第壱話 雪の峠を越えて(2)

 病を得た師匠を見舞った後に三郎が家に帰ると、むっと鉄の異臭が鼻をついた。

 血。それも大量の血だ。そう直感した。

 居間へと駆け入る。襖を剥がすようにして引き開けて、あっと叫んだ。

 部屋中を満たす惨劇の光景。無残にも生々しい傷口を見せて畳に伏せられた両親の死体の周囲を、変色した血の海が覆う。


 たえ。


 思わず声が出た。妻の名を呼び短い廊下を走る。

 いない。

 そう認識するとともに安心と戦慄が同時に襲って来た。

 放心状態のままで両親の死体が転がる部屋へと戻る。

 犯人は明らかであった。あれほど長い間、共に修行したのだから。

 古縁流斬撃の太刀。これほどまで鮮やかに人の体を切り裂ける剣技は他にはない。そしてそれをいま使えるのは自分の他にはただ二人。師匠と兄弟子の加藤兵庫之助。そして師匠はいま別れて来たばかり。


 伸ばした視線が、床の間に向かう。

 無い。いつもそこに掛けてある家宝の戦国大太刀が無い。

 妻の妙が出先から戻ってきたのは、ちょうどそのときであった。



 三郎の膝は力なく崩れ落ちた。

 峠道の白い雪の地面がせり上がり顎を打つ。自分が深く埋もれた雪の冷たささえももう感じない。

 これで終わりなのか。そう思った。

 雪が体の上に降り積もる。雪が重いと感じたのは初めてであった。背中の大太刀の重みは感じないのに、雪の重みだけが感じられるのは奇妙であった。


 たえ・・故郷に置いて来た妻の顔が目に浮かんだ。

 二度と会えぬのか。後悔が胸を満たした。



 草野家に伝わるたった一つの家宝。戦国大太刀板打家盛。

 無骨な大太刀であった。普通の日本刀よりも長く、厚く、重い。重量は二貫目、長さは五尺を越える。戦国の世より草野家に代々伝わってきた名刀であった。今までにその刃が多くの血を吸って来たことは剣術の修行を積んだ者なら一目見たただけで分かる。

 これがあるが故に、父は武士というものに諦めがつかなかった。

 これがあるが故に、息子たる三郎に厳しくせざるを得なかった。

 作られてより五百年の歳月を刻み、なおその刃の輝きを失わない大太刀。これこそが古の武士というものの体現であった。


 それがいま、加藤に盗まれてしまった。

 だがそれだけが目的とは三郎には思えなかった。加藤はそこまで名刀というものに入れ込む人間ではない。

 惨劇の光景に腰を抜かして、三郎の腕の中に倒れ込んだ妻の妙の顔を見る。

 もしや、とも思った。

 妻の妙。おとなしく物静かな女性。ある日、妙は病気で高熱を出し、それは長く続いた。薬代もない日々。しかし両親は妙を助けるために刀を売るのを拒んだ。

 恐らくはそのために、石女となってしまった妻。

 だがそれでも三郎は妙が好きだった。貧乏武士の生活も、希望の欠片のない未来も、妙がいればこそ耐えられた。

 加藤兵庫之助に取ってはどうだったろうか。同じ底辺武士なれど、三郎には妻がおり、武士の誇りたる刀があり、そして師匠に認められた剣の腕もある。

 お互い何も持たぬ者同士のはずなのに、気がつけば三郎には自分にないものがたくさんある。それを悟って、加藤はすべてを壊したくなったのではないか。



 仇討ちの願いは驚くほどすんなりと藩に認められた。底辺の中の底辺の家が今さら仇討ちも何もないというのが藩の偽らざる気持ちであった。

 それでも旅の空で流浪の果てに両者とも死んでくれるならば、藩としては願ったりである。どこの藩でもそうだが内情は苦しく、一人でも多くの藩士が消えてくれることを願っているのは公然の秘密であった。

 家禄は仇討ちの間は差し止められ、妻の妙は遠い親戚に預けられることとなった。


 出立の日、別れの挨拶のために訪れた三郎に師匠はすまぬと言った。

「三郎。すべては儂の間違いじゃ。まずは兄弟子たるあやつに免許皆伝を渡すべきであった。あやつの剣にはまだ少し足りぬところがあると、そう判断した儂はあまりにも厳正でありすぎた」

 そこで少しばかり嫌な咳をしてから師匠は後を続けた。

「兵庫之助は儂にそなたとの真剣試合を所望しておった。

 もちろん古縁流では同門での果し合いは禁じておる。我が流派は必殺の流派。同門同士が争えば、どちらか一方は必ず死ぬ。死なぬまでも剣士としての道は断たれるほどの怪我を負う。

 それでも兵庫之助はそなたとの決着をつけたがっていた。どちらが強いか確かめたいと願うは剣士としての業だ」

「お師匠さま」

「そなたの家の家宝たる戦国大太刀を盗んだのもそのためじゃ。追ってきて戦いの決着をつけろとの誘いなのだ」

「お師匠さま。私はどうすれば。正直、本当に仇が打ちたいのかどうかさえも迷っております」

「すでに骰は振られたのだ。考えてはならぬ。考えればその決心は鈍ろう。

 ここまで来た以上は加藤めを追ってそなたらの古き宿縁を果たすしかあるまい。同門禁手の縛りは儂が許す。そうして加藤との決着をつけてやらねば、次はお前の妻が狙われよう」

 その言葉は三郎にとって衝撃であった。兵庫之助はそこまでやるのかと思った。

「見事に加藤めを打ち取った後はお前の好きにすればよい。

 儂は昔より続く古縁流を絶やしたくなくてお前たちに教えてしまったが、もはや太平の世には無用の剣術。要は儂の悪あがきだったのと今にして思う。

 次に繋ぐかどうかはお前が決めなさい。お前の代で我が流派が絶えようが儂はもう何も言わん」

「お師匠さま」

「そなたにまみえるのはこれが最後。もうすぐに儂は死ぬ。後始末は近在の百姓に頼んである。墓すらも作ることはない。戦国より続いてきた我が流派の業もここで尽きる。後残すはお主らの因縁のみ」

 それきり師匠は目を瞑り、黙して語らずとなった。

 一つ頭を下げたきり、三郎は師匠の家を後にした。



 逐電した加藤を追って、泣いてすがる妻を振り切っての仇討ちの旅が始まった。

 今までただの一度も口ごたえしなかった妻が、初めてみせた激しさで、泣いて行かないでくれと三郎にすがった。自分が石女だから捨てられるのだとまで言った。その妻を敢えて心を鬼にして振り払った。


 すべてを捨てての五年の旅は、侍としてのあらゆる虚飾を剥ぎ取られるには十分であった。今の世に侍などは要らぬのだと思い知らされる旅でもあった。

 この五年、どうして仇討ちを止めなかったのか。

 すでに藩は三郎のことなど忘れ、草野家の家禄も預かりのまま放置されている。たかだか三十俵二人扶持の家など、藩に取っては枝葉の先でしかない。今仇討ちを止めて町人になろうが誰が気にするものか。むしろ妙の手紙では藩よりお構いなしの文言がそれとなく伝えられたというではないか。

 だがそれでも三郎は仇を探すのを止めなかった。その理由は自分でも分からなかった。だがもう一度、加藤兵庫之助に会わねばならぬとの思いがどうしても捨てられなかったのだ。

 道々、大勢の人間が殺されていた。どれも犯人は見つかってはいなかったが、死体の切り口を見た三郎にはすぐに分かった。古縁流の斬撃。それ以外ではあり得なかった。それらの惨劇はまるで三郎を誘うかのように、あるいは揶揄うかのように点々と繋がっていた。

 最後に加藤兵庫之助が目撃されたのは山深いところにある小さな旅籠だった。そこを境に兵庫之助の足取りはふっつりと消えていた。


 安旅籠の亭主は何も知らぬまま三郎に戦国大太刀板打家盛を見せた。

「これがそのお侍様が残していった刀でさあ。も少し経って戻って来なかったら、売って宿賃の足しにしようかと思いましてな」

 そこまで喋ってから亭主はぷうっとタバコの煙を吐く。

「お侍さま。これはいかほどの価値がありましょうかの?」

 その場で亭主を殺すのは思いとどまって、立ち上がりながら三郎はさも興味がなさそうに答えた。

「間違いなく千金の価値ある宝だと思う」


 その夜、旅籠の亭主により大事に仕舞われていたその刀を三郎は盗みだした。



 加藤は恐らく山越えをしたのだ。そう三郎は考えた。

 関所を通らず山を越えようとする者は多い。山岳修験者などの山の民も尾根を辿って移動する。その人々の間に平地の民が溶け込むのは難しいが、それでも全くできぬというわけでもない。

 三郎は何かに呼ばれるかのように、山の奥へ奥へと分け入った。

 だが加藤の足跡はそこでぷっつりと途絶えていた。いかに聞き込みを行おうが、加藤と思われる男の話はどこにもなかった。

 もしや加藤は死んだのではないか。三郎の胸に悪い予感が満ちた。


 三郎は途中の村々で食を請い、先へ進んだ。村の人々は三郎がどこへ行こうとしているのかを知り、慌てて止めた。

「お侍さま。この先に行っちゃなんね。ここの山には魔物が出るでな」

「魔物?」

「人食いの化け物でさあ。白い大きな何かという話で、山に入った者が何人もやられていますだ」

 そう忠告してくれるのは一人二人でもなく、また一つ二つの村の話でもなかった。三郎が訪れた村々のほとんどがその化け物の被害を受けていた。大勢の人間が山に踏み込んでそのまま帰ってこない。藩より捕り手がやって来て山狩りをしたが、そのいずれもが帰ってこない。今では誰もが怖がって山には近寄らない仕儀となっていた。

「わかった。では俺がそいつを退治してやろう」

 もう加藤には会えないのだと予感して以来、何もかも捨て鉢になっていた三郎は気安く請け負った。もとよりこの旅は仇討ちが目的であり、化け物退治なんかやる余裕はそもないはずなのだが、それでも三郎は山深くへ入ることにした。

 そんな三郎を止めることもできぬとみると、村人は食い物を分けてくれた後に三郎を送り出してくれた。

 あわよくば自分たちの悩みの種をこのお侍が片付けてくれるやもしれぬ。うまくいかなくても化け物の腹を一人分膨らませることができて、村人の犠牲が減るのではないか。そんな下心も透けて見えた。

 戦国大太刀板打家盛を背中に括り付けたまま、三郎は山へと足を踏み入れた。


 それが一週間前のこととなる。

 その直後から山は狂ったような吹雪に閉ざされた。

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