平穏の時代から準備期間へ

「ジェイク様……論功行賞の場でなにもないどころか直ぐに帰れだなんて……」


 時刻は夜。必要最小限の物しかなく、王子の天幕としては非常に物寂しい中で、寝具に横になっているジェイクに、女性の姿に戻ったリリーが耳元でそう囁く。彼女の内に渦巻く不満は、血生臭い事件が起こった直ぐ後、一応まだ論功行賞の場であったのに、アーロン王がジェイクに報いる言葉を掛けるどころか、王都へ帰れと命じたことだ。


「別に俺はいいんだけど、リリーとイザベラには報いてあげたかった」


「ジェイク様」


「うん?」


 ジェイクが自分を軽んじるようなことを言い出したので、リリーというこの世で最も恐ろしい毒蛇がしゅるりと彼の体に絡みつき、猫のように夜でも光る黄色い瞳で見つめる。


「前に僕のことなんて言ってくれました?」


 リリーが普段は封じている女としての自分を全開にする。肌から発する匂いのみならずその吐息まで甘く、目はさらに妖しく光り、肌はジェイクに吸い付くようで、蠱惑の概念が可視化されて桃色に漂っているかのようだった。それこそが真なる美しさで人を狂わす天然の【傾国】ではなく、どこまでも甘く狂おしく、そして人を惑わす人工の滴る毒【傾城】としてのリリーの姿だ。もし常人が天幕に入ると、それだけで正気を失ってしまうだろう。


「えーっと、俺の専属の踊り子、俺の妻、俺の女だね」


 だがそれを、単に愛する女の一面だと素直に受け入れるジェイク。


「はい。僕はジェイク様専属の踊り子で、ジェイク様の妻で、ジェイク様の女です。だから報いることが必要な関係じゃありません」


「男のメンツ的な問題が……でもありがとうねリリー」


「えへへ」


 ジェイクは毒花ではなく清らかな白い花のように笑うリリーを抱きしめ、彼女は照れたようにはにかんだ。


(リリーさん……恐ろしい子……)


 そのやりとりを人間には持ちえない超感覚で感知していたイザベラが、天幕の前を守りながら、意図してあざとさと無垢さを使い分けられるリリーに慄いていた。


 ◆


 そしてようやくジェイク達は王都に、自分達の家に帰ってくることが出来た。


「ジェイク!」


「ただいまむごごごごご!?」


 ジェイクが自分の屋敷に入ると早速レイラに出迎えられるが、一瞬で彼女に包み込まれ埋まってしまった。


「どこも怪我しとらんな!? 大丈夫やな!?」


 その埋もれているジェイクをエヴリンが入念に確認する。そこにアマラ程不遜ではないが、ふてぶてしい余裕を湛えている奸婦の姿はなく、ただ帰ってきた男の無事を必死で確認する女がいた。


「ぶはっ!? ちょと待って! 俺臭うぶぶぶぶ!?」


「ああジェイク……」


「んなこと言うとる場合かアホぉ」


 ジェイクは王子の身分だったため、どこでも一定の水を供給できる水の魔石という便利な物を使用出来たため、戦陣で水浴びは行えずとも体を拭くことが出来た。しかしそれでも、長旅で体が汚れて臭うと訴えてレイラから逃れようとするが、彼女は聞く耳持たず再びジェイクを自分の体に埋めた。そしてエヴリンもジェイクの後ろから抱き着いたため、彼は2人の女性に完全に埋まって、いつものように窒息しながら、手だけがその隙間からバタバタと暴れていた。


「ふんっ若いな」


「嫉妬ね」


「馬鹿を言え」


 それを見たアマラが鼻を鳴らし、妹のソフィーに図星を突かれた。アマラは厳しいようで意外とジェイクを甘やかしたいのだ。しかし彼女にも体面というものがあり、真っ先にジェイクを抱きしめるのは小娘に譲ったという訳だ。


「そう言うお前はどうなのだ」


「私は後からじっくり味わうタイプだから」


「言っていろ」


 アマラからの問いに、あまり表情が動かない男装の麗人、ソフィーの頬がニヤリと吊り上がる。男性のように短い髪の彼女だが、ジェイクに対する女としての執着心はこの場の誰にも負けていなかった。


(僕達はたっぷりジェイク様を堪能しましたから)


(これ以上は強欲ですね)


 一方で、その様子を離れてニコニコと見ていたリリーとイザベラだが、彼女達は数か月間交互に共寝をしていたため余裕の態度だった。


 とにかく、レイラとエヴリン以外は一歩下がったところにいたのだが……。


「ぷはっ。レオ兄上との一件聞いてる?」


「多少は」


 なんとか顔を出したジェイクの問いにレイラが頷いた。


「俺あの後考えたんだ。レオ兄上に王命について諫めたときは腹括ってたけど、よくよく考えたら俺も変わんないから言う資格ないんだよね。レオ兄上が王命より勝つことが大事だと思った様に、俺も王命より皆といる事が大事だからさ。そういう訳で、もしもの時は第三王子ジェイクじゃなくて、皆の男ジェイクを優先します」


 レオとの一件以来ジェイクは考えた。自分には王命以上のものがあるか。あった。それが自分を愛してくれたレイラ、エヴリン、リリー、イザベラ、アマラ、ソフィーだった。無能なジェイクは考える必要ないと、特に葛藤することなく自分の心に正直になった。そしてジェイクは、普段は第三王子だが、どちらかを選択しないといけない際は、彼女達を選ぶと宣言したのだ。


「ジェイク!」


「言うたな! 忘れへんで!」


「ぶもももも!?」


 宣言した瞬間、再びレイラとエヴリンに押しつぶされた。


 いや、2人だけではない。


「ジェイク様ジェイク様ジェイク様」


「ああ我が君ぃ……!」


 余裕ぶっていたリリーは団子になっている3人の隙間に入り込んで、ジェイクに自分の匂いを移すように頭を擦り付け、イザベラはジェイクの助けを求めるように動いている手を掴むと、自分の胸元で抱きしめた。


「ええいどけ!」


「どいて」


 アマラとソフィーが完全に女に埋まってしまったジェイクを助けようと。


「妾達にも触れさせろ!」


「酒池肉林の感想は?」


「ぐももも!?」


 したのではなく、双子姉妹は双子姉妹でジェイクを埋めてしまった。


『おほほほほ! 生き残れるといいですわねえ!』


 【無能】が高笑いする。


 まだギリギリ平穏だった時代の、男と女達の一幕であった。







 ◆


「事が起こるとしたら王都でだ。何があってもいいようにある程度食い込んでおけ。だが、最終的にはジェイクに付いて辺境に行くんだ。いつでも切り離せる様にな」


 アマラが告げる。


 まだギリギリ平穏の時代であり、そして混沌に備える準備期間だった。








あとがき


仕事があったとはいえたったこれだけ書くのに丸一日かかるとは……小説って難しい。


そして


まさかまだ実質プロローグとはお釈迦様でも思っていなかったでしょう。

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