第弐話 三郎地獄廻り(1)
下禄の武士である草野三郎が修練を積む古縁流の修行には山籠もりがある。
人の気配の無い深山幽谷へと一人で赴き、ひたすらに修行をするのである。
人の気配が無いと言ってもそれは表向きの話であり、実際には人の眼がある。
修験者たちである。
どのような山の中にも修験者は入り込む。それこそが彼らの修行であるから。
修験者とは基本的に覗き屋である。彼らが修する術や技の類は極端なまでの秘密主義の下にある。何十年も粉骨砕身して師に仕えたと云っても、術を教えて貰えるとは限らないのだ。
だから新しい術や技は他人を盗み見ることでしか得られない。
天狗と語られる修験者たちは山の中を巡り、木々の中に溶け込み、岩と成りて気配を消し、風が吹くに合わせてその身を飛ばす。そうして他の修験者の修行を覗き見るのだ。運が良ければ他者が秘密にする技や術を手に入れることができるやもしれぬ。
これは山に籠る剣術修行者に取っては困った問題である。奥義に達した剣術には多くの秘訣がある。基本の技にほんのわずかな工夫を加えたものが実戦では初見殺しの技となる。だからこそ、技の秘密を他者に見られるわけにはいかない。修行を覗き見られることはすなわち次の戦いでの負けに繋がることになる。
古縁流の流派ではこの他見を許さずの掟は非常に厳格に守られている。つまりは見てはならぬ技を見た者を必ず殺すのである。
この修験者の覗き見に対する三郎の師匠である本間宗一郎の対処は実に簡単なものであった。
隠形の術をかけた修行者が隠れ潜んでいる木に近づき、無言の気合をかけて刀の峰で軽く木の幹を叩くのである。ただそれだけで多くの虫と一緒に修験者は木から落ちて来る。猫よりも身軽なはずの修験者が受け身さえ取れずにだ。
そのようにして面子を潰された修験者たちは師匠が修行に入った山には近づかなくなる。
こうして初めて本格的な修行が始まることになる。
山駆けは修行の基本である。
朝に走り、昼に走り、夜に走る。ただし道の上を走るのではない。森の中、岩場、沼地、崖、そのすべてを道があろうが無かろうがお構いなしに駆け続けるのである。
もちろん平らな地面などどこにもない。岩の頭を蹴り、木の根をそのまま踏む。場合によっては木の幹から木の幹へと飛び移り、崖は指先の力だけでよじ登り、降りるときは受け身を取りながら転がり落ちるのである。
立ち止まりでもしようものなら並走していた師匠に小枝でパシリとやられて、死ぬよりもひどいその痛みに地面を転げまわることになる。
それがほどほどできるようになると、次は手裏剣投げの術を鍛える。手裏剣を一本投げ、次は二本投げ、最後は八本を同時に投げる。さらにはどれも違う速度で投げ、続いて二本を重ねて投げ、最後には存在しない手裏剣を投げて相手を打ち抜く気走りの境地へと至る。
もちろんこれも容易ではない。あまりの酷使に両腕は腫れあがり、高熱が出る。それを薬活で抑えながらまた修行を続けるのである。
剣戟の修行もまた厳しい。古縁流では稽古に木刀ではなく鉄刀を使う。刀とは名がついているが要は単なる鉄の棒である。真剣よりも遥かに重いこの鉄刀を持って、一抱えもある大木を打ち削るのである。一本の大木を削り倒すまでに最初は一週間を要したものが、最後は半刻も経たないうちに切り倒せるようになる。それでも師匠の技には遥かに及ぶものではない。
滝行を終えた後は座禅を組まされる。気を抜くと、師匠の持つ警策代わりの小枝が飛んでくる。そのただの小枝が与えるほどの酷い痛みを三郎は他には知らぬ。一打ちされただけで全身を痛みが駆け回り地面を転がりのたうち回る。それでいて、アザの一つもできぬのであるから実に不思議である。
兄弟子の兵庫之介は最初から山籠りはせずに逃げている。
師匠は修行は自ら望んでするものとの立場を取っていたので弟子が出てこなくても責めはしない。もっとも三郎はただの一度も修行から逃げることはしなかった。
山籠もりが半ばまで進んだ段階で三郎には最後の修行が用意された。
それが独り籠りである。
「よく聞け、三郎」師匠は言った。
「これよりお主は一カ月の独り籠りの修行に入る。内容は簡単だ。お主独りで更なる山奥に入り、そこで誰にも会わずに修行を続けるのだ」
「お師さま。この修行の意味は何でござりましょうや」
三郎にはこの修行は余りにも簡単に思えたのだ。
「古事に言う。仏に逢っては仏を斬り、鬼に逢っては鬼を斬る。それこそが修行者の心得。古縁の流派ではさらにこう続ける。友に逢っては友を斬り、師に逢っては師を斬る、とな。
仲間がいるからと頼る心、友がいるからと頼る心。これらすべてが剣の道の塞ぎとなる。何も言わなくてもそこに仲間が居るだけで心に緩みが出る。
剣の道を究めんとするならば、己以外はすべて敵と思え。己れただ一人の修羅となれ。そうでなくては道は成らぬ。その極意を掴むのがこの独り籠りなのだ」
師匠の言葉が判らぬながらも、ただ師匠の命ずるまま、更なる深山へと三郎は独り籠りに送り出された。
*
修業に良さそうな場所を見つけるのに半日、急ごしらえの寝場所を作り、道々捕まえておいたウサギを捌いて炙る。
匂いにつられて熊でも出てはくれぬかと期待したが、それは出なかった。熊の一匹も出てくれればしばらくは食料の心配をしなくて済むものを。そう三郎は舌打ちした。
もっとも古縁流の修行が行われている場所には熊は出ぬ。熊は賢いため、古縁流の修行者の気配を知ると早々に逃げ出してしまうのである。
翌日からは真面目に修行に取り組んだ。山駆けから始まって今までと同じ修行を繰り返す。
最初は楽に思えた。むしろ座禅の時に師匠の警策が飛んでこないだけマシとも考えた。あの痛みは人の心を壊す痛みだ。三郎はそう思っていた。
だが、夜の独り寝は寂しかった。粗末な寝床の中で星を見つめながら眠りにつくとき、どうしても人の言葉を求めている自分に気が付いた。
一週間が過ぎると、山の中から自分を呼んでいる声が聞こえてくるような気がし始めた。これに耐えるのが独り籠りの修行かと一人で合点した。
三郎には暗闇に対する恐れはなかった。いや、暗闇どころか大概のものに恐れを抱くことがなかった。もしかしたら俺は頭の中の何か大事なものが欠けているのかもしれんなと、常々三郎は思っていた。
二週間目になると本物の人の声が無性に聞きたくて聞きたくて堪らなくなった。こっそりと山を降りることも考えた。もちろん師匠には怒られるだろうが、今はその怒鳴り声でさえも聞きたいと思った。
そんなとき、三郎の寝床に一匹のネズミが棲みついた。自分の食い残しに集まって来たのかと思った。
ネズミは人を恐れるものだと思っていたがそうでもないらしい。それとも山に棲むネズミとはこういうものなのだろうか。三郎には判別がつかなかった。
山の中を駆けるついでに、ネズミが好みそうな木の実を取ってきた。人が食える木の実ならばネズミも食べられるはずとの考えである。三郎が与えた木の実を警戒したのかネズミは食べようとはしなかったが、小さな手で木の実を転がす仕草は可愛らしかった。
このネズミが三郎は好きになった。毎夜修行の後にネズミに話しかけるのが日課となり、これなら少しは寂しさも紛れるなと三郎は思った。久々に人語を喋ってみて、自分が人の言葉を話しづらくなっていることに驚く。
「そうだな。お前に名前をつけてやろう」
木の葉を敷き詰めた寝床に転がりながら三郎が言った。
「俺の名から一文字取ってコサブではどうか?」
もちろんネズミは三郎の言葉に答えなかったがそう決まった。
やがてネズミは修行中の三郎の傍に常にいるようになった。挙句の果てには鉄刀を振るう三郎の頭の上に乗りまでした。鍛錬を積んだ武芸者の頭というものはどのような動きをしようがまっすぐに揺るぐことはない。ネズミがしがみつくには良い足がかりなのだ。
そのうち三郎のネズミ好きは度を越し始めた。コサブが少しでも姿を消すと、修行を中断までして慌てて周囲を探すほどになった。三郎が集めた山ほどの木の実に囲まれてコサブは幸せそうに見えた。
いつの間にか夜毎に聞こえてきていた人間の声は聞こえなくなっていた。
そうこうしている内に、残りの二週間はあっという間に過ぎ去り、ついに下山の日となった。これで独り籠りの修行は終わりだ。
少ない荷物をまとめると三郎は立ち上がった。コサブをつまみ上げると肩の上に乗せる。頭の上のほうが足場としては安定しているが、さすがに頭の上にネズミを乗せている姿を人には見られたくない。
山のネズミが町で生きられるかは知らなかったが、何とかなるだろうと考えていた。
「さあ、帰るぞ」
一言言うなり三郎は走り始めた。鍛え上げた足だけあってまるで飛鳥のような勢いだ。人間は誰も足を踏み入れられぬ獣道をまるで平地のように駆け抜ける。
しばらく走ってからふと気が付いた。肩の上に乗せていたはずのコサブがいない。慌てて来た道を戻ると、コサブはすぐに見つかった。道傍の岩の上にちょこんと載っている。
コサブは三郎を見ると、岩の陰に走り込んだ。
「こら、どこへ行く」
三郎が追いかけるとコサブはさらに奥へと走り込み、藪の中へと消えた。三郎が追う、コサブが逃げる。その繰り返しで気づいたときには三郎は大きな洞窟の前についていた。
洞窟の中はひたすらに暗く、奥の方でぴちゃぴちゃと水の音がする。
「コサブ! コサブ!」三郎は呼ばわった。
もちろん返事はない。洞窟の奥にちらりとネズミの尾が見えたような気がした。三郎は手持ちの道具を使って手早く即席のタイマツを作り上げると、意を決して洞窟へと飛び込んだ。
少しだけ中に入ろう、駄目そうならコサブは諦めて引き返そう。そう思ったのは甘かった。逃げ回るコサブを捕まえて拾い上げたときにはすでに帰る道を見失っていた。洞窟の中は前に延びる穴も後ろに延びる穴もどちらも同じに見える。
しまったと思った。山に入る前に師匠に硬く言い含められていたことを今更ながらに思い出したのだ。この山の奥には黄泉へと通じる地獄穴と呼ばれる洞窟がある。その中は複雑に入り組んでおり、入った者は二度と出てこられない。
これがその地獄穴だ。
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