第参話 剣聖(3)
いかにしてこちらの心の中を読む怪物を倒すのか。
これほどの難題に兵庫之介は初めて遭った。
古縁流のどの技も予め読まれては威力は半減だ。特に初見殺しの技は全滅だ。剣の軌道も手裏剣の軌道も全て読まれる。あらかじめ仕込みが分かれば対処するのは難しくない。それに加えてあの猿の素早さを考え合わせるとほぼ無敵だ。
もしや師匠ならば難なくあの猿を倒せるやもしれぬ。しかしここまでの醜態を晒してしまっては、今更師匠に相談できるわけもない。
古い話の中では、山中で『覚』に出会った木こりは焚火を行い、その焚火の爆ぜた火が覚の目に飛び込んで難を逃れる。人間とは何をするのかわからないと言って覚は逃げる。
ではその故事に倣って、相手の道場で焚火でもするか。道場の真ん中で焚火を始める自分の姿を頭に浮かべて、この状況下でも兵庫之介は笑ってしまった。あまりにも馬鹿らしい。
では、あの道場に火をかけるというのはどうだろう。動物は火を恐れるというし、周囲がすべて猛火に包まれればあの猿にも隙ができるかもしれない。
いや、無駄だ。猿はあっさりと逃げて、城下への放火犯として自分が訴えられるだけだ。そんなことになれば放火の罪で死罪になるまでもない。古縁流の名を汚したとして、自分は師匠に殺されるだろう。
鉄砲を使える人間を雇って、道場の外、どこか遠く離れた所から猿を撃ち殺してもらうというのはどうだ?
いや、さすがにそれではもはや剣術の勝負という世界ではない。
何か猿の弱点はないものか。
兵庫之介は考え続けた。
*
「頼もう」やはり今度も大声になってしまった。
そしてやはり道場の奥で微動だにもせずに道場主が答えた。
「またお主か。今度はずいぶん長くかかったな。よい一手が思い浮かんだか」
「此度はいささか自信がござる」
兵庫之介は道場主の前にて深々とお辞儀をした。
「まあ、良かろう。だが今度でお主の挑戦は三度目になる。当方としてもいささか飽いてござる。此度負ければお主の命をもらうこととするが如何に?」
兵庫之介に躊躇う理由はなかった。
「異存はありませぬ」
「良き心がけ。それでこそ古縁流の侍というもの。これ、悟空」
その呼び声に応えて、奥から木刀を抱えた猿が出てきた。
猿は兵庫之介の顔を見て、はっとなった。
「やはり心を読んでおったか」兵庫之介は立ち上がった。「古縁流一の弟子加藤兵庫之介。いざや化け物退治に参った」
叫ぶなり、高く高く口笛を吹いた。それに応えて吠え声と共に五匹の犬が駆け込んで来ると、猿を取り囲んだ。
このために兵庫之介は野良犬を集めて調教したのだ。
マタギに教わりながら、見込みのありそうな犬を訓練した。
見こみのなさそうな犬は叩き殺して食い、残った犬は死ぬほど鍛えこんだ。
本物の猿を使ってエサとなし、猿とみれば問答無用で噛み殺すように教えこんだ。
剣士を殺すように特別に調教した。
あらゆる剣さばきに対する対処を教え込み、剣士の動きの弱点を叩きこんだ。最後には兵庫之介でさえも手こずる狂犬の群れと化した。
「猿退治には犬と相場が決まっておる」叫ぶなり、兵庫之介は打ち掛かった。
猿がそれを躱して飛ぶと、犬の一匹が飛びついた。空中で牙がかみ合わさり、あやうく猿が逃れる。その手の木刀が上がり一匹の犬に狙いを定めると、その姿勢のままに猿は後ろに飛んだ。今まで猿がいた空間を兵庫之介の手裏剣が薙ぐ。
「そう簡単にはやらせぬぞ」
「うぬ。卑怯なり」猿がつぶやいた。
「なんと言葉を使うのか。さすがは覚。化け物よ」
「化け物は貴様だ」猿が断じた。「剣士としての誇りなく、人としての矜持もない。ただ噛みつくばかりの狂犬が人の形を成しておる。これからは四つん這いで歩くがよい。それが貴様にはお似合いだ」
「ひどいことを言う」
にやりと笑った兵庫之介が再び斬り込んだ。
左右に回り込んだ犬が猿の退路を断ったので、兵庫之介の鉄刀を猿はまともに木刀で受けてしまった。猿の持つ木刀が敢え無くへし折れる。手の中に残ったのは木刀の半分だけだ。
「さあ次の一撃をどう受ける?」兵庫之介が畳みかけた。
この猿の危機にも道場主はぴくりとも動かなかった。
じりじりと兵庫之介が猿との距離を詰める。猿も後ずさりするが背後の犬が吠えかかったのでその足が止まった。
兵庫之介が短く口笛を吹くと、左右に二匹の犬が並んだ。
「さあお前たち、一斉にかかるぞ」
鉄刀を大上段に構えた兵庫之介がとんと足を踏むと、一人と二匹が猿目掛けて踏み込んだ。
空を切って必殺の鉄刀が振り下ろされる。猿がそれを避けて跳ぶ。だが今度は二匹の犬も教えられた通りに同時に襲い掛かっている。
猿は身を躱そうとしたが、右足に犬の牙が食い込んだ。
「これで終わりよ」
再び兵庫之介の斬撃が振り下ろされる。猿は斜めに身を躱すと、右足に食いついていた犬の頭を先の折れた木刀で叩き割って宙に跳んだ。そこに下から戻ってきた兵庫之介の鉄刀が食い込んだ。強烈な逆さ斬撃をその身にまともに受けて、猿の体が真っ二つに千切れて飛ぶ。己のハラワタに塗れながら驚愕の表情を浮かべたまま猿は絶命した。
兵庫之介の口から声が出た。
「秘剣紅蓮飛沫」
犬たちが一斉に猿の死体に群がるとがつがつと食い始めた。
「これにて勝負はそれがしの勝ちにござる」
背後で騒がしくしている犬たちのことは無視して、兵庫之介は道場主の前に正座した。
「では、今度こそ、それがしに一手ご教授を」
相も変わらず道場主は微動だにしないし、今度は声も発さなかった。しばらく待った後、兵庫之介は立ち上がった。
「これ、主どの」
道場主の肩に手をかけた。道場主の体が崩れ落ち、被り物が取れた。
「人形か」
兵庫之介はそれだけ言うと、鉄刀を振るって人形を打ち砕き、この道場を後にした。
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