第肆話 師に逢うては(3)
季節は春から夏へと移り変わり始めていた。
大白虎の毛皮と引き換えに殿から頂いた金子で当代最高と言われる町医者に頼んだにも関わらず、お妙の病状は一向に改善しなかった。
親戚の家の扉をけ破るようにして取返してきた妻のお妙。腕に抱えると驚くほど軽かったその体はますますやせ細り、深い死相がその顔に浮かんでいた。
三郎の必死の薬作りも昼夜問わぬ看病も功を奏しなかった。もしやお師匠様が生きていれば何か効き目のある薬を作ってくれたやも知れぬが、それは叶わぬ望みであった。
三郎は縁側に団子を置き、障子を開け放した夜空に満月を映していた。
その横にはお妙が三郎に体を支えられて座っている。
お妙は殊の外、中秋の名月の祝いが好きだった。それをこの時期にやるのは、秋までにはお妙の命は消えるだろうと医者に言われていたからだ。三郎は何も言わなかったが、お妙もまたそのことは分かっていた。
ススキが欲しかったな。三郎はそう思った。満月の光の中、三郎に持たれかかったまま静かな寝息を立て始めたお妙をそっと抱き上げると、奥の座敷へと運びこんで布団に横たえた。
夜風が入らぬように襖を閉めると、三郎は一人縁側に戻り、悲しみに耐えていた。
どうしてあのとき、長耳兎の言を取り入れてお妙を迎えに行かなかったのか。あのときならばまだ間に合ったやもしれぬ。自分を駆り立てたのは意固地な愚かさか、それとも己の内面を満たす業ゆえか。
零れそうになる涙を無理にでも抑える。男は決して泣かぬものとは師匠の教えだ。だがそうもできないときもある。
月が陰ったように思えた。満月の光を背景にして、塀の上に立つその姿は長耳兎だった。長耳兎は次の一跳びで三郎の前に立つ。
「三郎。月見とは風流だな」
それには答えず、三郎は居住まいを正すと、長耳兎の前に深々と頭を垂れた。額を床に摺りつける。
「何の真似だ。三郎」
「師への礼を取らせていただきます」
「師だと?」
「我に三つの師あり。
一つはわが父母にて我を産み育ててくれた命の師なり。
一つはお師様にて我が剣の師なり。
そして一つはあなた様にて我が人生の師なり。
ゆえに弟子としての礼を尽くさせていただきます」
「儂を師と申すか」
「その通りです」
三郎は背を起こすと、正座したまま真っすぐに長耳兎と向き合った。
「あのとき長耳殿の忠告を聞かなかった自分の愚かさを深く悔やんでおります。大事なものを忘れ、己の意地を先としたこと。せっかくお教えいただいたのに、我が心、闇の中にありて何も見えませなんだ。
この不出来な弟子をお笑いください」
「ふむ」長耳兎はつぶやいた。「人の師匠になるというのも悪くはない気分だの。まるで我が子が戻って来たかのような気分だ。宗一郎の言うたこともあながち嘘では無かったのう」
長耳兎はたんたんと後ろ足で地を叩いた。
「さて、三郎よ。そなた古縁流はどうする。その無くした左手ではもはや満足に戦えまいが、誰かに流派を継ぐのか?」
「継ぎませぬ」三郎は即答した。「古縁流はそれがしの代にて終わります」
「そうか。ついに古の縁が尽きるのか」
「みな死にもうした。師匠も兄弟子も」
そしてお妙もすぐに、という言葉はぐっと嚙み締めた。
「こちらもほとんどが死んだ。今や地上に残っている十二の王はもはや儂以外居らぬ」
「虚しい戦いだったと思いますか」
「虚しい戦いだったと思う。そして儂らの代ですべてを終わらせねばならない」
長耳兎は三郎の前に歩いてくるとその前に身を横たえた。
「さあ、儂を殺せ。三郎。儂の首を斬れ」
「何をおっしゃいます!」
三郎は驚愕した。
「この戦いはお主か儂のどちらかが死なねば片が付かぬのよ。なれば儂が死のう。儂は長く生き過ぎた。このままでは儂は未来永劫決して死ぬことがないだろう。だが生きることにはもう飽き飽きした」
「だからと言って死ぬ必要がどこにあるのでしょうか」
「あるのだよ。三郎。儂は人には言えぬ多くのことを知っておる。多くのものを見て来た。あらゆる生き物は産まれ、育ち、愛し愛され、そして死ぬ。輪廻の大いなる廻りの中にすべてはある。だが儂だけはそこから外れておる。
ああ、儂は長く生きたよ。そして子供も孫もすべて儂より先に死んだ。連れ合いもすべて老いて死んだ。
その昔、一つの山をすべて儂の子孫で埋め尽くしたこともある。だがそのすべてが今は死に絶えた。
儂だけが歳も取らずに生き延びておる。
儂はこれほど長く生きても何一つ成さず、何一つ残さなかった。何者にも成れなかった。そしてこれからも何者にも成れぬまま時を過ごすだろう。
死すらも儂には追いつけぬ。そうやって永遠に生きるのだ。
何という悲しさ。何と言う虚しさ。儂は生きながらにして空っぽなのだ。
さあ、三郎。我が弟子よ。儂を殺せ」
「お師匠さまにはまだまだ教えていただきたいことがあります」
「それでは大事なことに間に合わぬ。
よいか、三郎。儂を殺した後、その体をお前の妻に食べさせるのだ。千年を生きた神通力を備えた兎の肉。これ以上の滋養はこの世には存在せぬ。如何なる病とて治すことができよう」
「なんと!」
「これが儂が自分の弟子にしてやれる最初で最後の贈り物だ。慈悲こそが世界を前に推し進める真の力なのだ。
何者でもないこの儂の命を使い、初めて他の命を繋ぐことができる。この儂の弟子の妻を救うことができる。
千年生きてきてもこのような機会は今までただの一度もなかった。そしてこの機を逃せばもう二度と訪れまい。
こうして輪廻の輪より外れたる我が魂は再び輪廻の輪へと戻る。儂は故郷へと帰るのだ。これほど心休まることがあるだろうか。
儂の慈悲、心して受け取るがよい。三郎」
長耳兎は目を閉じた。
「さあ、早く」
修羅の道は捨てたはずなれど、涙と共に振るうその剣技に一糸の乱れもなかったは、古縁流免許皆伝草野三郎、真にもって天晴なり。
師に逢うてはこれを斬るのが古縁流の本懐なれば、その覚悟、まさに見事なり。
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