最終話 どうして

  弥太郎とジェームズが高度な政治的駆け引きをしている。この間、躁鬱病を患ったように直弼はきょろきょろとせわしなく町を見ていた。

 直弼はこの航海で自分の無能さを痛感していた。計画を考えた自分は何も具体的な行動が出来なかった。弥太郎と香が船の手配をし、安全な航海方法を考え出してくれた。ナーが町民のことを調べ、食糧を段取りし、皆の士気を高めてくれた。大将であるはずの自分だけが何もしないまま船に乗り、日本人町から格好よく旅立つことができた。

 青年は出航するまでの間、自分にできることは無いかと必死に考えていた。だが、弥太郎やナーからすれば赤子同然の知能と胆力しか持ち合わせていないこの青年では、彼らより先回りして機転を利かすことなど不可能だった。

 直弼はせめて航海中は大将らしく堂々としようと思った。ナーが大将のふりをしてくれてはいるが、自分が本当の大将なのだから。だが、敵襲を知らせる法螺貝の音だけで気が動転した。そして、目の前で大好きな人が乗る大型船が蹂躙された。恐らく意中の人は死んだ。直弼のパニックは頂点に達した。直弼は突如、涙や汗、尿が出てきた。体中の穴という穴から水分が出てその場に腰を落としていた。

 「なんと自分は情けないのか。何とか立って皆の指揮を執らねば。」

 思いはするも身体は指先ですら1寸も動かせなかった。目の前で弥太郎と香が冷静にその場に立っていられることが不思議でならなかった。永遠とも思えたパニック状態から戻って来れたのは、イギリス人と弥太郎が話し始めてからだ。

 弥太郎と香が場を繕い、カルカッタに着いた。生きて大地を踏むことが出来たのは全て弥太郎と香のおかげだ。またしても、自分は何も出来なかったと打ちひしがれているところに、カルカッタの素晴らしい街並みが嫌というほど眼に入ってくる。

 「あー、自分は本当にちっぽけな存在だったんだな」

 直弼は心の中でこの言葉を繰り返していた。そして、体はどんどん重くなり暑さを感じ始めた。カルカッタはマラッカとほぼ同じ緯度にある。故に、生えている植物や照りつける太陽の強さ、空の青さは変わらない。だが、弥太郎が言ったとおり、街のコンクリートやレンガが太陽の熱を吸収しているカルカッタは故郷の日本人町より暑かった。

 

 海軍の敷地に到着してからも直弼は異様な暑さを感じた。建物が熱を持っていたし風通しも日本家屋より悪かった。直弼は汗が止まらなくなり、その場で倒れたり熱中症だと皆思い、この世話のかかる大将を涼しい寝室に運んでやった。

 直弼が休んでいる間、弥太郎と香はジェームズと夕食を囲んでいた。長いテーブルに椅子が15脚もある。長いテーブルの短辺中央にジェームズが座り、右脇の椅子に弥太郎、左脇に香が座った。

 それぞれの目の前の大きな皿にはソースがかかった焼かれた肉が乗っていた。小さめの皿が2つあり、1つにパン、もう1つの皿にはバターが置かれていた。

 オランダ商人の家に招かれたことがある香はテーブルの端に置かれているナイフやフォークを上手に使い肉を切った。弥太郎も香の真似をし、ぎこちなく肉を切り、口に運んだ。

 

「君たちはどうしてあんな無能な君主に仕えているんだ。」

 ジェームズは悪気なく聞いてきた。君たち2人は優秀だから、何か特別の事情や身分制度があるのかを聞きたかったのだ。ジェームズは君たちはとても頭が良いから、と付け加えようとする前に

「無能ではありません!優しいが故に主君とすれば頼りなく映るかも知れませんが、平和なマラッカの町には民を思うああいう方が主君に相応しいのです。」

 香は言った。弥太郎が話すよりも速く答えてしまった。通訳失格だ。ふと冷静になりぺこりと頭を下げ弥太郎に眼をやった。弥太郎はこの香の言動に少し驚いたが、冷静にフォローする。

 「通訳士の香が申し上げたとおり、あの方は民を思う気持ちが強い方です。私も香も明日食うものに困るほど貧乏でした。小汚い私たちを直弼様は今のような立派な身分まで取り立ててくださいました。男性や女性、日本人と異国人、これらのことで差別しない多様性を重んじる方です。余り手厳しい評価をしないでいただけると幸いです。」

 香は少し気不味そうにうつむき加減で弥太郎の言葉を通訳し、ジェームズに話した。

 「そうか。すまなかった。」

 ジェームズは少し笑って頷いた。




 直弼は自分の体が異様に熱くなっていくのを感じた。初めはただの熱中症かと思った。しかし、今では熱いだけでなくリンパ腺まで痛くなってきた。

 食事を終えた弥太郎たちが戻ってきた。顔色が悪く、リンパ腺が腫れ上がっている直弼を見て香は驚いた。すぐにジェームズに状況を伝えに行った。ジェームズは先程はすまないことを言ったと反省していた手前、すぐに軍医を手配してくれた。

 軍医は直弼の体温を測りリンパ腺に手をやった。その後、慣れた手付きで直弼の服を脱がし診察しようとした。

 直弼の身体中に黒い斑点があった。

 弥太郎は目を細め、香は空いた口を手で覆った。

 「ペストですね。」

 医者はポツリと冷たい声で言った。

 「ペスト?」

 香は聞き返す。

 「ペストとはかつて我が国で広まった病です。かかったら最後、助かった者はおりません。ペストが流行った数100年前、英国の人口は半分になりました。治療法は見つからず国民は絶望に打ちひしがれていました。50年間猛威を振るった流行病は次第に治まっていきました。しかし、流行していないだけで、今でも国民の20人に1人がこのペストで毎年亡くなっています。地方では悪魔が下す呪いの病だと畏怖されています。」


 ペスト。高熱や皮下出血が生じる。この皮下出血が黒ずんで見えることから、「黒死病」とも言われ恐れられた。十分な効果を発揮する治療方法は見つからなかったり

 ノミやヒトを媒介にして感染するこの病はヨーロッパ全土に広まった。あっという間にヨーロッパの人口を⅓にまで減らした。ヨーロッパの人たちは何世代にも渡ってペストに対する免疫を獲得し、やがてペストは少しづつ終息していった。

 ヨーロッパは大航海時代に入り、香辛料を求め世界に旅立っていく。スペインやインド、アメリカに上陸し現地の王国と争うこともあった。友好関係を築けそうなときもあった。

 しかし、争おうが友好関係を結ぼうが現地のスペイン人やインド人、アメリカ人はほとんどペストで死んでしまった。

 免疫学がまだ発達していないこの時代、ヨーロッパ人は無事なのに自分たちだけが病気になることを現地の人たちは恐れた。

 自分たちはヨーロッパの人たちと同じ神を信じれば助かるのではないかと藁にも縋る思いでそれまでの土着の信仰を捨て、キリスト教に改宗した。これらが理由で、キリスト教が地球全土に広まったのだから、感染症は神の使いというのも一理あるかもしれない。

 

 もちろん、ペストなんて言葉を聞くのは弥太郎も香も初めてだった。

 「直弼殿はどうなるんですか?」

 弥太郎は唇の震えを精一杯抑えながら医者に聞いた。この初めて見る恐ろしい病に驚きを隠しきれなかった。

 「この人の黒い斑点は10日程で身体全身に広がります。そして、絶命します。」

 香は通訳出来ず、その場で泣き崩れた。香は妹分のナーが死んだときからギリギリの精神状態だった。もう限界だった。

 この香のリアクションで弥太郎は理解した。

 直弼は3人の様子を見て自分が死ぬことを悟った。香と弥太郎が泣いている。2人の泣き声を聞くのは初めてだな。と朦朧とする意識の中で思った。目の前には6尺を超えるイギリス人が立っている。

「どうしてこうなってしまったのだろうか。」

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鎖国をしていない江戸時代で、イギリスとの貿易を試みた井伊直弼 ckanbac @ckanbac

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