胡蝶の夢

望月 栞

第1話

 子供の頃にああなりたい、こうなりたいと描いていた夢があった。

 しかし、実際はどうだ。未来の自分がこんな状況になるなんて、思いもしなかった。

「えっ……?」

 周りで歓喜の声が行き交うなか、僕は一瞬、思考を停止した。あるはずのものが見当たらない。ズラッと並んだ数字の中に自分の番号がなく、もう一度上から順番に探していく。

「落ちた……」

 有名私立大学の校門の側にある掲示板を見詰めながら、晶は呟いた。第一志望だった公立大学に落ち、あくまで第二志望の私立大学の試験結果でまた同じことを繰り返すとは思わなかった。


「おかえり。どうだった?」

 家に帰ると、待っていましたとばかりに母さんが聞いてきた。僕は口にしたくなかったが、そんなわけにもいかず、母と目を合わせずに答えた。

「落ちた。ごめん」

「……そう。残念だったね」

 母の声には落胆が入り混じっていた。

 今回の受験は二度目の挑戦だった。現役での受験で失敗し、浪人して去年以上に勉強し、もう一度受験に挑んだ結果がこの有様だ。僕は申し訳ない気持ちと自分自身への失望で悲しくなった。

 僕が夕飯を食べ終わった頃、父さんが帰ってきた。父さんはリビングに入るなり、開口一番に結果を聞いてきた。僕が一瞬、答えるのをためらうと父さんは言った。

「そうか。それなら、仕事を見つけなさい」

 僕は鈍器で頭を殴られたような気がした。母の視線を感じていたたまれなくなり、とっさにリビングを出て自分の部屋へ戻ると、そのままベッドに倒れ込んだ。

 何を間違えてこんなことになっているんだろうか。

 僕は自分の現状を受け入れられなかった。高校時代の友人は四月には大学二年生になるというのに、自分は第二志望の大学にすら入れず、仕事を探せと父さんに言われる始末だ。

 二日後には、一人暮らしをしている兄の智が帰ってくる。僕は兄貴に今の自分の現状を知られたくなかった。


 僕はアルバイトのため、十一時に家を出た。兄貴は昼過ぎに帰って来ると母さんから聞き、僕はいつもより早めに家を出ていた。

 僕のアルバイト先はスーパーの青果部門だ。後輩には年下の現役大学生の岡野がいて、今日は彼も出勤してくる日だった。

「先輩、おはようございます」

「おはよう」

 制服に着替えて更衣室を出ると、ちょうど岡野と遭遇した。

「今日、先輩は最後までなんですよね? 俺、今日は先に上がっちゃいますね」

「うん。最近は早番が多いな?」

「そうなんですよ。レポートが多くて……。出さないと単位が取れないですし。遅くまでやるんで、眠くてしょうがないですよ」

 僕は岡野が嫌いではないけど、こういった大学生の日常を聞くのは嫌だった。自分もレポートや課題に追われて困ることがくるだろうと思っていたのに、それが起こることはない。

「……まぁ、頑張れ」

 僕は早々にその場を離れて品出しを始めることにした。


 アルバイトを終え、僕は駅のホームでベンチに座り、家に帰った後のことを考えていた。兄貴とこれから会うことを考えると、憂鬱で仕方がない。

「あっ、すみません!」

 同じベンチに座っていたグレーのスーツ姿の男が僕の足下に缶コーヒーを落とした。わずかに入っていたらしく、落ちた際に缶から出たコーヒーが晶のズボンに跳ねた。

「跳ねてしまいましたね……」

「まぁ、目立たないですし、そんなに汚れてないと思います。たぶん」

 僕は不幸中の幸いか、黒いズボンを履いていた。そのおかげでコーヒーのシミは目立たなかった。しかし、受験に失敗し、今日は兄貴が帰ってくるうえにズボンがコーヒーで汚れる。僕は今、とことん運がない……。

「そうですか……。本当にすみません」

 男は頭を下げた。

「大丈夫です」

 男は缶を拾い、自動販売機の隣にあるごみ箱に捨てた。僕は自然と小さくため息が出た。

 去年の受験の結果を知った後もこんな感じだった。家に帰る途中、ショックで何も考えられずに歩いていたら、何もないところでつまずいて転んだ。そのうえ、鳥のフンで制服が汚れた。

 そして、まるで見計らっていたかのように、結果発表の三日後に兄貴は帰ってきた。結果を聞いて、兄貴は「俺が受かったんだから、お前もやれば出来る。次、頑張れ」と適当な励ましを言ってきた。僕はむしろいっそう落ち込んだ。

 自分はこんなことを繰り返してばかりいる。兄貴に続いて良い結果を出せず、親の期待に応えられないことが多かった。その度に自分の無能さを痛感し、兄貴と同じことが出来ないといつも歯痒かった。

 僕は去年の出来事を忘れようとかぶりを振った。すると突然、目の前に缶コーヒーが現れた。驚いて見上げると、先程の男が僕に缶コーヒーを差し出していた。

「お詫びといってはなんですが、これをどうぞ」

「えっ、でも……」

「お気になさらずに。あっ、他の飲み物がよかったですかね?」

「いや、そういうわけじゃ……。それじゃあ、遠慮なくいただきます」

 僕は男から缶コーヒーを受け取ると、男は安心したように笑った。

 その時、アナウンスが流れた。電車が駅に着く。

「コーヒー、ありがとうございます」

「いえいえ。本当にすみませんでした」

 お互いにペコペコと頭を下げ、僕は背負うリュックを揺らしながら電車に乗り、反対側の扉付近に立った。扉が閉まり、電車が動き出す。

 わざわざ缶コーヒーをくれたのだから、良い人なのだろう。もしかしたら、気持ちが沈んでいたのが顔に出ていたのかもしれない。勘違いしてコーヒーをくれたのなら、かえって申し訳ないことをしたな。

 窓の外に目を向けながら僕はそう思った。


 家に帰ると、母さんが出迎えてくれた。

「おかえり。智、帰ってきているよ」

 わかってはいたが、その言葉を聞いて僕はまた憂鬱になった。母さんがリビングに戻ろうと扉を開けた時、兄貴の声が聞こえた。

「おかえり!」

「……ただいま」

 晶はボソッと言うと、リビングへは行かずに自分の部屋に向かい、リュックを下ろした。

 恐らく、もう結果は母さんから聞いているだろう。今度、兄貴は何と言ってくるだろうか。なんにしても、僕の心が軽くなることはない。二度も失敗し、自分は出来ない奴だと再確認するだけだった。

「これからもこんな感じなのか……」

 この状況が当たり前なのかもしれないとさえ思えてくる。得意なこともなく、出来ないことが多い。それならきっとこれからも、こんな状態が続いていく。それに意味はあるんだろうか。

 頭の中でごちゃごちゃ考えていると、部屋の扉がノックされた。

「晶、ご飯の用意をしてあるから食べなよ」

 母さんの声だった。僕は重い腰を上げて、リビングへ向かった。

 リビングには母さん以外、誰もいなかった。父さんは風呂、兄貴は部屋にいるのだろう。僕はテーブルの上に用意されていた夕飯を急いで食べた。その様子に気付いた母さんが目を丸くする。

「なに早食いしているの?」

「……明日、朝早いからすぐ寝たいんだ」

 適当なことを言っていつもより早く食べ終わると、食器をキッチンの流しに運んだ。

 だが、タイミングの悪いことに、リビングを出ようとしたところで兄貴が扉を開けて入ってきた。危うくぶつかりそうだった。

「おぉ、危ない。ごめん、晶」

「……平気」

 視線をそらして言った。

「明日はバイトか?」

「うん」

「そうか。俺、明後日に東京に戻るから。バイト、頑張れ」

 そう言うと、兄貴は僕の横を通り過ぎ、母さんに話し掛けていた。結果のことに関しては何も触れられなかった。受験ではなく、バイトを頑張れと言ったのだ。兄貴も父さんと同じ、『僕には出来ない』と気付いた。……いや、違う。本当は最初から期待していなかったんじゃないのか。

 僕は自分の部屋に戻ってベッドに潜り込んだ。名も知らない男からもらった缶コーヒーは机の上に置いたままだ。


 翌日、僕は九時に目が覚めたが、すぐに起きる気になれずに十時までベッドの中にいた。起きてリビングへ行くと、母さんが心配して訊いてきた。

「今起きたの? 朝早いんじゃなかった?」

 そういえば、そんなことを言っていたっけ。

「シフト確認したら、今日は休みだった」

「そうなの? それなら、今日一緒におばあちゃんのお見舞いに行ってちょうだい」

 僕のばあちゃんは現在、肺炎で入院している。以前、見舞いに行った時は元気そうな様子だった。その後は受験勉強に集中するため、しばらく行っていなかった。

「何時?」

「四時頃かな。それとも明日にする? 智が東京に戻る前に、おばあちゃんの病院に顔を出すって言っていたんだけど」

「今日、行く」

 僕は迷わず言った。

 遅い朝食を摂ろうとしたとき、僕は兄貴の姿を見ていないことに気付いた。

「兄貴は?」

「久しぶりに帰ってきたから、地元の友達に会いに行ったみたいよ」

 僕はほっとした。今、兄貴と会う気にはなれなかった。



                              ー続ー

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