最終話 血眼

 鍵を掛けて家を出たはずなのに、帰って来て鍵を開けたはずなのに、回したドアノブは固定されて動かなくなりました。それで嫌な予感というよりは、ほとんど確信に近いかたちで私の家に恋人がいるのだとわかり、そうしたらさっきまで無機質だったこのドアの奥から息づかいのような気配がしてくるのでした。


 そういえば一週間ほど前、私はキーケースを恋人の家に忘れたことに随分と時間が経ってから気づきました。慌てて取りに戻るとそれは位置も向きもすべて私が置いた時と寸分たがわずそのまま置いてありました。細心の注意を払っていたつもりでしたが、私は恋人に完璧にあざむかれてしまいました。私はどうしようと焦り頭の中にあれこれと思考がめぐりましたが、何一つとして明確な考えは浮かばなかったので、身体の中で一つだけ小分けにした息をふっと吐いてから、もう一度鍵を回し直しました。


 扉を開けると乾いた血を瑞々しい水性の香水で溶かした香りがしました。それはどちらもそれぞれで覚えのある匂いでしたが、混ぜ合わさって全く新たらしい別の香りになり、私の部屋ではないような気がしたました。


 玄関には綺麗に手入れされた黒革のローファーが線対称にもたれ合っていました。私は動悸がし、足も震えてもたつきながら靴を脱いでその隣に並べました。1Kのキッチンと浴室に挟まれた細い廊下の先には恋人の頼りない背中が覗いていました。


 部屋には押し入れに隠してあったはずのこれまで描いてきた肖像画が一枚一枚部屋を取り囲むように並べられていて、中心に力なくへたり込んでいる恋人をみんなして赤い瞳で見つめていました。カーテンも締め切られ、電気も消えていて、死人達の視線だけが交差したその空間は、窓のない尋問室のような息苦しさが充満していました。その中で彼女は一枚の絵を見ていました。それは私が初めて描いた肖像画、私の最初の作品でした。


「おかえり」


「どうして秋羅がここにいるの?」


私の質問には答えませんでした。


「ねぇこれは何なの、これは・・・私?私の肖像画?でもちょっと違う。私によく似ている人。ねぇ聖君、教えて。この人は誰、この血で描かれた絵はどういうことなの?」


 最初に描いた肖像画のモデルは母でした。私がはじめて血を流したあの日を境にして、だんだんと母からのぼうりょくは日常的なものになっていき、その内容もエスカレートしていきました。母は私が「男」だということがひどく気に入らないようでした。母をずっと苦しめ、虐げ続けてきた男達、男という性そのものに対して母は憎しみを覚えているようでした。


 だから母は私に女の子の名前を名付け、小さかった私に女として振る舞うように強いたのだと思います。私は母の期待に応えようと手の届く範囲で女の子になりきろうとしました。髪を伸ばして括り、母のお気に入りの白いワンピースを着て、真っ赤なランドセルを背負い学校に通いました。学校でどんなにばかにされようが、いじめられようがなんともありませんでした。


 しかし、私にしがみついてくる匂いは身体の中から発されるもので、石鹸で何度洗い流そうとしてもとれませんでした。その匂いは薄まるどころか歳を重ねるごとにきつくなっていき、母をごまかすことも難しくなっていきました。毎日のように繰り返されるぼうりょくはもちろん痛かったけれど、不思議なもので少しずつ慣れていきました。だけど、結局のところ私は男にしかなりえませんでしたし、私は私以外の誰かになり変わることも、慣れることも、やり直すことすらもできなったのです。


 そして、私は母からのぼうりょくが度を越して、殺されてしまう前に母をアパートの階段からそっと突き落としました。躊躇いさえなくなれば人を殺すのは想像していたよりもずっと容易いことでした。悲しくも、嬉しくもなく、ただ頭から放射状に広がっていく血染みが花火のように鮮やかで綺麗だと思ったことをよく覚えています。


「テレビでたまに話題になっている連続殺人犯いるでしょ。あれ私なんだよ。その絵の女は君じゃない。君によく似ているけれど、それは私の母だよ。小さい頃、私が殺してその血で描いたんだ。他の絵もみんなそう、私がこれまで殺してきた人たちだよ。ごめんね秋羅、でもこれでわかっただろう。私は人を殺してもなんとも思わない不良品なんだよ」


 秋羅はちがう、そんなことない、そんなはずない。と私に向けてではなく、自分に言い聞かせるように唱え続けていました。その姿は私自身を見ているようで哀れな気持ちになりました。私はこんなことなら男になんか生まれてきたくはなかった。私は人を殺すことに喜びを感じるような人間にはなりたくはなかった。私は誰にも認められなかった。自分自身にすらも。


 だけど私は私を否定し続けることにとっくに疲れ果てていて、それが一生ついてまわったらと考え出したら逃げ道もなくて、そしていつか私が私でなくなるような気がして怖かったのです。


 私は全てを知られてしまった今、もう彼女を殺すしかないと思いました。幾人もの名も知らぬ人々、死ぬ間際に男の名前を呼び続けてきた女子大生、そして自分の母親ですらも私はこれまで手にかけてきたのだから、今までと何一つ変わらないはずでした。私はきっと秋羅のことだって躊躇いなく殺すことができる壊れた人間なのだから。


 呆然としている彼女の瞳からはつぎつぎと涙がこぼれては落ちていきました。それは私がもう一度見たいと願ったはずの涙でした。私が鼻血を流して、秋羅は涙を流して、何かが重なって、ああなんだか暖かいと感じたあの涙と同じものを彼女は流しているのに、そうではない別のものに見えました。色はなく無色透明なのに、だけど、とても悲しい色をしてる気がしました。


 ちょうど良いタイミングでまた僕の中で燻っていたあの熱が巡るのを感じます。身体が熱を帯びてきて、溜まってきたものがふつふつと滾ってふきこぼれ、溢れ出しそうになっているのがわかります。今までやってきたことと同じようにその熱に身を任せれば良いだけです。私は彼女を押し倒して腹の上に馬乗りになりました。秋羅は驚くほど軽くて簡単に転がり、抵抗することはありませんでした。二人で愛し合った夜のように私に身体をあずけていました。


「私のこともこれから殺すの?」


 秋羅は涙を流しながらも、やさしい瞳で私の顔を見続けていました。その瞳には私からもはっきりと見えるほど、私の姿が写りこんでいました。秋羅は決して目をそらすことなく血に取り憑かれた、限りなく濃い赤となって、黒と見分けのつかなくなった、私の血眼を覗き込んでいました。


「うん、これから殺して、その血で絵を描いてあげるよ」


「それはどうして、私のことが憎いから?それとも聖君がまだ死にたくないから?そんなんじゃないよね」


 秋羅は馬鹿だ。殺されるとわかっていながら、なぜこの絵を見つけた時すぐに逃げ出して、警察に行かなかったのでしょうか。そうすればあなたは死ぬ必要なんてなく、私がそのうち代わりに殺されただけなのに。そんな簡単なことが何でできないのでしょうか。


「よく、わからない。でも私は血がみたいんだ」


「私の血もみてみたいと思うの?」


 私は秋羅のことがずっとわかりませんでした。どうして彼女は毎晩のようにあのバーで私のことを待ち続けていて、私のつまらない話に耳を傾けてくれて、あの夜私を迎え入れてくれて、そして恋人になって、多忙な仕事の合間を縫って私と夜ご飯を食べたり映画をみたり、一緒に美術館にいったりして、私がどんな絵を描くのか知りたがり、自分を描いて欲しいと願い、私のために笑ったり、泣いたりして、その時々の秋羅の顔を私ははっきりと思い出せるのに、どうしてそんなに楽しそうな目をするのか少しもわからなかったのです。


「それもわからないの?そう、でもやっと私の絵を描いてくれるんだ。だけど、その絵を私はみることはできないんだね」


 彼女は悲しそうに泣きながら、嬉しそうに笑って見せました。彼女の発した言葉とは裏腹に、身体と声は小刻みに恐怖で震えていました。当たり前です、誰だって死ぬのは怖い。恐怖は簡単に人を支配するのだと私はよく知っています。それを彼女は必死で隠そうとしていました。


「私わ、私、はわからない。全然わか、らない。どうして?聖君のこと、が大好きなのに、何を考えているのか、わかないの、何も」

 彼女は震えながら言葉を紡ぎました。


「わかるわけないだろう。私は出来損ないの不良品で人殺しだ。言ったでしょう。わかりたいだなんて思っちゃダメだって。どうせ無駄なんだから諦めろって忠告したでしょう。君みたいな人にはわかるわけない」


 私は秋羅の首を両手で力一杯、強く抱きしめるように締め上げました。秋羅の首に私の指がのめり込んでいき、彼女の顔が歪み、充血して真っ赤に染まっていきます。もうすぐ死ぬ。あと少し、もう少し。私の顔も熱くなってきて、自分の中に沸き立ち巡るものがどんどん迫り上がってくる感じがします。私は興奮しているのでしょうか、そもそも私が人を殺す時に感じてきたこの感情は本当に興奮なのでしょうか。改めて真正面から見るとやはり秋羅の顔は母によく似ています。初めて血を流した日に見た光景と同じように、私は母に良く似た、私の恋人、秋羅に馬乗りになっています。それを小さな私が襖の陰からまた覗いています。ものすごく怖い。怖いのに目を離すことができない。


「ごめん、ね、聖君。わかって、あ、げられ、なくて」


 秋羅は最後の力でそう言葉を絞り出すと、笑いました。笑って、両手で私を包み込んで抱きしめて、そしてすぐに力なく伸びて動かなくなりました。私は秋羅が死んでからも手を離すことができずにいました。あと少しでもう少しで秋羅に手が届きそうな気がしたのです。


 私はまだ襖からそれを見ていて、でもだんだんぼやけて見えなくなっていきます。私の中に沸き立ち巡っていたものがついに耐えきれず、あふれだして、こぼれだして、ながれだして、とまらない。ぜんぜんとまってくれない。


 とめどなく瞳から流れ出るのはもちろん涙だとわかっているのに、それが何者なのか私にはわかりません、透明すぎて。私が取り憑かれていたのは血のそのなによりも赤い色。血液から涙は作られるのだと涙を流しながら秋羅は教えてくれたことを思い出していました。たしか涙と血は全然違う色なのにほとんど同じ成分でできた液体のはずでした。


 事切れた秋羅から血は流れでていませんでした。だけど彼女の身体の中にはたくさんの血がもう流れてはいなくても、まだとどまっています。秋羅という入れ物の中には絵を描くのに十分な血液が入っているはずです。


 私はせめて秋羅の絵を描いて、彼女の願いを叶えてあげたいと思いました。けれど彼女の肖像画を描くには血が必要だとわかっていても、僕はもう彼女の身体にナイフを通して傷つける気にはどうしてもなれませんでした。彼女の死体は傷一つなく真っ白で、嘘みたいに綺麗で、私にできることは何もありませんでした。彼女の頬にはまだ涙の跡が残っていて、僕のか彼女のかどちらかはわからないけれど、それは紛れもなく同じ涙でした。


 僕は押入れから手付かずのキャンバスと絵筆を取り出して、秋羅の横に並べました。まだ自分の目からは涙が止まることなく流れ続けていました。こんなに自分の中に涙が入っているなんて信じられませんが、秋羅が最後に言ってくれた言葉を、見せてくれた笑顔を考えれば考えるほど、涙はいくらだって流れてくる気がしました。涙ならこの先いくらだって用意できそうな気がします。僕という入れ物の中には涙がいっぱい満ち満ちています。これを使えばもう血なんて必要ないではないか。


 顎から滴り落ち続ける涙を筆にとると、血でする時と同じようにだんだんと筆先がほぐれていきます。


 そして、そっと白いキャンバスに筆を滑らせ、僕は必死で描こうとする。秋羅が最後にみせてくれた笑顔を描こうとする。忘れないように忘れないように、また何度でも思い出せるように、描こうとするのに、涙は透明な跡を残すだけで、しばらくすると涙はキャンバスの上からも、彼女の頬からも乾いて消えていた。

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「血眼」 波手無 妙? @miyou1008

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