翻るアゲートの旗

  エバンの、炊事の煙が上がっていなかったが、サファイア王国軍は飯を食っていたか? と言う質問だが、誰もその光景を見ていない。


 それはそうだろう。サファイア王国軍は兵糧が尽きていたのだから、そもそも食べるものが無かった。


「なぜ兵糧が無い!」


「軍が分かれた時、本陣にいた補給の担当官から、すぐに後から送られると説明されただろうが!」


「答えになっていないぞ! それならなぜ無い!」


「来てないからだよ!」


 ハリソンは叫びながら乗り込んできたゲーンズに怒鳴り返す。


 彼らにとって現状は完全に予想外だった。軍が分けられる際、補給や兵站を司る者達から、必要な物資は後ですぐに送ると説明されていた。それなのにこの三日間、荷馬車どころか人間さえもやって来ず、朝は誰も食事をしていない有様だ。


「よくよく考えたらすぐ送るのすぐとはいつだ!? なぜ確認しなかった!」


「そう言うお前はいつだと思ってたんだ! 確認したか!? してないだろう! 普通は兵糧が尽きる前だと思うだろうが!」


「ライアン殿下に指揮を任されたのはお前だ! 兵糧の管理を怠るとは厳罰ものだな!」


「そちらの都合の悪い時だけ指揮させてくれて感謝の極みですなあ! 私の軍は私が管理すると言って、物資の管理から何もかも、全部突っぱねたことをお忘れのようだ! 言った以上は全部管理していたはずなのに、なぜ兵糧が尽きたのですかな!?」


 顔を真っ赤にして食ってかかるゲーンズに、ハリソンも負けず劣らずで、言葉は丁寧だが血管が切れそうなほど大声で反論する。


 確かにハリソンが指揮を任されていたが、ゲーンズは非協力的どころか意思疎通を全く行わなかった。そのためこの両者は、お互いどの程度の兵糧を所持していて、それをどれだけ消費しているか把握していなかった。


 そして二人とも、兵糧がすぐに来るものだと思っていたので全く節約せず、信じられないことに気が付けば兵糧が底をついていたのだ。


(略奪……いや駄目だ。今の兵数でギリギリ包囲しているのに、この上更に略奪に兵を回せば、各個撃破される可能性がある。それに……)


 ゲーンズとハリソンの脳裏に、村を襲って略奪する選択肢が浮かんだが、それもすぐに打ち消す。ただでさえ砦を囲めば勝てる前提で組まれた少ない兵力なのに、略奪を行うためこれ以上兵を割いては、下手をすれば各個撃破される可能性があった。


 そしてもう一つ。。


(ここはライアン殿下が来られる上に、占領統治の予定を組まれていたのだ。予定にない略奪をすれば、不興を買う恐れがある)


 彼らを更に縛っているのは、この地にライアンがやって来て、占領統治のための拠点を作る予定だったことだ。勿論その予定は、砦をすんなり落として辺り一帯を無傷で占領する前提で組まれており、何もかも奪って予定を台無しにすれば、不興を買うことは避けられない。出世にも間違いなく響く。そう彼らは考えた。


「それで結局いつ補給は来るんだ! 勿論今日だろうな!?」


「そんなことは当たり前だ!」


 またしても信じられない口論が交わされた。既に物資が尽きて補給もやって来なかったのに、今日は必ず来ると、無根拠に断言したのだ。


「分かったら持ち場に戻れ!」


「言われずとも!」


 そしてハリソンはゲーンズを追い出し、両者とも苛々としながら物資の到着を待った。


 何も来なかった。


 ◆


「いくらなんでもおかしい!」


「どうなっているんだ!?」


 包囲から四日目。丸一日何も食べることが出来なかったゲーンズとハリソンは絶叫した。


 家でなにもせず寝転がっている状況ならまだしも、ここは戦地で風雨だってある。何より敵は籠っているとはいえ、末端の兵はいつ攻撃命令が下されて、命を落とすか分からない恐怖に怯えているのだ。そんな状況で丸一日何も食べることが出来なかったら、平静でいられる筈がない。


「様子を確認してくるのだ!」


 あっという間に、軍の士気がどん底になったことを感じ取ったゲーンズ達は、配下の騎士に命令して、兵糧を乗せて来ている馬車の様子を確認してくるよう命じた。


 そう。


 このタイミングでも彼らは、兵糧が満載された荷馬車がやって来ていると思い込んでいた。


(お、おかしい!?)


 馬を走らせた騎士は、進めども進めども見つからない荷馬車に焦りを覚えながら、ついに夜になってしまった。そして夜間に馬を走らせるのはあまりにも危険なため、日が昇るまで待つことにした。


(なぜなぜなぜなぜ!?)


 その次の日、砦の包囲は五日目、食料が尽きて三日目。


 騎士の頭は、ただひたすら“なぜ”と言う単語で埋め尽くされていた。


 この日……馬車はどこにもいなかった。


 さらに次の日。砦の包囲は六日目、食料が尽きて四日目。


(ほ、ほ、本軍にまでやって来てしまった……)


 太陽が頂点に位置する頃、騎士は空腹に悩まされながら、ライアン・サファイア率いる軍までやって来てしまった。


(き、きっと、きっと荷馬車が、もう、出発しようとしている、きっと、それなら間に合う。きっと)


 それは騎士の妄想だ。荷馬車の足の遅さを考えると、戦場にたどり着く頃にはもうなにもかも手遅れだ。


 しかし……現実はもっと非常だった。


「ハ、ハリソン子爵閣下の騎士である。な、なぜ、なぜ補給が来ない……」


「え? 変だな……書類の記載ではちゃんと送られてますよ?」


「ば、馬鹿な……馬鹿な……どこにもいなかったぞ。そ、それなら、それならもう一度送ってくれ……」


「それは無理ですよ。本軍を維持する分しかないんですから。うん、やっぱり全部送られてます。そうじゃないと今ある備蓄の少なさを説明できません」


「そ、そ……」


「だ、大丈夫ですか!?」


 送る分の備蓄などどこにもないと、担当官に告げられた騎士は、そのまま意識を失い倒れてしまった。


 なお悪いことが起きた。


「ライアン殿下。ハリソン子爵の騎士が到着したようですが、どこか無理をしたのか意識を失ったようです」


「ああ、それなら砦を落とした報告だろう。待たせるのも悪い。いい加減我々も動くとしよう。騎士は起こさず後ろの街に運んでおけ。なに、私の気遣いならハリソン子爵も怒りはすまい」


 中途半端に騎士がやって来た報告がライアンの元まで伝わり、それを砦を落とした報告と誤認したのだ。


 これによってライアン率いる兵数千ほどの本軍が、ゲーンズ子爵とハリソン子爵が出迎える予定の、砦まで向かうことになった。


 つまり……本軍が移動して、一時的に行方不明になった。


「そ、そんな……」


 同じように補給の問い合わせをしようと、遅れて各戦線から派遣されてきた騎士達が見たのは、本軍がいた筈の、何もない草原だった。


「こ、こっちか!」


 なんとか行軍の後を見つけた彼らは本軍の後を追ったが、これでまた時間をロスしてしまう。


 歴史の闇に埋もれることだったが、サファイア王国の兵站は書類と実数に大きな差があった。それは中抜きや不正で消えていたり、些細な数の間違い、伝達ミスが恐ろしい程頻繁に起こり、書類上はある筈の物が存在しない事態になったのだ。


 それでも兵站の担当者の極一部が、戦地に送る物資が足りないことに気が付いた。しかし、それは誰かが指摘することで、自分が叱責されるのはごめんだと黙り込んだり、責任問題になることを恐れて書類上は物資を送っていることにしたのだ。


 歴史を見ればわかる。人は決定的な破滅が訪れるまで、何とか誤魔化せると思い込む生物なのだ……ただ単に、サファイア王国軍では、なぜかそれが起こりやすかっただけの話である。


 楽観論、不正、ミス、責任感とモラルの消失、報告連絡相談の欠如。


 そしてなにより当初の計画に対する固執で引き起こされた。


「な、なんだこれは!?」


 ライアン率いる本軍が、ゲーンズ子爵とハリソン子爵と合流したのは、砦が包囲されて十日……戦場で食料が尽きて八日経過していた。


 しかし、飢餓地獄が訪れていた訳ではない。兵数が少なかったため、軍馬を潰してなんとか食い繋いでいた。


 これで士気がほぼ皆無になった。


「おい。まさか兵糧が無いのか!?」


「そんな馬鹿な!」


「でも馬を食べてるんだぞ!?


 どんなに田舎の農村から連れてこられた兵でも、財産と言える馬を潰して食べているのだから、他の食料が皆無な状況だという事くらい分かる。そのため、軍全体に兵糧が全くないのではと恐怖が広がった。


 これでもまだいい方だ。


「うええ。馬とかどうやって肉にするんだよ」


「暑い……」


「おいこの切り分けた肉、いつからここにあったんだ? まあいいか」


 軍馬を殺して食べたはいいが、処理に手間取り管理が雑で、しかも戦地という清潔とは程遠い環境だったのだ。その上、これくらいなら食べられるだろうと、生焼けや汚れた肉を食べる者も多かった。


「おげえええええええ!?」


「み、水を……誰か」


 結果、食中毒が発生してしまい、まともに戦える者が少ないという、飢餓に悩まされた方がマシな事態を招いた。


 だが、止めだったのは子爵達の焦りだ。


「予定ではとっくに落としてるはずなんだぞ!」


 ライアンの戦争計画を全く達成できていない、、ゲーンズとハリソンは大いに焦り、最後の過ちを決定した。


「総員攻撃! なんとしてでも砦を落とすのだ!」


 兵力が足りていなかろうが、軍の士気が崩壊していようが、まともに戦える者が少なかろうが、そんなことは関係ない。決められていた予定が達成できなければ、子爵達は貴族として終わるのだ。


「む、無理だ!」

「お前が前に行け!」

「ぎゃああああああ!?」

「おげえええ!?」

「ひいいいいい!?」


 それ故、計画を正そうと軍に攻撃を命令したが、上手くいくはずがない。無事でも腰が引けた兵士たちが、お前が前に行けと押し付け合い、高熱で意識がもうろうな兵は倒れ、ところ構わず嘔吐する兵ばかりなのだ。砦からの反撃をまともにくらい、ただひたすら無駄に被害を増やしてしまった。


「こ、これでは、これでは……」


 ゲーンズとハリソンは、お互いを罵りあう気力さえなかった。元は千五百の兵がいようと、心が折れ、病人と重傷者ばかりで、最早それは軍でなかった。


「なんなのだこのざまは!」


 そこへやって来たのがライアンである。


 彼は砦が落ちているどころか、半死半生になっている理由を問いただそうと、ゲーンズとハリソンの元へ向かおうとした。


 それどころではなくなったが。


「殿下! 向こうに軍勢が!」


「なに!?」


 青天の霹靂。ある筈がないことが起こってしまった。砦の奥側、サンストーン王国領から、軍勢がやって来たのだ。


「サンストーン王国に援軍を出す動きも、余力もない筈だ!」


 ライアンの言葉は正しい。今のサンストーン王国にそんなことは出来ない。


 だからこれはサンストーン王国軍ではない。


「信なき国家は獣だ。獣をアゲートに近づける訳にはいかない。必ずここで殺す」


 どれだけ弱っていようが、信頼のないサファイア王国が相手なのだ。条約での和平が信じきれないのなら、兵を削って物理的に軍事作戦が出来ないようにするしかない。


 その必殺の覚悟と信念を宿した目が戦場を睨みつける。


 スライム情報網で、サファイア王国軍の状況を把握していた彼は、ライアン率いる本軍の千人がほぼ無傷で残っていること以外に、完全に足手纏いで混乱しきっているゲーンズとハリソン軍のことも把握していた。


 そして、立て直せない程、完全に士気が崩壊した大勢が後ろに下がればどうなるかも知っている。彼の下の兄、ジュリアスがそれを証明していた。


 今しかなかった。ゲーンズとハリソンの軍を下げられない今しか。


 翻る旗は、白、灰、青、黄、緑、黒、褐色など、様々な色が混じった混沌のアゲート石を表す。


「突撃!」


「おおおおおおおおおおおおお!」


 ジェイク・アゲート大公率いる軍、総数二千が、どうしようもないほど混乱しきったサファイア王国軍に突撃した。

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