過去と明日

(“黒真珠”は事実上解散。“貝”は砕け散った。我がろくでもなき祖国も元に戻ることはあるまい)


 ジェイク王直轄領、アゲートで一人茶を啜る老婆。ただお婆と呼ばれている元“黒真珠”の頭領は僅かな寂寥を感じていた。


 “黒真珠”の女達は繋がりを保っていたが、デイジーのように新たな生き方を見つけた者も多数存在しており、それぞれが新たな人生を歩んでいた。それに加えパール王国において大きな混乱が起こることは誰の目から見ても明らかで、油断はしていないが現実的に追っ手のことを心配しなくていい状況となっているため、かつてのパール王国の粛清機構“黒真珠”は名実ともに終焉を迎えかけていた。


(小娘達と違って割り切るには長く国に仕えすぎたの)


 若く張りがあった手がしわだらけになる期間、パール王国の暗部に所属していたお婆だ。リリー達“黒真珠”の元構成員がパール王国との精神的な関わりを断とうとも、お婆はそう簡単に割り切れるものではなかった。


(“貝”か……あれほどの人員を抱えていた組織は歴史上そうあるまい。それが最盛期に等しかっただろうに、こうもあっけなく)


 お婆は“貝”のことがはっきりと嫌いだった。臍出しが集まっていた“黒真珠”に比べ、“貝”の構成員はほぼ通常のパール王国人だったため、同じ暗部で国に仕えているのに、“黒真珠は”下に見られることも差別されることも日常茶飯事だった。


 しかし、その技量については疑っていなかった。


 通常は貴族かその血に連なる者。もしくは飛び抜けた才能がある者に発現するのがスキルだ。つまり戦闘や暗闘に特化したスキル所持者が数多く所属していた裏の組織“貝”は、歴史上でも有数の戦闘集団と言っていい。


 アゲートで【傾城】の毒蛇に敗れた者達だって、複数人がスキル所持者だったのだから、尋常なことではない。


 だが貝殻は砕け散った。


 直接、もしくは間接的にサンストーン王家に連なる三兄弟が関わっている。


 直接は【戦神】レオの手により。


 間接的にはリリーに託したジェイクにより。


 そしてもう一つ。ジュリアスだが……これはある人物も関わっている。


(しかし……フランクが?)


 その人物の顔を思い出しながらお婆が独白する。【悪婦】、【毒婦】、【妖婦】すら最後の最後に尻尾を掴んだだけ。世界を騙し押し付けられた理不尽を押し付け逝った男、フランクを。


 物的証拠は残っていなかったが、高確率で彼とフランクが繋がっていたこと。そして恐らくパール王国の混乱に関わっていることを、お婆はリリーを経由して知った。


(全く一致せん。卑屈で権威に媚びる。それがあの男のはず。あれが全て演技だったと? いや、裏の世界に身を置いておいて何を今更。それに我々“黒真珠”もベッドで似たようなもの。しかし……それでも一晩ではなく二十年? 三十年?

まさか……まさかとは思うが子供の時から? 裏から足を洗えてよかったかもしれんの)


 何十年もフランクを知っているつもりだったお婆は、その全てが演技だったのかと僅かに震える。


 ただ、全ては推測だ。繋がっていたジュリアスも、フランクを最重要の協力者だとみなしていたため関わりを示す決定的な証拠を残していなかった。


 そして勿論、同胞をパール王国から逃すためのフランクの企みもまた、彼の内に秘められていた。


「お婆、いるかい?」


「うん? なんじゃデイジーか」


 フランクがほぼ推測しかできない、裏の存在として理想像に近いことに慄いていたお婆だが、元部下であるデイジーがやって来たので出迎えた。


「二日酔いの薬かの? ちょっと待っとれ」


 お婆は酒場を営んでいるデイジーの用件が酒飲みのお守りだと思い、薬師として商品を取りに行こうとした。


「いや、それがねえ……なんというか」


「なんじゃ歯切れが悪い」


 それを押しとどめたデイジーは、歯切れが悪く何かを言い淀んでいるようだ。


 しかし、意を決したのか自分のお腹をつんつんと指で押し始めて口を開いた。


「どうも子供ができたんじゃないかと思って」


「ぶっ!?」


 デイジーによる突然の発表に、腹でも下したかと思ったお婆は唾が飛び出しそうになる。


「まあ、多分、ほぼ、恐らく間違いないとは思うけど」


「自分で診断できたら儂はいらんじゃろうが」


「いや、旦那に知らせる踏ん切りが欲しいというか。うん」


 デイジーは普段のはきはきした口調ではなく、どこか照れたような表情で曖昧な言葉を続ける。諜報員として男を手玉に取ってきたが、まともな恋愛ができる環境ではなかった彼女だ。自分が妊娠した可能性に素直に喜びを表すことはなかったが、それでも頬の端がひくひくと動いていた。


「かー! 普段の強気はどうした!」


「い、いいから診ておくれよ」


 奇声を発するお婆だが、デイジーも自分らしくないのは分かっているようで、顔を逸らして催促する。


「仕方ないのう」

(妊娠など女諜報員失格じゃが、元女諜報員には関係あるまい。最早“黒真珠”は過去。これでいいんじゃろう)


 渋々な表情をするお婆の心は先程までの昔を向いていたものとは違う。


 誰もが前を向いている訳ではなく、昔を懐かしむ時だってある。


「妊娠が確定したら旦那にちゃんと伝えるんじゃぞ」


「そ、それくらい分かってるって!」


 だが、昔を振り返ろうと、人は必ず明日へ歩を進めるのだ。


 それは歴史の闇に消える定めの者達も変わらなかった。

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