第肆話 師に逢うては(1)
いつもというわけではないが、師匠と三郎そして兵庫之介の三人で纏まって修行をすることがある。
兵庫之介は気まぐれなので、気が向かないと修行に出てこないのだ。そして師匠は自ら励む者こそが先に進めばよいという態度でこれを放任している。そのせいか表向きには兵庫之介を弟子とは宣言していない。つまり対外的には三郎こそが古縁流の一番弟子ということになる。
修行と言っても内容は単純だ。木刀に見せかけた重い鉄刀をただひたすらに振る。それだけだ。回数は一万回。それが終わればまた一万回。それが終わればまた一万回。これが朝の修練の最初の一つ。こういった地道でなおかつ度を越した鍛錬を深夜まで飽きることなく繰り返し、毎日の日課とする。
もちろん筋肉は悲鳴を上げ、限界を越えた骨はきしむ。その痛みを抑えるために秘伝の薬を口に含み、壊れた体はまた別の薬で癒す。これについていけない者は早々に体を壊し、古縁流を去ることになる。
古縁流の恐るべき斬撃はこうした狂気とでも言うべき地味な努力と薬活の乱用の末に生まれる。
鉄刀は最初はゆっくりと振る。筋肉の連携を覚えるためだ。そして徐々に速く振るようになり、最後には目に見えないほどの速さで振るようになる。
これを称して稲光の駆ける速さである雲耀と呼ぶ。
三郎と兵庫之介の素振りと、師匠の素振りには明確な違いがある。師匠の素振りは目に見えない速さであることは同じだが、一切音がしないのだ。構えたと思った次の瞬間には振り切った姿で残心している。音無く起こるこの姿勢の変化の異様さに、初めて見た人は自分の目を疑うのが通例だ。
「お師さま。どうして素振りの音がしないのですか?」
三郎は真っすぐに訪ねてみた。三郎はこういうときまったく物おじしない。
「主らは刀を振っている。儂は風を切っている。その違いだ」
師匠はさらりと言ってのけた。
使っている鉄刀は素材が鉄なだけで形は木刀と同じだ。百歩譲って刀で風が切れるとしても、刀と違って厚みがある木刀でどうして風が切れるのだろうと三郎は思った。修行を続ければいつの日にか自分にもできるのかは疑問であった。それはまた兵庫之介も同じである。
師匠が異例中の異例なのだ。
素振りが終わると三郎と兵庫之介は汗だくで地面にへたり込んだ。その横で師匠は涼しい顔で立ったままだ。この小柄な老人のどこにこれだけの力があるのかと二人は呆れた。
やがて休憩がてら二人で雑談が始まり、どんな動物が怖いのかという話になった。
「オレは猿が怖い」兵庫之介が言った。無意識に自分の頭をさする。
「猿が怖いとはまた奇妙な」と、こちらは三郎。
「それがしは熊かな。いや、熊では物足りない。唐の国にいるという虎と戦ってみたい。以前に見た虎の絵は実に恐ろし気だった」
「それならば唐まで出かけないといけないな。貧乏武士にはとてもとても無理な話だ」兵庫之介は遠い目をした。
例え上級武士であっても幕府の御用でも無ければ海外への渡航は禁止されている。他愛もない夢話ではあったが、下級武士には決して叶うことがない望みでもあった。
迂闊な言葉で兄弟子を傷つけてしまったのが恥ずかしくて、三郎は話を逸らした。
「お師さまはいかがですか?
恐ろしいと思う動物はいますか?
例えば龍とか」
それを聞いて師匠の眉が少し上がった。龍ならもう斬ったと小さく呟いたがそれは二人には聞こえなかった。
少し躊躇った後に、師匠は二人の問に短い一言で答えた。それを聞いて二人は自分たちの耳を疑った。
う・さ・ぎ。
そう聞こえたのだ。
*
加藤兵庫之介が草野三郎の両親を惨殺し、家宝の刀を奪って逐電して早一年。三郎は仇討ちの旅の途上にあった。
妻の妙を遠い親戚に預けての独り旅である。元より家禄など無いに等しい下級武士なれば、路銀の当てなどあるわけもなく、師匠から貰った選別を遣い果たした後は、行く先々で半端仕事をこなしながらの長旅となった。
このようなときに役に立つのが古縁流の手裏剣術である。余所者の立ち入りをうるさく咎めない山を見つけると分け入り、その手裏剣の技で飛ぶ鳥や地の獣を取ってしのぐのだ。特に毛皮の取れる動物などは数をまとめるとそれなりの旅費の足しになる。
その日も三郎は獣道を疾風のように駆け、先々で出会う生き物を狩っていた。猪のような大物が取れれば上々、大概は兎のような小物である。もしや子連れの場合は殺さず見逃すこととしていた。
日が落ちる前に十匹は取らねばと思い、三郎は藪の中を見渡した。
元より三郎の古縁流の手裏剣術は他の流派なら奥義と言われるほどの域に達している。百発百中の手裏剣を逃れることのできる兎はいなかった。
師匠の手裏剣も見事なものであった。山中を早駆けしながら山蛾の糸を結んだ苦無を投げて、貫いた獲物を手元に引き寄せる。その間もひと時も足を留めることはない。その手際の見事さは恐るべきものであった。三郎はまだその域には遠く及ばない。
そこで三郎はあるやり方を覚えた。
山駆けの途中で手折った木の枝をたわめ、丸い輪を作ってある。兎を見つけるとこれをその頭上に投げる。そうすると風を切る葉擦れの音が鷹の羽音に聞こえるのか、ウサギはその場にうずくまり固まる。そこに三郎の手裏剣が飛ぶという算段である。
この輪による足止めが無ければ、人の気配を察したウサギは早々に巣穴へと逃げ込む。さあそうなると槍で外から突こうにも入り組んだ巣穴では歯が立たず、結局は諦める羽目になる。
これが師匠ならば兎の巣穴の上を木刀でとんと突くと、それだけで兎が狂ったようになって跳び出して来る。何度も試して見たが三郎には出来ぬ技であった。
お前には殺気が足りぬとよく師匠に怒られたものだ。
日が傾き始め、三郎がもうこれぐらいで切り上げて里に戻るかと考えていたころ、一際大きな兎を見つけた。
長い耳に赤い目の犬ほどの大きさがある兎が倒木の上に乗って直立している。
大物だ。三郎は立ち止って手裏剣を握りこんだ。
大兎の瞳が自分を見つめている。
三郎は枝の輪を投げた。それはしゅるしゅると風を切り、兎の上を舞った。さあ今だ。三郎は狙いすまして手裏剣を投げた。
兎の姿が消えて手裏剣は空を滑った。それに三郎は驚いた。
兎を仕留め損ねるとは。そこまで自分の腕は鈍ってしまったのか。いや、それよりも今の兎の動きが自分の目には見えなかったことのほうが驚きだ。神速で振り下ろされる剣を見ることができるその目が兎の動きを捉えられなかったのだ。
倒木の反対側から兎の顔が覗いた。間髪を入れずに三郎の第二の手裏剣が飛ぶ。これも呆気なく外れた。
ううむ、馬鹿な。二発も外すとは。思わずそう独りごちた。師匠がここに居たならば、またあの柳の枝で鞭打たれていたことだろう。
またもや叢の先から兎が覗いた。じっと三郎を見つめている。
三郎は本気になった。
古縁流手裏剣術秘投帰り雲。今度は五本の手裏剣を同時に投げた。一本を避けようとすれば残りの四本に捕らえられるはず・・であった。だがそれさえも外れた。ふたたび兎の耳だけが草の上に出て、素早く走り去る。
むう。唸りながら三郎が刀を握って藪に飛び込んだときにはすでに兎の姿はどこにもなかった。
*
三郎が次にこの兎に出逢ったのは、さらに一年後であった。
この頃には加藤兵庫之介は行く先々で人を殺していた。その多くは裕福な商人であったが、中には幕府のかなり上の方の役人もいた。下手人は不明とのことだったが、三郎はその惨状を一目見て分かった。いずれも古縁流の斬撃で斬られていたからだ。
護衛がついている相手をわざわざ狙い、一刀の下に切り殺す。まるで人斬りが己の力と残虐さを楽しんでいるかのように。
兵庫之介、お前はいったいどうしてしまったのかと三郎は悲しくなった。
惨劇の場を後にしたとき、目の前の道端に兎が立っているのに気が付いた。あのときと同じく、瞬かぬ赤い目が三郎を見ている。
「お前はあのときの兎。ここであったが百年目」
三郎は袂に手を入れ手裏剣を取り出した。
「止めよ。三郎。その手裏剣でまた儂を打つつもりか」
兎が声を発し、三郎は驚きのあまりにのけぞった。
「人語を発するとはおのれ妖怪め」
「妖怪ではない。儂は王だ」
「王だと?」
最初の驚きが過ぎると動物との会話を普通にこなしている自分に気づき、三郎はまたもや驚いた。
「王だ。儂は十二の動物王の一つ、卯の王たる長耳と言う」
「その長耳とやらがそれがしに何の用だ」
「警戒するでない。お主と少し話をしたくてな」
「妖かしと話をする気はない」
三郎は身構えた。以前に妖かしのネズミに引きずり回されてひどい目に遭ったことが思い出された。あのときは危うく地獄に堕とされるところだったのだ。
「そう言わずについてこい」
それには応えず、三郎は手裏剣を投げた。兎の姿が消え、もう一つ先の叢の中から現れた。
「無駄なことを止めよ。儂は千年を生き、神通力を持っておる。その力は『縮地』。
そなたが如何な速さで手裏剣を投げようが、儂はそれよりも早く遠くに逃げることができる。如何なる者も如何なる武器も儂を捕らえることは叶わぬ。それゆえに儂を傷つけることができるものはこの世には居らぬ」
「それは試して見ねばわからぬことよ」
三郎は刀を抜くと素早く前に出た。
「愚かな」
兎が跳んだ。その一瞬、刀を走らせた三郎は確かに兎を捉えたと思った。だが兎は目の前から消え、三郎は背後からどんと背中を突かれた。
次の瞬間、周囲の光景が転じ、強烈な光の中に三郎はいた。あまりの日輪の明るさに目が眩む。
「これは?」
三郎は周囲を見渡した。どこまでも砂、砂、砂の光景が広がっている。丘でさえ砂でできている。そして激烈な日差し。光に当たった肌が焼けて痛いし、空気は異常に熱い。
「儂の縮地にお主を巻き込んだのよ。ここは日ノ本の国を遥かに越えた遠い異国の地」
「なんと!」
「さあどうした三郎。ここにお主を置いて儂はまた遠くに行くぞ。お主の剣とやらがいかに優れていようとも、ここでは水一杯得ることはできまい」
三郎は黙り込んだ。兎の指摘が正しいことを認めたからだ。地平線の彼方までただ砂ばかりで緑の草一本すら生えていない。ここにいれば遠からず三郎は日干しになる。
「それがしの力ではどうにもならぬか。せめてここに師匠がいてくれれば」
師匠は三郎が出立してからすぐに死んだと聞き及んでいる。
「それでもどうにもなるまいよ」兎は指摘した。
「お主の師匠とは昔やりあったことがある。その時も儂はあやつをここに連れて来た。儂が今までに見た内で一番強い男であったな。後にも先にも儂の体に傷をつけたはあの男だけよ」
そこで初めて思い出した。その昔、師匠が兎が怖いと言ったことを。あれは冗談では無かったのか。
「ええい、それがしを元居た所に戻せ」
「戻すは良いが、一つ質問に答えてもらおう」
「質問だと?」
「三郎よ。そなた、古縁流と十二王についての話を師匠から聞いておらぬのか?」
「知らぬ。そのようなこと聞いたことはない」
「そうか。では儂が代わりに教えてしんぜよう」
長耳兎が後足を地に打ち付けた。
また光景が瞬いた。周囲はいつもの日ノ本の光景に戻る。そこは森の中の空き地のようで、頭上から静かな木漏れ日が振り注いていた。先ほどの砂ばかりの世界に比べればまさに極楽のように思えた。
長耳兎は傍にあった切り株の上に座った。三郎はその前に立ったままだ。まだ警戒を解いてはいない。
「この方がずっと楽だな。あそこは足の裏が焼けていかん」長耳兎が言った。
「さて、随分と昔になる、あるところに神様がいた」
悪い神様だった。
ある年の始めに神様は配下の動物たちを呼び集めた。呼ばれたのは十二の動物の王たちであり、それぞれの王が一年ごとに世界を任されることになっていた。その順番は捧げた生贄の数で決まるという話であった。
ところがその集会のど真ん中に飛び込んで来た侍がいた。侍は神様の額に一撃を食わせてその場を立ち去った。
その侍こそが古縁流の開祖である。
それ以来、十二の動物の王たちは古縁流の歴代の伝承者との血で血を洗う闘いを始めることになった。
これぞ、古より始まりし縁なり。
「お伽話だ」三郎は断じた。
「確かにこれは半分はお伽噺だ。だが半分は真実である」長耳が答えた。
「儂は千年を生きて神通力を得た兎だ。そして儂もその場に居たのだ」
それを聞いて三郎は押し黙る。千年も生きる存在がいてたまるかとの思いが、その無言には詰まっていた。
「それ以来、古縁流の免許皆伝者は代々この言い伝えを教えられる。古縁流は人間を斬るための剣術に非ず。神や王、そして妖しを斬るための剣術なりと、そう教えられるのだ」
「だがそれがしはお師さまからそれを聞いてはおらぬ」
長耳兎は少し考えてから言った。
「お主の師匠はこの古縁流を自分の代で終わらそうと考えていたということだよ。本間殿は長い間悩んでおったからな。むしろあいつが正式に弟子を取ったこと自体が驚きだ」
「そうなのか」
「とくとは分からぬ。だがこの長きに渡る闘いにより、十二の動物王もほとんどが死んだ。そして古縁流の伝承者たちもまた動物王たちによりみんな殺されてきた。今や残る古縁流伝承者はお主とあの加藤のみ。もういい加減、この古き縁も忘れるべきときではないのか。
あまりの頑固さゆえに決して認めはしなかったが、恐らくは本間殿も内心ではそう考えていたのであろう」
「ならばそれがしを先ほどの砂漠に捨て置き、加藤も貴様の神通力にて遠くへ捨てればよい。それで古縁流は絶えるではないか」
長耳兎は耳を揺り動かした。ウサギなりの否定の仕草らしい。
「儂は神通力を持つとは言え兎だぞ。お主は今までに兎が他の生き物を殺すと聞いたことがあるか」
「ないな」
「それが答えだ。儂は誰も傷つけない、そして誰にも傷つけられない。ゆえに儂こそはこの殺し合いの輪廻、あらゆる生き物が巻き込まれる修羅の道からもっとも遠い場所にある生き物なのだ。それは儂の信念であり、誇りなのだ。今更それを翻す気はない」
長耳兎は周囲を見渡した。
「さて、以上が事の次第だ」
「それをそれがしに告げて何とする?」
「お前がどう反応するかを知りたくて来てみたのだ。自分が何に巻き込まれているのか知らないのは辛かろうと思ってな。なにぶん儂はお前のことを本間殿から頼まれておる」
長耳兎が後ろ足で地を叩いた。
次の瞬間、三郎は街道にただ一人で佇んでいた。
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