第参話 剣聖(2)

 誰もいない古寺で兵庫之介はひたすらに剣を振るっていた。


 頭には水に濡らした布を巻いてある。その布の下には大きなたん瘤ができていた。

 あの後、猿と打ち合うこと十数合。いや、打ち合いというのはおこがましい。兵庫之介の木刀は猿に掠りもしなかった。さんさん揶揄った後に、猿は手加減した一撃を兵庫之介の頭にお見舞いした。

 気を失う寸前の兵庫之介は這う這うの体で逃げてきたのだ。


 負けるぐらいなら逃げろとは師匠の言だった。

 常在戦場を唱える古縁流では逃げることは恥ではない。むしろ強敵を相手に踏みとどまって命を失うことを許さない。生き延びて、その後、再び敵に挑めばいいのだ。


 だが、これはあまりにも酷い。この大きなたん瘤が引っ込むまでにどう見ても三日はかかるだろう。その間は間違っても師匠のところには顔を出せない。

 師匠に今回の仕儀が知られたらいったいどんな目に合わされるか、それが兵庫之介には怖かった。人間が相手ならまだしも、猿に負けてしまったのだ。

 師匠に殺されるならまだ良い方だ。もしあの柳の小枝の警策で全身隈なく叩かれでもしたら激痛で気が狂ってしまう。

 このまま猿に負けたことは隠しておくという手もある。すべてを忘れて何食わぬ顔で生きていくのだ。幸いにして流派も名乗っておらねば、名前も名乗っていない。あの道場の近くに行きさえしなければ後はどうとでもごまかせる。


 だが、心の内に煮えたぎる思いだけはごまかせなかった。


 悔しい。

 悔しい。

 悔しい。

 死ぬほどに悔しい。


 傷の痛みと相まって、昨夜は眠ることができなかった。自分より遥かに小さい猿に手玉に取られたことが悔しくて、自分の手足にでも食らいつきたい気分だった。


 一日経って、気持ちの整理がついた。

 何としてもあの猿を叩きのめさなくては、自分はこのまま駄目になる。

 遠く身分が届かないお偉い武士を見ても、あるいは想像もつかないような贅沢な生活をしている商人を見ても、兵庫之介が気おくれしないのは、いざ戦いになればどの人間も兵庫之介には敵わないという自負であった。

 その自負が今や根底から崩れ去ろうとしている。ひとたびこの密やかな誇りが崩れれば、自分は自分でいられなくなる。いつも暗く俯いて地面を見つめているだけのそんな生き物に変じてしまうのだと直感が告げていた。

 ここが自分の人生の分岐点なのだと兵庫之介は理解していた。


 だが普通の技ではあの猿には遠く及ぼない。いったいどのようにして仕込まれたのであろうか。あの猿の剣士としての身のこなしは素早くそして恐ろしく正確だった。

 剣の化け物である師匠に勝てないのは当然としても、兵庫之介の剣技は達人の域に達しているはずだった。その振るう剣は雲耀、つまりは稲光と競う速さである。

 古の武勇伝に出てくる剣豪のように、対峙した相手が瞬きをしている間にその体を実際に切り裂くことができる。それなのにあの猿はその剣を髪の毛一筋で躱す。それも軽やかに、まるで踊りでも踊っているかのように。

 さらにはあの猿の跳躍力は人間の比ではない。兵庫之介の頭の高さを軽々と飛び越えていた。木刀は片腕で操ってはいたが、その運針は一部の隙もないものだった。

 人間ならば剣聖と呼ばれていてもおかしくないほどの剣技。それが一匹の猿のものだとは呆れる話である。


 あの猿には普通の剣技では届かぬ。では古縁流の剣技ではどうか。兵庫之介はそう考えた。

 実際には古縁流には四つの皆伝が存在する。初の皆伝、弐の皆伝、参の皆伝、終の皆伝である。皆伝を進むたびに技の威力は上がり、終の皆伝に至って幽玄の境地へと入る。兵庫之介はまだ未皆伝なのでこの辺りは説明されていない。皆伝前ならば古縁流を抜けることが許されているため、秘密のすべては開示されていないのだ。

 特に初の皆伝技は剣術と忍術を組み合わせたものであり、その中には初見殺しの技が多くある。これが初めて古縁流と戦う者にはまず勝ち目が無い所以である。もちろん初見殺しということは、それを見た者は一人残らず死んで終わっているということでもある。

 兵庫之介はまだ免許皆伝を受けていないので、教えてもらった皆伝技はわずかだ。それらは皆伝の試し技という位置づけで、これらの技を問題なく習得できて初めて免許皆伝へと進むことができる。そういう話であった。


 兵庫之介は上段から刀を振り下ろし、地につく寸前に刃を返して振り上げた。古縁流初の皆伝第三の太刀。

「紅蓮飛沫」

 兵庫之介は技の名を口にした。敵を絶命させた場合は死の旅に出る相手に敬意を表し、技名を告げよと師匠には教えられていた。その癖だ。

 紅蓮飛沫は振り下ろした太刀を地面に差し込み、振り上げることで砂や土を相手の顔にぶつける技である。戦国時代の剛刀を使う古縁流でのみ使える荒業だ。今の時代の薄くて軽い居合刀ならば接地した衝撃で刀が折れてしまう。誰かに見られれば卑怯とののしられること間違いない技だ。

 もちろん技の威力も絶大で、鍛え上げた膂力に任せて摺り上げる刃はうまくいなさねば人間の下半身を両断する。例えその斬撃を止めることができたとして、砂を浴びた目ではその後が続かぬ。

 卑怯だが、必殺の技。だが紅蓮飛沫は足元が板張りの道場では使えぬ技だ。


 では「忍び食み」ではどうか。あの技ならば猿のような見切りのうまい剣士には絶大な効果がある。そう兵庫之介は考えた。

 だが一つ問題がある。古縁流の技を使う以上は、それを見た者はすべて絶命させる必要がある。猿はもとより、あの道場主も殺害しなくてはならない。

 でなければ師匠が代わりに皆殺しにするだろう。もちろん技の秘密を漏らした兵庫之介も一緒に始末される。師匠は鷹揚なところがあるが、こと古縁流を守ることだけには躊躇いも容赦もない。


 大概の悪事をやってきた兵庫之介ではあるが、まだ殺人だけは行ったことがなかった。いまそれを覚悟しなくてはいけない。

 剣を振りながらも兵庫之介の心は揺れ動いていた。



 殺しの覚悟が決まるまでに一週間を要した。

 懐に手裏剣を隠して兵庫之介はふたたびあの道場を訪れた。ちらりと道場の中を覗き込んで道場主一人であることを確認する。道場主は相も変わらず道場の奥で律儀に姿勢を崩さずに座っている。他に誰もいないのは都合がよい。

 目撃者が増えれば増えた分だけ殺さないといけない人間が増える。それだけは避けたいところである。


「頼もう」我知らず大声になってしまった。

「ほう。誰かと思えば、この間の武者修行者ではないか。もう打たれた傷は治ったのか」

「本日は、新しい一手を考えて参りました。なにとぞお手合わせを」

 兵庫之介はそう言いながら深々とお辞儀をしてみせた。だがその内心は殺意に満ちている。

「良き心がけかな。それでこそ剣の道を歩む者なり。これ、悟空」道場主が手を叩く。

 その声に応えて木刀を掲げた猿が奥から出てくると、ぺこりとお辞儀をしてから木刀を構えた。

 兵庫之介ももう一度礼をしてから立ち上がる。右手に持つは木刀、左手に隠し持つは手裏剣。

「古縁流門下加藤兵庫之介。参る」

 一切の偽りなく名乗りを上げた。もう身元がばれても問題はないのだ。

 一見木刀に見える右手の刀は、漆を重ね塗りした鉄の刀だ。本来は腕力を鍛えるための古縁流の稽古刀だが、そのままでも恐るべき凶器となる。

 軽い木刀の方が速く振れるのは理の当然である。だが実戦ではそれは異なる。重い刀と軽い刀が打ちあえば、重い刀の方が打ち勝つのも理の当然なのである。並みの刀でこの鉄刀を受けようものなら、そのまま刀は折れ、余す力で頭を割られる。鍔迫り合いすら起きないのだ。

 左手の手裏剣もただの手裏剣ではない。秘技「忍び食み」が仕込んである。


「いざや」

 ずいと兵庫之介が前に出る。素早い足さばきで猿が後退した。兵庫之介との距離は縮んでいるようで縮んでいない。兵庫之介の鉄刀が脅すかのように突き出されるが、猿は動じない。

 気合と共に兵庫之介の鉄刀が打ち下ろされる。猿は横に体を開く。そこに返す刀が横に薙ぎ払われた。素早く猿が地面に体を伏せ、木刀を横に寝かして避ける。

 見事な見切り。最小の動きですべての攻撃を避ける。

 今だ!

 気合と共に兵庫之介の手から手裏剣が三本同時に飛んだ。初めて見せる手裏剣技である。


 繭を作る寸前の山蛾の幼虫を千切って酢に通すと透明で丈夫な糸になる。古縁流が代々密かに養殖している特別な山蛾と特別な酢を使えば、細くてしかも丈夫な糸ができる。その糸は一本で大の大人の体重を優に支えることができる。

 その糸に小さな錘をつけて数本まとめて手裏剣の根本に結び付け、これを相手が躱せるぎりぎりのところに回転をつけて投げる。手裏剣が相手に近づくにつれて周囲に螺旋状に糸が広がる。

 相手は手裏剣を避けたと思った瞬間に、気づくと全身を糸に絡み取られて動きを封じられる。そこを刀で好き放題に斬るのだ。

 見切りが上手ければ上手いほど、この技にかかる。

 初見殺し「忍び食み」。古縁流の初の皆伝技は剣士というよりは忍者の技に近い。技の風格などまったく無視して、ただひたすらに相手を殺すことだけに特化している。突いて殺し、斬って殺し、絡めて殺し、騙して殺すのである。


 気合と共に兵庫之介は突進したが、その途中で目を見張った。

 目の前に居たはずの猿がいない。

 手裏剣は空を切り、何もない空間に糸をまき散らして壁に突き刺さる。

 いつもはぎりぎりで見切るはずの猿が、今度ばかりは大きく跳んで兵庫之介の横に回っていた。

 その木刀が避けようもなく兵庫之介の頭を叩く。兵庫之介の目が衝撃に眩み、鼻の奥が鉄の臭いで満ちた。

「それまで」道場主の声が届くよりも先に兵庫之介は道場から逃げ出していた。



 さすがに今度ばかりは丈夫な兵庫之介も寝込んだ。

 古寺の隙間風の入る部屋の中でボロ布団に包まれながら、高熱を出して倒れ伏すことになった。

 様子を見に来た弟弟子の三郎には、布団の中に潜り込んで顔も合わせなかった。質の悪い風邪を引き動けぬのだとだけ言って三郎は追い返した。病になどなるは己の身の不徳と称して一切の看病も断った。三郎が食い物を置いていったことには感謝したが、絶対にこの度の仕儀だけは師匠の耳に入れるわけにはいかなかった。

 だが三郎は素直で正直だ。口留めをした以上、師匠に余計なことは言わないだろう。そうも思っていた。師匠は無口な男だ。三郎から風邪だと一言だけ聞けばそれ以上は追及はしまい。

 弟弟子の三郎はまるでじゃれつく子犬のようだと兵庫之介は感じていた。素直なのは良いが、もっと邪気がないとこの世知辛い世間を渡ることはできまいと感じていた。その点はおいおい自分が教えてやるつもりだった。

 とりあえず師匠の方の問題はこれで済む。後はあの猿をどうやって倒すかだ。

 すでにこれは道場破りや金の問題ではなくなっている。古縁流の技を見られてしまったのだ。口封じをしなければ今度は兵庫之介の命が危ない。


 熱にうなされながらも兵庫之介は考えていた。

 どうやってあの猿は『忍び食み』の技を見抜いたのだろう。修行の足らぬ者には目で見ることもできはしない速さの手裏剣、それについた透明な糸の動きに気付いたのか。

 いや、そうではない。それを見てから跳んだとしても避けることはできない。

 だとすると予め技を察知していたのか。だが古縁流の技は今まで外には漏れたことがない。万一漏れていたら、その技は古縁流の教えからは消されている。技が漏れるということは今回の兵庫之介のような負けを生み出すからだ。


 ではどうやって?


 傷が癒えるまでの時間のすべてを兵庫之介は今までに見た猿との闘いを思い出すのに費やした。

 憎い相手を目の前に浮かべるのは簡単だ。むしろ忘れようとしても忘れられるものではない。


 悔しい。

 悔しい。

 悔しい。

 死ぬほど悔しい。

 狂おしいほど殺したい。

 叩き潰した相手の血肉の上で踊り狂いたい。


 あの猿の頭を打ち砕くまで、俺のこの苦しみは消えぬのだ。

 固く瞑った瞼の奥で光景は繰り返された。木刀が走る。猿が躱す。木刀が空を切り裂く。猿の木刀が受け流す。手裏剣が飛ぶ。猿がそれより早く大きく跳躍する。

 何度も、何度も、思い返した。

 どうしてあの猿はこれを避けられる?


 そのうちに一つの考えが頭をもたげた。あまりにも馬鹿馬鹿しい考えがだ。だが一度取りつかれると、その考えは頭を支配した。

 もう一度、猿の動きを思い返す。手裏剣がこう。木刀がこう。猿の目が、指の動きが、足の運びがこう。

 たしかにそうだ。間違いない。

 だがそんなことがあるものか。

 だがそれ以外にあり得ない。

 しかし余りにも馬鹿げている。


 だがそれ以外に答えは無かった。


 『覚』。深山幽谷に棲むという猿の化け物。その力は人の心を読む。

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