第弐話 三郎地獄廻り(2)
三郎は周囲を見渡した。
どこも似たような洞窟が連なるばかりで、どちらに行けばいいのかさえもわからない。
「さて、これは困ったぞ。コサブ。どちらに行けばいいのやら」
それに応えてコサブは小さく鳴いた。三郎は手にした松明を頼りにあてどなく洞窟の中を歩き始めた。
やがて前方にほの暗い青の光が見えてきた。行きついてみるとそこはより大きな洞窟であった。天井を覆った何かがか細い青の光を放っている。洞窟の中には無数の背を丸めた人影が屯している。
三郎の松明に照らされてそれらの姿が明確になる。
骨が浮き出るほどに痩せた体に丸く膨らんだ腹。ざんばらの髪にこけた頬。落ち窪んだ眼窩の中でぎょろぎょろと動く突き出た目玉。
どうみても絵草子に出てくる餓鬼そのものだ。
三郎は本能的に鉄刀を構えた。
自分は今いったいどこにいるのかと訝しむ。餓鬼などという存在すら見るのは初めてだ。
三郎の動きに応じるかのように、地面にしがみついて石を齧っていた餓鬼たちが一斉に顔を上げて三郎を見つめた。
一瞬の間があった。
それから餓鬼たちは一斉に歌い始めた。
お腹が空き候。
お腹が好き候。
何か食わしてくだされ。
何か食わしてくだされ。
餓鬼たちが群がって来た。
三郎は荷物の中に手を入れて、木の実を一握り取り出した。コサブに食べさせようと取り貯めておいたものだ。それを思いっきり遠くへ放り投げる。わっと声をあげて餓鬼たちが投げられた木の実に貪りつき、我先にと手にした木の実を欠けた歯の間に押し込む。
硬いものを噛む咀嚼音が周囲を満たす。だがそれもすぐに尽きた。
またもや餓鬼たちが三郎を見つめる。その瞳が三郎の肩の上に載っているコサブに向けられた。その意図は明確だ。
「それで全部だ。コサブは食わせないぞ。俺の友だ」
それに答えるかのように、ふたたび餓鬼たちが歌い始めた。
お腹が空き候。
お腹が空き候。
匂うぞ。匂う。食い物じゃ。
匂うぞ。匂う。食い物じゃ。
三郎は持っていたズタ袋の底を攫った。以前に作っておいたウサギの干し肉が二枚出てきた。
三郎が投げた肉に餓鬼たちが飛びつく。わずかな肉の断片を求めて、お互いの体を毟り合い、噛みつき合った。相手の口の中に手を突っ込み、食べかけの肉を引きずりだして自分が貪り食う。その繰り返し。
やがて干し肉が完全に無くなり騒ぎが納まると餓鬼たちは三郎の方を向いた。
お腹が空き候。
お腹が空き候。
この際、人の肉でもよか候。
この際、人の肉でもよか候。
餓鬼たちの包囲の輪がじりじりと狭まった。赤い口が開き乱食い歯が剥き出しになる。
ここに来てようやく、三郎は鉄刀を大上段に振りかぶった。
「貴様ら。この俺を食おうと言うのか」
その体から強烈な気迫の炎が噴き出す。
「食えるものならば食ってみるがよい。
古縁流草野三郎。餓鬼のエサなどにはならぬ。我が進むは修羅の道なり」
気合とともに斬撃を発し、餓鬼の群れに斬り込んだ。三郎の握った鉄刀が振り回されると、それに当たった餓鬼があまりの痛みに悲鳴を上げる。
餓鬼たちが一斉に逃げ出す。あっと言う間に洞窟は空っぽになった。
荒い息をつきながら三郎は鉄刀を下した。その瞬間、コサブは三郎の肩から飛び降りると、別の洞窟に通じる穴へと飛び込んだ。
しばらく躊躇った後に三郎はその穴へと進んだ。
どのみち出口がどれか判らないならコサブに任せてみようと思ったのだ。
*
何かでぬるぬるする洞穴を進んだ後、今度は河原らしき場所に出た。上空は薄ぼんやりした灯りがあり、洞窟にも関わらずに川が流れている。緑の草は一本も生えていない。
地下に川か。三郎は訝しんだ。河原のあちらこちらに小さな姿がうずくまっている。またもや餓鬼かと身構えた三郎だったが、じきにそれが普通の子供たちだと気が付いた。
「賽の河原か」三郎は呟いた。
もう薄々とここが地獄と呼ばれる場所であると理解している。
子供たちはひたすらに石を積んでいる。
「おじさん、だれ?」子供の一人が石積みを中断して尋ねてきた。
「草野という。武士だ」
「鬼じゃないの?」
子供は三郎の頭を見て言った。
「鬼じゃないよ」三郎は微笑んだ。「だから怖くない」
だが本当にそうなのだろうか、と心の内では思った。
本当に俺は鬼ではないのか?
「石を積む遊びなのか?」三郎は尋ねた。どの子も同じことをしている。
「ううん。石を自分の頭よりも高く積み上げたらお家に帰れるの」
「そりゃいいな。おじさんも石を積んだらお家に帰れるかな」
「でも出来ないの。壊されるから。ほら、そろそろ来るよ」
「来るって何が?」
そう三郎が問いかけたときだ、ざわりと遠くで何かが起きる気配がした。子供たちの悲鳴が広がる。
「鬼が来た!」
現れたのは巨大な鬼であった。身の丈は普通の大人の倍はある。裸の胸も顔もどれも赤く、その肌の下には隆とした筋肉が盛り上がっている。その頭の上には牛に似た角が二本生えていて、手にはお定まりの金棒を持っている。
まるで絵草子そのものから抜け出して来たかのような鬼だ。ただしいわゆる褌だけは、虎の皮ではないただの汚れた布だった。
鬼はその金棒で子供たちが積んだ石積みを崩し始めた。そのたびに子供たちの泣き声が大きくなる。
中には自分の石積みを崩されまいと鬼に飛びつく子供もいたが、子供が大きな鬼に敵うわけもなくあっけなく跳ね飛ばされた。地面に叩きつけられた子供が動かなくなるのを見て、三郎の体がかあっと熱くなった。
「許せん」
三郎の体が怒りで膨らむ。鉄刀を振りかぶると鬼目掛けて突進した。従容としていつも大人しく見える三郎であるが、その芯の強さは師匠でさえ感心する。
金棒に鉄刀が激突すると凄まじい火花が散った。ガンと伝わってきた強烈な衝撃に三郎の手がじんと痺れたが、丸っきり無視した。その程度で武器を落とすようではとても剣士などやってはいられない。
いきなり攻撃されて赤鬼の側も慌てた。
「待て! 待て! 待て! どうして生者がここに居る」
「俺にも判らぬ」
三郎は体を開きながら答えた。じりじりと鬼の隙を狙って位置を変える。
「これはお役目なのだ。邪魔をするな」
「子供が目の前で泣いておるのだぞ。ならば見捨ててはおかれぬ」
「ここに居るは親より先に死んだ子よ。罰を与えねばならぬ」
鬼のその言葉は三郎をさらに怒らせるだけに終わった。
「子供とて好きで死んだわけではあるまい。事故で、病気で、飢えで死んだのであろう。子供に何の罪科がある?」
「聞き分けのない奴だ。それ以上お役目を邪魔するならこの金棒の錆にしてくれるぞ」
赤鬼は怒鳴った。
もちろん三郎は聞き分けるつもりなどなかった。そんなに聞き分けが良かったならば、そもそも古縁流などには入らない。強さを求めるということは、すなわち自分の意思を何が何でも押し通す腹積もりということ。
「古縁流草野三郎。堂々と参る」
三郎は鉄刀を振り上げた。それに合わせるかのように赤鬼もついうっかりと鉄棒を振り上げた。その瞬間、手裏剣が二本、鬼の眼へと飛んだ。
古縁流、吊り飛鳥。
こちらの刀の動きに釣られて相手の刀が動くその瞬間に、自分の武器の陰から手裏剣が目を襲う。
古縁流のどの技もそうだが、初見殺しの技だ。いきなりこれをやられて避けることのできる者はいない。
赤鬼もその例に漏れない。いきなり両目に手裏剣を突き立てられて赤鬼が悲鳴をあげる。
その肩口から三郎の第二の斬撃が打ち込まれた。巨大な体が斜めに切り裂かれ、激しい血しぶきが飛ぶ。皮膚も筋肉も骨も内臓もすべてひとつにまとめて区別なく切断された。
古縁流斬撃一の太刀、技の名前は『断命』。必殺の一撃であった。
本来、鉄刀というものは木の刀を鉄の素材で作ったもの。もとから刃などついていない湾曲した鉄の棒でしかない。それでも古縁流の技の驚くべき速さで振られるとまるで刃物のようによく切れる。
鬼が真っ二つに両断されると、それを見ていた子供たちが前よりも泣き叫びながら逃げ出した。子供の目には三郎が鬼より恐ろしい存在に見えたのだ。
修羅なれば。
三郎は自分に言い聞かせた。元より感謝の言葉など期待はしていない。怒りにまかせてつい体が動いてしまっただけだ。
そうではあったが、その実、三郎の心は深く傷ついていた。自分では認めていなかったが。
鬼の死体を越えてコサブが走った。たったいま鬼が来たばかりの洞窟へと駆け込む。
「出口はそこか」
一声唸ると三郎はコサブの後を追った。
*
今度辿り着いた洞窟は今までのものに比べると小さかった。いくつかの洞穴が繋がっただけの分岐点のようにも見えた。ただこの洞窟にはひねこびた草が生えていた。草が生えているだけでも今までの場所よりマシに見えてしまう。
驚いたことにその洞窟の中央には小さな茶屋が建っていた。
茶屋の中を覗いてみる。見た目はまるで普通の町の茶屋だ。
三郎に気づいて茶屋の中から一人の老婆が出て来た。頭の上に小さな角が突き出ていることからこれもまた鬼とみえた。
「おや、珍しい。お客さんかえ」
「ここは?」三郎は思わず尋ねてしまった。
「見ての通り茶屋じゃよ。ここを先に進めば焦熱。右に行けば衆合。左が等活へ繋がりますじゃ。皆ここで一息つきますでな。お前様、見たところ亡者でもなさそうじゃな。常無常のお方かえ。お役目ご苦労さま。まあ茶でも飲んでいきなされ」
「誠に申し訳ない。ただいま手元不如意にて」
「そうか、では久しぶりのお客ゆえ、ただで飲ませてやろうぞえ」
止める間もなく、老婆は茶の注がれた茶碗とお茶菓子を持ち出してきた。
茶は冷えていた。この世界には熱い茶というものがそもないのかもしれない。そう思いながら三郎は一つ礼を述べると、お茶菓子に手を伸ばした。それは何かの餅のように思えた。一部をちぎり取り、コサブに差し出す。
「ほら、コサブ、お食べ」
コサブは食べなかった。匂いを嗅ぐ様子は見せるが決して口をつけようとはしない。コサブに食べさせるために集めた木の実も餓鬼たちにやってしまったから、三郎は他に何も持っていない。
そこで三郎ははっとした。
「どうしたえ? 口に合わないかえ?」
いつの間にか横に来ていた老婆が言う。
「ヨモツヘグイ」三郎は言った。
それを聞き、老婆の顔が歪んだ。口の端から牙が覗く。
ヨモツヘグイとは黄泉戸喫と書く。つまりは黄泉の国の食物のことである。それを口にした者は二度と現世には戻れなくなると言い伝えられている。
「小うるさいガキめ。あんたは黙ってそれを食えばいいんだよ」
老婆の手の爪が長く伸びた。髪が逆立ち、目がぎょろりと大きく開く。そこに居るのはもはや老婆ではなく恐ろしい山姥だ。
「断る」
一言いうなり、三郎は鉄刀を振り上げた。
気合と共にそれを振り下ろす。
風が吹いた。
三郎は洞窟の中にただ一人立ちすくんでいた。
茶屋も老婆の姿も今や影も形もない。足元には何かの動物の糞が転がっていた。その周囲にぷんと臭う尿がまき散らされている。これがお茶とお茶菓子の正体だと三郎は悟った。
「そうか、地獄は獲物を逃がす気はないのか」と三郎は呟いた。
その後も、当てもなく三郎は洞窟から洞窟へと渡り歩いた。
燃え盛る炎が見渡す限りの洞窟を満たしている場所は余りの熱さに近づくこともできなかった。その炎の山の先に果てがあるのかどうかすらも分からなかった。
凍り付いた氷がすべてを覆っている場所は洞窟の入口で引き返した。その中で凍り付けば逃れること叶わぬと直感が告げていたからだ。
多くの鬼が何やら忙しく働いている場所もあった。磔にされた人間に何かをしているのだと知って、これも慌てて来た道を戻った。
困ったことに三郎は空腹を覚えて来た。例え本物の食べ物を見つけたにしても、地獄の食べ物は食べることができない。ヨモツヘグイを食べれば現世に帰れなくなる。
だがこのままでは三郎は空腹と疲労で倒れてしまうだろう。
まさかコサブを食べるわけにはいかないし、これは困ったことになったぞ。そう三郎は焦った。
*
どうすればよいのかと困り切ったときに、三郎の眼前に小さな人影が現れた。
錫杖を持った坊主頭の人間だ。この地獄に似つかわしくない微笑みを浮かべている。
「其方や」人影は話しかけて来た。
「あなたは誰です」
「地蔵菩薩と人は呼びます」
意識することもなく三郎の膝が落ちた。そのまま地蔵菩薩の前に正座してしまう。三郎にしても初めての経験であった。
地蔵菩薩は仏の中で唯一地獄を歩くことができる仏だ。
コサブはどこかに消えてしまっていた。
「子供たちに頼まれて、其方を探していたのです。鬼を斬りましたね」
その言葉に三郎は深々と頭を下げてしまった。
「子供たちが苦しむ様を見ていられなかったのです」
「それはまた優しいことです」
「それがし、侍としては失格だと思っています」
そう言うなり、三郎は地蔵菩薩の前に姿勢を正した。
「地蔵菩薩さまに申し上げます」
「何事でしょう?」
「あの子供たちを極楽へ連れて行っていただけないでしょうか」
しばし沈黙を挟んだ後に、地蔵菩薩は答えた。
「そうしたいところですがそれは出来ないのです。彼らはそれなりの理由があって罰を受けているのです」
「親より先に死んだことに罰があるというのですか」
「聞きなさい。草野三郎」
地蔵菩薩の声が厳しくなった。
「人は古の縁により、今を生きます。そして今を生きることにより先の世の縁を作ります。あれは罰であって、また同時に罰ではないのですよ。信じてください。あの子たちが必ず幸せになるように我々は考えているのです」
地蔵菩薩は優しい笑みをさらに深くした。
「善い心がけです。三郎。これより私の言うことをよく聞きなさい。そうすれば現世に戻ることができましょう」
「出られるのですか!?」
三郎の声に希望が籠った。
「確実ではありません。其方は剣士として修羅の道を歩むにより、この地獄を見せられることになったのです。ここはまだ地獄の入口。其方が今まで見てきたのはいわば地獄の表に浮かんだ灰汁のようなもの。この先にはもっと深い地獄が待っています」
「それがし、ただ現世に帰りたいだけです」
「聞きなさい。あそこに見えるあの洞窟。分かりますか?」
地蔵菩薩が錫杖で示したのは目立たない暗い洞穴だった。
「あの先へ行きなさい。そこで貴方は裁きを受けるのです。それで決着がつけば現世に帰ることができるでしょう」
「まことですか! 何とお礼を申し上げればよいのやら」三郎はまた頭を下げた。
「まだ助かったわけではありません。そこでそなたはある大事なものを失うことになります。ですがそれこそが助かるための条件なのです。私が言えるのはここまでです。さあお行きなさい」
三郎が頭を上げたときには地蔵菩薩の姿は消えていた。どこかで錫杖の鳴る音が微かに聞こえる。
コサブが走り寄って来た。三郎はコサブを持ち上げて肩に載せると、地蔵菩薩に示された洞穴へと足を踏み入れた。
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