第壱話 雪の峠を越えて(4)

 しつこく残っていた根雪もようやくのことに溶けて消えた。どこから訪れたのか、鶯が鳴いている。

 それを聞いて、縁側でうたた寝をしていた白髪交じりの男が大きく伸びをした。その男は左の手首から先がない。

「よくお眠りになりましたか。お茶が入りましたよ」

 これも老いた女性がお茶を載せた盆を持って部屋に入って来る。

「ああ、すまんな。お妙。こう暖かくなるとついウトウトとな」

 老いた三郎は茶碗を取ると、茶を啜り始めた。

「何やら魘されていたようですが」

「昔の夢をな。ちょっと」

 そろそろと暮れ行く陽を眺めた。


 古の縁か。

 俺と兵庫之助はいったいどのような縁であったのか?

 あそこまでして殺し合わねばならぬ何をしてきたのか?

 果たして俺とあいつの業はあれで解けたのか?

 いくら考えても人生とは分からないことばかりだ。


 仇討ち成就の証として殿様に大白虎の首と毛皮を差し出したときの驚きようときたら。

 三郎はそれを思い出して微笑んだ。

 これが仇の加藤兵庫之助の首にてございますとの三郎の文言は苦笑を持って迎えられた。しかし恐ろし気な大白虎の首は見る者の肝胆を寒からしめ、その信じられぬほどの大きな毛皮はさらなる驚愕を生んだ。

 まさにそれは化け物としか表現のしようが無かった。

 このような化け物を果たして一介の人間が倒せるものなのだろうか?


 藩より調査の者があの山へと送られた。

 すべてを語ったのは庄屋だ。

 吹雪の夜、何者かが庄屋の家の戸を叩き、何事かと思って開けてみれば全身血まみれの男がそこに立っていたこと。

 家の主の看病の下、男がようやく動けるようになるまでに一か月かかったこと。

 冬の終わりに、回復した三郎の案内で村人が恐る恐る山に登ってみてその惨状に驚愕したこと。


 峠の林の木はことごとくへし折られ、周囲の大地は掘り返されている。折れた戦国大太刀が地面に突き刺さっている横に半ば凍り付いた大白虎の首が転がっていた。

 大岩の上に雪が降り積もっただけだと思っていたものが、その実は大白虎の巨躯だと知ったときの驚き。


 これらすべてが明るみにさらされた。

 他国の村々に甚大な被害を出していた化け物を確かに三郎が退治したとあっては、藩としてももはや捨ておけない。三郎へのお構いなしの令状は取り消され、新しく加増された職が提示された。

 三郎は切り株と変じた左手を見せてそれを断った。これでは十分なご奉仕ができませぬゆえ、と。

 三郎の本音は武士というものに愛想が尽きていたことであるがそれはおくびにも見せなかった。

 ならばと大白虎の毛皮と引き換えに下しおかれた金子を元手にして商売を始めたのが三十年前になる。それは大いに当たり、三郎は今の立場に落ち着くことができた。三郎の五年に及ぶ仇討ちの旅の経験は決して無駄にはならなかった。


 もはや古縁流を継ぐ者はいない。だが、今の三郎には剣の道を究めたのだという自負が満たされていた。いったいどこの誰があれほどの化け物を一人で退治できよう。


「梅ももう終わるに、季節外れの鶯かな。この陽気ではそろそろ桜も咲こうというものなのに」

「あら、そうでもありませんわ。梅でも桜でも、鶯は絵になりますもの」

 ふふっと少しだけ笑い、妻の妙が応える。

 三郎はボリボリと頭を掻いた。

「桜が咲いたら、梓屋でお花見弁当を作ってもらって、桜河原にでも出ようかな。丁稚たちもお供させてやったら喜ぶだろう。あいつら、旨いものには目がないからな」

「そうですね。そうしましょう」

 お妙は幸せそうに目を細めた。

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