第参話 剣聖(1)
古縁流は戦国時代に創設された実戦剣術である。そして五百年の間、その強さを磨き続けた剣術でもある。
時代に流されることなく頑なに修羅の道を究めて来たこれぞ武士の鑑である。
だがそれはこの太平の世では出世の役には立たないどころか、むしろ妨げになるという悲しい宿命を負わせることになってしまった。
古縁流の技の数々を表に晒せば、今の世では間違いなく卑怯な剣術と呼ばれることになる。またその歴代の伝承者たちも徹底した秘密主義で、それがどのような剣技かを知る者すら数少ない。
隠され忘れ去られた戦国最強の剣術。それこそが古縁流である。
剣術遣いが生計を立てるためには道場を開いて門弟を集めるか、あるいは藩の剣術指南役などをやることになる。それができぬ者は多かれ少なかれ裏社会などの用心棒をやるしかない。
古縁流では前の二つはそもそも無理なので、取るべき手段は限られてしまう。
例えば草野三郎は微禄とは言え、一応は武家の跡継ぎである。本間師匠はときどきだが知り合いの商家の用心棒をやっているし、さらには弟子にも言わない秘密の仕事を抱えているようでもある。
では三郎の兄弟子にあたる加藤兵庫之介はと言えばどうだろうか。
加藤家はすでにきちんと嫡男が継いでおりそれも微禄であったがゆえ、次男坊である兵庫之介は無駄飯食いにさえなれなかった。武士ではあるが武士ではないのである。
飢え死にしたくなければ、何か他に働き口を見つけるしかない。つまり武士を辞めて町人になるのだ。
ところが兵庫之介はその性格ゆえ、町人になることはできなかった。どこの職人に弟子入りしても、三日ともたず喧嘩をして、最後には大勢の怪我人を出して終わることになってしまう。とうとう口入屋も呆れ果て、兵庫之介を門前払いするようになってしまった。そうなれば後は裏の世界で生きるしか術がない。
そうして悪い連中の仲間になって、盗みから始まり恐喝強盗などを行った。多少は剣術の腕もあったので仲間内では重宝されたのだが、そのうちにある儲け話が転がり込んできた。
なんと賭場荒らしである。寺院の中で密かに開かれていた隠れ賭場を襲ったのである。丁半と賽子を転がしているところに飛び込んで、中の全員を木刀で叩きのめし、帳場の金を奪って逃げるのである。
これはうまくいったが、問題はそれが他の組による嫌がらせという裏があったことである。
しばらく抗争が続いた後に、両方の親分衆が手打ちをした。その際に賭場荒らしの実行犯を見せしめに殺そうという話になり、下手人の身元がばらされたのである。
大騒動の挙句、兵庫之介は捕まりさんざん殴られた後にす巻きにされ、川に投げ込まれかけた。そこで偶々通りかかった師匠に救われたのである。
実は師匠はその筋の人間には鬼のように恐れられている。
師匠は曲がった事が大嫌いである上に、蛾が焚火に惹かれるかのように常に騒ぎを引き寄せるという悪い癖がある。これには師匠の古くからの悪友が色々な厄介毎を持ち込んで来るというのも含まれる。
そういうわけで街道筋の親分衆は今までに師匠とはさんざ揉めている。そしてその結果として全員が悲惨な状況に陥っている。
怒り狂った師匠に組員すべてが両手両足を折られたときはそのまま組は潰れた。
大親分が師匠に攫われて山に連れ込まれ脅されたときは、面子が丸つぶれになり、大親分の座を返上した。これには大親分の髪が一夜にして白髪になったというのも大きい。山で何が起きたかについては大親分は決して語らなかった。正確に言うと、語ろうとすると白目を剥いて失禁しながら気絶してしまうのである。
挙句の果ては親分衆の一人のご自慢の屋敷が丸ごとぶった切られたこともある。そう、大きな屋敷が文字通り半分に両断されたのだ。こればかりは人間のできる事ではないと皆が肝を潰したという。
ただしそのどれにも古縁流の名前は出ていない。師匠はこういう類の武勇伝で流派の名を上げるという考えを恥と断じたためである。
まあそのようなわけで、それ以来、兵庫之介は師匠には頭が上がらなくなっている。
師匠自身は認めていないが兵庫之介は古縁流の門弟ということになり、それでこの一件は有耶無耶になった。自らが火だるまになると知りながら燃え盛る炎の中に敢えて手を突っ込みたがる者はいない。
古縁流を抜ければその瞬間から、兵庫之介は師匠の庇護の下から離れることになる。それはつまり関東を治める親分衆が兵庫之介を再び狙うということである。
そして話は今に至る。
古縁流に入って強くなった後に、兵庫之介が見つけた稼ぎ口は道場破りであった。
城下町には剣術道場が多数存在する。武士の子弟を受け持つ道場もあれば、町人を主として教える道場もある。町人にとっては剣術は武士を気取るための遊びであり、遊民たる武士に取ってはただの暇つぶしである。
この時代、本気で剣を極めようとする道場はわずかだ。
そこが兵庫之介の付け目だ。
門弟の多そうな剣術道場を見つけるとその門戸を叩く。
そして、武者修行中の浪人にござる、どうか一手御指南を、と申し込むのだ。
最初は門弟数人と腕比べをしてこれを撃破すると、次には師範代が出てくる。これを負かした辺りで道場主が出てくることになる。
道場主は、これは見事な腕なり、それがしとの立ち合いの前に粗茶でも一服馳走しましょうと奥に呼ぶ。そこからは秘密の談判だ。額が決まれば道場主はそっと袖の下を渡してくる。それから二人で再び道場に舞い戻り、道場主との立ち合いで見事に負けてみせる。
そこで兵庫之介が平服し、これは参った何たる強さ、とてもとてもそれがしの及ぶところにござらぬ、とまあこれで一件落着となる。
痣かたん瘤一つと引き換えに、懐の中には金子がたんまりという仕組みである。
もちろん、このための前提として相当な剣の腕前がなくてはならぬ。
特にたんまりと金を持っていそうな大きな剣術道場ではいづれ劣らぬ腕前の剣士がずらりと控えている。だから下手な腕前で道場破りをやろうものなら、忽ちにして道場の床に打ち据えられ、手足の一本二本は折られて放り出されることになる。
さらには道場によっては道場破りどころか、余所者と見るや最初から道場門下生総出で袋叩きにかけるところもある。道場破りをボロボロにすることが売名への近道と信じている道場主の場合はこういうことになる。
合言葉は、生かして帰すな、である。
一歩でも道場に足を踏み入れた途端に、いきなり窓を閉め扉に閂をかけるのだ。これでは堪ったものではない。
その時道場に詰めている人数や見物人の有無、道場の格式や背後関係までを考慮せねばうまく行かないのが道場破りというものである。
その点、兵庫之介の才覚と腕前ならば十分であった。実のところ、今まで道場破りに失敗したことはない。兵庫之介はこの点では独特の勘を持っていた。
兵庫之介は道場破りの際には敢えて古縁流とは名乗らない。下手に流派を名乗ってそれが廻り廻って師匠の耳にでも入ろうものならば、どんな恐ろしいことが起きるやもしれぬ。それだけは御免被りたいと兵庫之介は思っていた。
もし古縁流と知れてその技はこうだよとでも噂に上ろうものなら、あの師匠のことだ、技の秘密を守るために兵庫之介が今まで訪れた道場を廻って出会った人間をすべて口封じしかねない。兵庫之介はそう睨んでいた。
師匠は決して自ら暴力を揮うような人間ではない。親分衆との確執もすべて親分衆からのちょっかいから始まっている。だがそれでも、古縁流のためならば欠片も行動に躊躇いを見せることがないという恐ろしい面を持っている。
古縁流を守ること。それが師匠の信念であり、また師匠はそれができるだけの十分な力を持っている。一人でも万軍に匹敵するのが師匠なのである。
座禅行の際に師匠が警策代わりに持つあの柳の小枝。あれがまた恐ろしい。
以前に師匠があれを土塀に向けて当てたのを見たことがある。小枝が触れたところから土塀は崩れ、中の竹の骨まで悉く砕けていた。それでいて柳の小枝についている葉っぱは一枚たりとも傷ついてはいない。いったいどうやればあんなことができるのか、兵庫之介には見当すらつかなかった。
そんな師匠が戦国大太刀を持って存分に戦えば何が起こるだろう?
それは見てみたいような気もするし、決して見るべきではないとも感じていた。見れば兵庫之介が持っているあらゆる真実が一からひっくり返ってしまうだろう。
道場破りの際に兵庫之介が名乗る流派の名前は適当にでっち上げたものだし、古縁流と分かる技も使わない。手裏剣は封印し、斬撃も工夫のない単純なものだけを使うようにしていた。
それでも兵庫之介の道場破りは圧倒的に強かった。
道場破りの際に兵庫之介が使うのは手裏剣術の気走りだ。
心の中で念じた手裏剣を実際に投げたのと同じように投げる。すると凝った気の塊が本物の手裏剣の代わりに飛ぶ。これが額に当たると、普通の人間ならば一瞬だけ意識が刈り込まれる。その隙をついて斬りこむのである。
兵庫之介が今までに破った道場では、この気走りに大概の剣士はころりとかかった。
傍から見ていると兵庫之介がするすると近づいてポンと木刀で相手を叩いているようにしか見えない。実際に対面している相手には兵庫之介が瞬時にして距離を詰め、打ち込んできているように見える。気づいたときはすでに一本取られているのだ。
古縁流では気走りは手裏剣修行が境涯を越えた印とは考えられていたが、実戦では役に立たない児戯であると教えていた。
なぜなら気走りは、張り詰めた気を持つ者、つまりは死を見据えて戦う人間にはまったく効かぬからだ。体の周りに吹き出る鬼気により実体の無い気の塊りは簡単に弾かれてしまう。
つまるところ、この剣術道場の剣士たちは自らの死すら覚悟せずに試合に臨んでいるのだ。兵庫之介はそう断じていた。
どうしてこういった腑抜けどもが大事に用いられ、俺のような強者が寄る辺なき生き様となるのか。その不満は兵庫之介に重くのしかかっていた。
ひとたび剣を持てば、師匠以外に俺より強い者はこの世にいないのだ。その自負だけが兵庫之介の支えであった。
この太平の世の中で本物の武士は師匠とその弟子である俺、そして三郎だけだと兵庫之介はそう信じている。
*
その日、行き会った剣術道場は街道から離れたところにある寂れた道場であった
ここを破ってもいくらの金にもなるまいと見てとったが、物は試しである。何よりも昨夜の賭場で負けが込んだお陰で懐には冷たい風が吹き込んでいる。ここで小遣い銭でも稼いで、酒を買って神社の裏手でこっそり飲むか。そんな算段であった。
途中までは良かったんだ。途中までは。兵庫之介は昨夜の光景を思い浮かべた。思わぬツキに恵まれて、賭け札は膨れ上がった。それをここぞとばかりに大きく賭けて、すべて失ってしまった。
丁が出るべきところに半が出てしまったときの、あの絶望感。
負けた瞬間、ここで剣を奮って賭場の全員を斬り殺し、金を奪って逃げようかとも考えたが、それを実行するほど無謀ではなく危ういところで自分を抑えたのだ。
腕の問題ではない。今の兵庫之介に取っては賭場の用心棒含めてすべて斬り殺すのは容易いだろう。だがそれをやれば、すぐに身元が割れる。そうなれば師匠や三郎ともお別れになる。
いや、きっと、そんなことをすれば師匠が兵庫之介を殺すだろう。何よりも兵庫之介には前科があり、今は師匠に身を預けている状況なのだ。面子を潰されたとしても師匠は怒りはしないだろうが、古縁流を辱めたと取られれば話は別だ。日ノ本の国のどこに逃げようが、師匠は追いかけて来て兵庫之介を殺すだろう。
それだけは間違いない。
ああ、くわばらくわばら。そうつぶやきながら、兵庫之介は道場の門を潜った。
「頼もう」勢いよく声をかけた。
中に入ってみると意外に綺麗に片付いた道場であった。壁に数枚の弟子の名札がかかっている。道場の上座には一人の着物姿の男が座っている。頭に何かの頭巾を被っていて、その陰となり顔が見えにくかった。
疱瘡掻きが痘痕だらけの顔を隠すのは別に不思議ではないので、兵庫之介は気にしなかった。
「拙者、武者修行にて全国行脚しております。どうか一手御指南いただきたく」
いつもの口上をすらすらと述べる。だが遣りにくい。道場主しか居らぬのだ。他に口上を聞く人間がいないと何だか気恥ずかしい。
「わかり申した」道場主が頭巾の中からよく通る大声で答えた。「されど当道場の決まりにて、まず師範代との勝負を受けてもらうことになり申す」
「望むところです。では木剣にてお相手いたす」
「よしや」道場主は手を叩いた。
「悟空。悟空はいずこ」
道場の裏手に通ずる扉から悟空と呼ばれたものが出てきた。
それを見て、思わず兵庫之介の口から言葉が漏れた。
「さ、猿!?」
それは木刀を持った一匹の猿であった。人間の少年ほどの大きさで、手にした木刀が不釣り合いに大きく見える。
「これは何かの冗談か!」兵庫之介は怒鳴った。
それに対する道場主の返事は落ち着いたものであった。
「冗談ではござらぬ。当道場の決まりにござる」
猿は木刀を床に置くと、両手をついてペコリとお辞儀をした。
うぬ。兵庫之介の全身に怒りが漲った。
道場破りをするときには、色々な対応をされる。その中にはまた痩せ浪人が集りに来たぞという侮蔑の目を向けるところも少なくはない。だが猿をあてがわれたのは兵庫之介にしても初めての経験であった。
ならば。兵庫之介は道場の壁にかけてあった木刀を握りしめた。この猿と望み通りに試合い、ズタボロの肉の塊に変えて道場主の眼前に突き付けてやろう。
「あいや、待たれい」道場主の声が飛んだ。
「武道とは礼に始まり礼に終わる。そなたまだ礼をしておらぬぞ。それとも何か?
近頃の侍は相手に対する礼儀も知らぬのか」
兵庫之介はさらにかあっとなった。理は確かに向こうにある。だが『その通りだから余計に腹が立ち』という川柳通りに怒りで目が眩んだ。だがそのまま相手に打ち掛かるのはさらに恥の上塗りとなってしまうので、兵庫之介は一歩後ろに下がると答礼をした。
「参る」
言うが早いか気を飛ばした。気走りである。兵庫之介の左手より人の目には見えない気の塊が猿の眉間に飛ぶ。同時に兵庫之介は手にした木刀で打ち掛かった。
飛ばした気は猿の額に過たず命中したが、まるで何事もなかったかのように猿は兵庫之介の木刀の打撃をひらりと躱す。
馬鹿な。兵庫之介はおもわずつぶやきかけ、それを慌てて飲み込んだ。
気走りが効かない。それはつまりこの猿は死に臨む気概でこの勝負に対峙しているということ。
むう。兵庫之介は木刀を握り直した。と、そこへ何かが飛来し、兵庫之介の額を打った。一瞬気が遠くなりかけたのを必死で堪える。
「馬鹿な。馬鹿な。馬鹿な」今度は口に出してしまった。
いま、相手の猿が使ったのは兵庫之介同様の気走りだ。それも兵庫之介のものよりも遥かに鋭い一投であった。
揶揄われたのだ。
この俺が。同じ技、それもより鋭い技で返された。お前の力などこの程度のものよと、猿に笑われたのだ。
兵庫之介の目の前がさらなる怒りで真っ赤に染まった。
殺す。絶対に殺す。全身をバラバラにして殺す。頭も体も見分けがつかないほど叩いて殺す。
叫び声とともに兵庫之介は猿に飛び掛かった。
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