第弐話 三郎地獄廻り(3)

 今度の洞穴は長かった。警戒しつつも三郎は歩き続けた。やがて前方に光が見えてきた。明るい光だ。何やら人の声まで聞こえてくる。

 今度こそ外だ。

 心の中に喜びが溢れるにつれ、三郎の足が早まる。


 光の中に飛び出て三郎は目が眩んだ。

 そこは大きな建物の中だった。巨大な文机が置かれ、いくつもおかれた灯りにより部屋全体が照らされている。書類が山積みされた文机の前に座っているのは髭面の大男であった。その周囲を幾人かの人間と、先に見たものより大きな赤鬼が固め、さらに武装した青や黒の鬼まで並んでいた。

 それら全員が突然踏み込んできた三郎を睨みつけた。


「我が法廷を乱すこの者は何者か」髭面の大男、閻魔大王が責めた。

「古縁流草野三郎」間髪を入れずに三郎は答えた。

 閻魔大王から放たれた怒気に反応して、思わず鉄刀を晴眼に構えてしまった。

「ここを閻魔の法廷と知っての狼藉か」

「知らぬ。ここに来たのも偶然なれば、どこに行くべきかも知らぬ。されど・・」

「されど?」

「仏に逢っては仏を斬り、鬼に逢っては鬼を斬る。それこそが進むべき道だと、そう教えられた」

「修羅の道者か。待て。流派名は何だと言った?」

「いにしえ の えにし なり」

 それを聞いた閻魔大王が椅子から腰を浮かした。

「いにしえ・えにし」一言一言を区切るようにして三郎がもう一度答える。

「待て。待て。待て。待て待て待て待て!」

 閻魔大王が片手を広げて突き出した。まるで三郎との間に何かを置きたがるかのように。

「まさか、まさか、まさか。まさか。おぬしの師匠は本間と言わないか」

「お師さまは古縁流第二十八代本間宗一郎と申す」

 さあっと閻魔大王の赤ら顔が青くなった。

「な、な、な。ワシは約束は守っておるぞ。牛頭も馬頭も勝手なことはさせておらぬ」

 閻魔大王は隣に控えていた細身黒衣の文官鬼に向かうと言った。

「ただちに牛頭と馬頭をここに呼べ」

「牛頭様は叫喚に出かけております。馬頭様は餓鬼総所におられるはずです」

「すぐに呼んで来い!」

 目の前で行われるこの大騒ぎに三郎は呆気に取られていた。


 この閻魔大王はお師さまの知り合いなのか?

 三郎は尋ねてみようとしたが、その度に閻魔大王はいましばしお待ちくだされと言って三郎の言葉を遮った。

 じきにドタドタと足音がして頭が馬のこれも大鬼が部屋に飛び込んできた。

「おう。馬頭来たか。一つ聞く。最近現世に出かけたか?」

「出ておりませぬが」馬頭と呼ばれた大鬼が答えた。

「牛頭は分かりませぬが、馬頭めは何もしておりませぬ」閻魔大王が三郎に言った。

「何か勘違いしておりませぬか。それがし、たまたまここに迷いこんだだけで」

「なに!」閻魔大王の目が見開かれた。

「帰る方法さえ分かればただちに引き上げます」

「ええい。ワシの勘違いか」閻魔大王が自分の髭を搔きむしった。

 そこで馬頭が割って入った。

「この者は何者?」

「古縁流の草野というものだ」

「なに! いにしえ・えにしだと!」今度は馬頭が目を剥いた。

「ええい。事をややこしくするな。三郎とやら、現世への出口はそちらだ。さっさと去るがよい」

 閻魔大王が示した先には三つの扉があった。

「なりませぬ」慌てて馬頭が止めた。「ここに来た者を簡単に帰しては冥界の掟が軽んじられることになります」

「えい、馬頭。何を言っている。ではどうしろと言うのだ」

 閻魔大王はぶるっと体を震わせた。誰もが恐れる地獄の判官がいったい何に怯えているのかと三郎は不思議に思った。

 馬頭はじっと三郎を見つめた。その目が三郎の肩の上のコサブに留まると微かに目を細めてつぶやいた。

「ネズミか」

 閻魔大王の制止の言葉を無視して馬頭は続けた。

「草野とやら、その扉の内、一つを選ぶがよい。

 一つは地獄へ、一つは現世へ、そしてもう一つは極楽へと通ずる。ただし修羅道を行くお前には極楽への扉は開かれぬ。

 選ぶがよい。現世への扉を開けばお前は地上に戻れるだろう。もし地獄への扉を開いたならばそれもまたお主の定め」


 これには閻魔大王も押し黙った。恐らくは地獄の理法に適った申し出なのだろう。

 しばし躊躇った後、三郎は扉へと歩み寄った。

 閻魔大王の横に置いてある姿見にちらりと何かが映り、その瞬間、恐れを知らぬ三郎でさえ、後ろに飛び退いた。

「何を驚いておる? それは浄玻璃の鏡。今映ったのは修羅となったお主の本性ぞ。自分の本当の姿を見て驚くものがあるか」馬頭が指摘した。

「今のが俺の本性」三郎は愕然とした。

「そうだ、お前の真の姿だ。いまちらりと映ったぞ。なんとお主、我が配下の鬼を斬りおったな。いずれその責は受けることとなろう。

 だが今は、さあ、そのネズミを連れて、さっさと行け。我らは忙しい」

 馬頭が促した。

 三郎は目を瞑って、鏡の前を走り抜けた。だが三つの扉の前にて三郎は迷った。扉はどれも同じに見える。

 コサブが三郎の前に出ると、一番左の扉の前でちゅうとネズミ鳴きした。

「その扉だと言うのか。コサブ」

 三郎は扉に手をかけた。そして一瞬躊躇った。コサブがもし間違えていたら自分はこのまま地獄に住まうことになる。

 それは御免被りたかった。

 だがコサブが言うのだ。信じるほかないだろう。なにせコサブはここまで自分を導いて来てくれたのだ。

 その判断に疑う理由はない・・?


 何かがおかしい。三郎は固まった。

 先ほどちらりと見えた鏡の中に映った己の姿、一つはたしかに三郎だ。手に血まみれの鉄刀を持っていた。だがもう一つ映っていたのは何の姿だ。三郎より小さいが、やはり禍々しいその姿。あの殺した赤鬼が半分になった魂でここまで憑いてきたのだろうか。


 そもそもこの怪奇の発端は何だ?

 三郎は記憶を探った。山を降りるまでは何ともなかった。

 帰る途中、地獄穴に入る羽目になった原因は?


「何をぐずぐずしておる」閻魔大王の叱責が飛んだ。

 だが三郎は動かなかった。


 違和感は膨らみ、疑心暗鬼となる。

 独り籠り。一人にて修行せねば分からぬことがある。

 例えば、仲間への依存心。それがどれほど剣士を弱くするものかと、師匠は教えた。

 例えば、情に流され真実を見失うこと。

 例えば、考えることを止め、理非もなく他人に従うこと。


 では今の自分は何だ?

 ネズミの判断に自分の運命を任せて疑いもしない自分は?


 だが、コサブは友だ。ただのネズミではあるが大事な友だ。その友を信じられぬと言うのか?

 コサブには手のひら一杯の木の実を取ってやった。

 自分の肩の上で遊ぶコサブ。

 自分の寝ている回りで遊ぶコサブ。

 木の実を転がして遊ぶコサブ。

 いつまでも自分の話をおとなしく聞いてくれたコサブ。


 何かが引っかかった。もう一度コサブとの記憶を浚う。やがてその違和感の正体が見えて来た。


 おかしい。

 まさか。

 いや、違う。

 だが。

 もしや。

 そうか。

 しかし。

 嘘だ!


 様々な考えが頭の中を廻った。だが最後に一つの事実だけが残った。

 三郎の心に理解の光が訪れた。一瞬の迷いも、耐え難い悲しさも、一陣の剣の心の前に吹き飛んだ。


「仏に逢っては仏を斬り、鬼に逢っては鬼を斬る・・」三郎は呟いた。

 湧き出たのは怪鳥の叫びであった。気合一閃、鉄刀が空を裂き、コサブを打ち抜いた。その体が真っ二つになり宙を舞う。床に落ちたネズミの断片は乾いた音を立てて床に転がった。

「・・友に逢っては友を斬る」三郎は言葉を完成させた。

 その言葉と共に一滴の涙が頬から零れ落ちる。

「許せ。コサブ。すべてはお前が来て以来始まった」

 それに・・と続けた。

「俺はただの一度もお前が何かを食べている姿を見たことがない」

 二週間の間、有り余る木の実に囲まれていて、ただの一度も。

 本当にただのネズミならばそれだけの間ずっと飯を食わぬなどあり得ない。


 三郎は床からコサブの断片を拾い上げた。手の中にあるのは肉の感触ではない。それは二つに割れた木彫りのネズミであった。表面に何かの文字が書き込まれている。

「やはり怪しの物であったか」

 三郎はコサブが示した扉を無視して、真ん中の扉へと進んだ。その扉は静かに開き、その先にある底知れぬ闇を見せた。

 コサブが示したのがより深い地獄への扉だとすれば、残りは二つ。極楽への扉は開かないはずだから、開くこれこそが現世への扉。


 三郎は躊躇うことなく、その闇の中へと歩みを進めた。

 もしコサブが選んだ扉の方が現世の扉だとしたら、こちらが地獄への扉だということになる。だがそれならば友を殺した自分には相応しい結末ではないか。そう思ったのだ。

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