。よく考えてみて。決めたら、名刺にある連絡先に電話してほしい」

「……わかりました」

 相沢さんは僕の言葉を聞くと、立ち上がった。

「時間を取らせてしまって悪かったね。聞いてくれてありがとう。連絡を待っているよ」

 そう言うと、相沢さんは去っていった。これからどうするか……突然、現実味のない選択肢が生まれて僕は悩んだ。


 僕はペットボトルの水を持ってばあちゃんの病室に戻った。病室には母さんが戻ってきていた。

「随分遅かったね。どこに行っていたの?」

「……トイレに行ってた。ばあちゃん、これでいい?」

「ありがとねぇ」

 僕はばあちゃんにペットボトルの水をわたした。

「退院は来週の月曜日になったわよ」

「そっか。良かったね、ばあちゃん」

 ばあちゃんは嬉しそうにニコニコしていた。

 僕は、自分も同じように病院のベッドに横たわっている姿をイメージした。ばあちゃんが退院したばかりの時に自分が胃ガンで入院となったら、こうして見舞いに来てくれるのは家族だけだろう。もう、学生時代の友人とは連絡も取っていない。他に来てくれそうな人は一人も思い当たらなかった。

「それじゃあね、おばあちゃん。明日は智が顔を見せに来るから」

 僕は母さんのあとに続いて、ばあちゃんの病室を出た。


 その日の夜、僕が寝る前にリビングで麦茶を飲んでいると、兄貴が帰ってきて母さんにばあちゃんの様子を訊いていた。

「月曜日に退院か! 元気になって良かった」

「そうなのよ。おばあちゃんも喜んでいたわ」

「ばあちゃんには試験のこと、話したのか?」

 兄貴が急に僕の方に顔を向けて訊いてきた。

「えっ……?」

 思いもよらない話題の転換に、僕は動揺した。

「前にお見舞いに行った時、僕のことを心配していたからさ」

「……うん」

「ばあちゃんも元気になったんだし、あんまり心配させるなよ」

 僕は何も言えなかった。母さんの視線を感じたが、そのまま自分の部屋へ行った。

 心配させようなんて気は、もちろんない。努力をすればそれ相応の結果を出し、器用に何でもこなせる兄さんからすれば、そう見えるのだろうか。僕自身も良い報告をしたかった。    

 でも、結局は失望し、兄貴との違いを明確にさせているだけだ。呆れられて、比較されることもなくなっていくのだろうか……。

 僕はハンガーに掛けていた上着のポケットから相沢の名刺を取り出した。それを机の上に置いてある携帯の隣に置き、部屋の電気を消した。ベッドに横になると、夕方に聞いた相沢さんの話を思い返した。

 僕は早く楽になりたかった。




                              ー続ー

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る