第肆話 師に逢うては(2)
また一年が経過した。仇の加藤兵庫之介はまるで三郎を揶揄うかのように、三郎のすぐ目の前を逃げ続けていた。
ようやく居所を見つけたと思えば、そのお方なら今朝急いで出立しましたと、何度告げられたことか。
三郎は焦れに焦れたが追いつけないのはどうしようもない。行く先々で足を止めて金を稼ぐ必要があったので、そのたびにさらに追跡は遅れていた。
そのときの三郎のしのぎは薪割りであった。
宿場町の全ての薪割りを三郎一人で引き受ける。一件当たりで貰える手間賃はわずかだが、それでも数をこなすのでそれなりの金額になる。
そしてこれは良い修行にもなった。
古縁流の薪割りは普通の薪割りとは少しだけ違う。斧の代わりに鉄でできた偽木刀を使う。そしてこの偽木刀を振り下ろし、薪に触れる直前で止める。すると触りもしないのに薪はパキリと小さな音を立てて、二つに割れる。
これは古縁流斬撃の極みに達したことを証明する試技でもあった。薪を割っているのはすなわち剣気と呼ばれるものである。
一渡り薪割りを片づけた後で、粗末な夕餉を貰い、あてがわれた三畳ほどの汚い部屋で寝転がった。
今夜は星が綺麗だなと障子を開けて夜空を見ていると、ふと影が差した。
長耳兎が窓の枠の上に立っている。
「三郎。まだ仇討ちを諦めぬか。お妙がお前の帰りを今か今かと待っておるぞ」
「妻のことを知っているのか」
「おう、知っておるぞ。儂のこの長い耳は伊達ではないからな」
「ならば加藤の居場所を教えてくれ。そうすればさっさと仇を討ってそれがしは家に帰れる」
「それはできぬ。お主にはまだ因果が足りぬからのう」
「意味が分からぬ」と三郎。
「それが分かったときには仇に追いつけるだろう」
「あくまでも教えてはくれぬのだな」
「儂にも色々と事情があってな」長耳兎はとぼけた。
「役に立たぬ御仁じゃ」
「役に立たぬのはお主の方ではないか。そうやって仇討ちなどに人生を費やす意味がどこにある。剣の道を究めることに何の意味がある」
「そうは言われてもそれがしはこれ以外の道を知らぬ」
「他の道を探してもいないのだから、新たなる道を知らぬのも道理」
「剣を究めることがそれほど悪いことか」三郎は指摘した。
「剣を究めることがそれほど善いことか」長耳兎は指摘し返した。
むう、と三郎はつぶやいた。口では齢千歳に達する長耳殿に勝てぬ。いや、他の手段でも勝てぬのだが。
「強い相手を求めるは修羅の道。その目的はより強い相手を倒すことであり、それが済めばまた次の敵。さらにはまた次の敵と続く。決して終わりがなく、何も得られず、最後はその道の果てに屍を晒すばかりとなる。それはいったい何のためだ」
「何のためと言われても困る」
「答えに窮するようなことに人生を賭けるな。お主にはもっと気を遣わねばならぬことがあろうに」
長耳兎は正面から三郎を見つめた。その瞳の色の深さにあらためて三郎は気づいた。ただのウサギではないのだ。千年の時を生き、人より遥かに多くの経験を積んだウサギなのだ。
「それがしは師匠のような強い男になりたいのだ」
「確かにお主の師匠は強かった。歴代伝承者の中でも最強であっただろう。だがその強さは何のためであった?
三郎、答えてみよ」
「それはきっとそなたら十二の王を倒すため」
「そちらの開祖が神様の額をポカリとやらねばそもそも起こらぬ争いであったな」
「だがそれは正義であったのであろう。少なくとも開祖様にとっては」
「まあ確かに悪い神様であったよ。我ら配下にとってもな」
実際には三郎に話したのと違うことも多々ある。例えば神様の正体などだ。
だが、古縁流と十二王。どちらの陣営にも与せぬと公言している以上、長耳兎はいくつもの部分をぼかさざるを得ない。
加藤兵庫之介のこともそうだ。その者がどこにいるのかも知っているが、ここでそれを三郎に教えるわけにはいかない。三郎が自分で己が望みに気づくことが重要なのだ。
一瞬話題が途切れた。
「では聞くぞ。三郎。お主がそもそも古縁流に惹かれねば、加藤との縁が生ずることもなく、お主の父母はまだ生きていたであろう。これをどう思う」
「だが、それがしが強くなることは父の願いでもあった」
「それは違う。お主の父の願いは偉い侍になること。つまりは地位だ。だがこの太平の世では武士の出世の道であるはずの戦乱というものがない。だからこそ、お主の父は虚しき望みと知りながら、逆にお主に武士の道を説き、強くなれと言ったのだ。いつの日か来る戦乱の世を期待して」
「そんなことはあるものか」
「すでに知っておるはずよ。三郎。今の世に真の侍と言える者はおらぬ。武士は腐り果てておる。お主が求める剣の道の前にも後ろにも今は誰もおらぬ」
「お師匠さまは真の侍であった」
「それもすでに死に果てたではないか」
三郎は押し黙った。
「修羅の道は辛いぞよ。三郎。そしてその先には何もない。強さを誇ることにも何の意味もない。よく覚えておくがよい」
長耳兎は消えた。
*
さらに一年が経過したとき、長耳兎はまたもや現れた。
山中のことである。三郎は深山に入り込み、珍しい薬草を取っていた。薬屋にも売るし、自分でも薬を作って売る。古縁流では稽古の際に薬活の技を使う。薬を飲みながら、体が悲鳴を上げるような激しい修行をするのだ。それがここでも役に立っている。
陽だまりの岩の上に長耳兎は寝そべって三郎の様子を伺っていた。すでに三郎には兎を襲う気は無くなっている。
「まだ仇討ちは止めぬのか。三郎」
「ここまで来て止められるものか」三郎は言い返した。言いながらも手にした薬草を背中のカゴへと乱暴に放り込む。
「業よの。忘れれば幸せになれるものを」
「父母の仇を忘れて得る幸せなど無い」
「そなた、それほど親想いであったかの?」
「それがしについて貴様は何を知る」
「多くのことを。歴代の古縁流の伝承者のすべてを儂は見て来た。そなたが古縁流に入った日からこれまでのすべても儂は見てきた」
三郎は押し黙った。黙々と叢の中の薬草を探す振りをする。
「修羅の道を歩む覚悟ならば、父母のことなど忘れるがよい」
三郎はその言葉を無視した。
「修羅の道を歩む覚悟ならば、友のことなど忘れるがよい」
「加藤は仇だ。友ではない」
「それはどうかな」
「どういう意味だ」
「すでに旅に出て四年。それなのにどうしてお主は加藤に追いついておらぬ?」
「加藤の動きは素早い。いつもそれがしの先を行く」
「そうではあるまいよ。お主の心の中には、仇に会いたい気持ちと仇に会いたくない気持ちが渦巻いておる。それは加藤も同じで、要は二人とも迷っておるのだ」
「何を迷うというのだ」三郎は意気込んだ。
「友とも言え、仇とも言えるその相手に出会いたい。だが出会えば生き残るのはただ一人。会いたいのに、出逢った瞬間に相手を失うのだ。お互いにそれが怖いのだ。つまりは二人とも修羅にはなり切れておらぬ」
「長耳殿。深読みのし過ぎだ」
「さてさて、己の心の内が分からぬのは当人たちだけか」
「兎に人の心の何がわかる?」
「ところがな、千年も生きると何もかも良く分かるようになるのだ」
「戯言よ」
三郎は腰を伸ばした。薬草を探す振りをするのは止めだ。
「修羅の道を歩むならば、妻のことなど忘れるがよい」
今度の長耳の言葉には三郎の肩がぴくりと動いた。
「愛する者を持つことは己を弱くすること。大きな弱点を持つこと。修羅の道を歩む者が己を弱くしてどうする」
「妙なら親戚に預けた。それに妙のことをそれがしは忘れた。それがしはもう誰も愛してはいない。それがしの心の中にあるは仇討ちのみ」
「それはどうかな。分からぬのは当人のみよ」
「長耳殿。どうしてそこまでそれがしに構う?」
「そなたは古縁流の伝承者。そして儂は十二の動物の王の一人。構わぬわけには行かぬのだ」
「迷惑なことだ」
「それはどうかな。三郎。もう一度、自分の心を覗いてみるがよい」
トンと一つ足で地を叩くと、長耳兎は消えた。
どうしてあの兎はそれがしを放っておいてくれないのだろう。三郎はそう思った。
*
仇討ちの旅に出てより五年目。加藤兵庫之介の消息はぷっつりと途絶えた。
もしや加藤は死んだのではと三郎は気が気でなかった。そんなことになればすべてを捨てての五年間の旅が無に帰してしまう。
焦りと共に歩む三郎の前に、長耳兎が立ちはだかった。
「三郎」
「なんだ」多少気が立っていた三郎はぶっきらぼうに答えた。
「お前の妻、お妙は病気だ」
「なに!」
「早く帰ってやるがよい。病気は相当重いぞ」
「そんな。いったいどうして」
「お妙は預けられた先で散々な目にあっておったよ。碌な食事も与えられずに朝から晩まで働きづくめ。あれでは体を壊すのも当然だ」
おのれ。三郎の頭に血が上った。あやつら。
親戚の顔が目に浮かんだ。お妙は元々、天涯孤独の身の上だ。預ける先がなく仕方なく頼んだ結果がこれか。
「長耳殿。頼みを聞いてくれぬか?」三郎は言った。
「妻に伝言を頼もうと言うのだろう」長耳兎はずばりと言った。
「もう少しで仇討ちを果たせるから今しばし待てとでも伝えさせようというのか?」
図星を指されて三郎が動揺する。
「嘘になるかも知れない言葉を儂に伝えよと?
お主、恥を知れ。言いたければ自分の口で直に伝えるが良い。帰ると一言いうならば、神通力で一息に故郷に飛ばしてやるぞ」
しばし沈黙が落ちた。
三郎の胸の中を妻への思いが満たした。
会いたい。
お妙はどのような顔で俺を見るだろう。
こんなに長い間放り出してと泣くだろうか。
あなたの顔なんか忘れましたとそっぽを向くだろうか。
それとも満面の笑みで無言で頷いてくれるだろうか。
会いたい。その思いが膨れ上がる。
「帰るか?」長耳兎が尋ねた。
またもや沈黙が落ちた。
三郎の胸の中で膨れ上がる思いの霧の向こうに、一陣の闇があった。
それはこちらを寂しそうに見つめている加藤兵庫之介の姿であった。手に血に塗れた抜き身の白刃を持ち、一人、闇の中に佇んでいる。
さぶろう・・。その幻は言った。・・お前まで俺を見捨てるのか・・。
やがて三郎はぽつりとつぶやいた。
「帰れない」
「愚か者めが!」
初めて長耳兎が怒鳴った。兎とは思えぬ野太い声だった。
「お主がそこまで愚かとは思わなかったぞ。三郎。やるべきことを見誤るな」
「兎に何がわかる」
長耳兎は向こうを向いた。
「わからいでか。儂は千年生きておる。死に別れた伴侶も子も大勢おった。
これだけは決して慣れるものではない」
後ろ足で地面を叩く。長耳兎の姿は消えた。
長耳兎の放った叱責が三郎の頭の中にいつまでも木霊していた。
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