【短編】結婚前夜に捨てられて、脳を破壊されたアラサーちゃんが好き

夏目くちびる

第1話

 高嶺の花というのは、要するに高嶺に咲いている花のことだ。



 ……いや、待てと。



 きっと、「お前は、いきなり何を言っているんだ?」と。「つーか、小泉構文なんてもう流行ってねぇぞ?」と。



 そう、思っただろう。



 でも、待ってくれ。説明をさせて欲しい。



 つまり、俺が言いたいのは『高嶺に咲いている花は、得てして誰にも摘まれないモノである』ということだ。



 ……その仕組みは単純で。



 誰にも手が届かないんだから、そのままみんなに見上げられて褒められて、いつの間にかひっそりと枯れていくって話。



 だって、そうだろ?



 近いところにも、たくさん花が咲いているんだから。大抵のヤツは、手元だったりしゃがんだりして、その中から気に入った花を摘むに決まってる。



 高いところは、危ないしな。



 それでも、中には取りに行くような変な奴が居たり、同じくらい優れた奴が居たりするだろうと思うかもしれない。



 ただ、この言葉の『高嶺』とは相対的なモノだ。コンクールみたいに、指標に基づいて決められる美しさではない。



 つまり、同じ高さにいる奴はいないし、よっぽどの変人でなければ、コミュニティ内でその花を手に入れようとは思わないのだ。



 おまけに、苦労して手に入れたからと言って、よくよく見るとあまり気に入らないなんて事もあるだろう。



 そういう苦労を考えれば、高嶺の花を狙わないのは、至極当然の選択であると言えるんじゃないでしょうか。



 だから、俺はみんなが言ってるほど、高嶺の花はモテるワケじゃないって思ってるのさ。



 ……ところで、なぜ俺はこんな話をしたか、という話だが。



 もちろん、所属しているコミュニティに、高嶺の花が咲いたからに他ならない。



「よろしくお願いします」



 彼女を初めて見たときの俺はと言うと。



「すげぇ美人が入ってきたな」



 小学生並みの感想を、友人のタツオと影で言い合うに留まっていた。男子的に、年上の女は美人は魅力的に見えて仕方ない生き物なのである。



「でも、なんか幸薄そう」



 彼女の名前はルリさん。役割は、配達ではなくピザメイク。



 長い黒髪、長いまつげ、薄い唇に、目元のホクロと眼鏡。



 黒いセーター、飾り気のない香り。元気のない表情、ハスキーで低く、小さい声。



 それらが醸し出す、微かで陰鬱な雰囲気。ならば、誰だって薄幸を疑うハズだ。



 本来、美人ってのは自信に溢れてるモノだからな。



「めちゃくちゃ細いし、ちゃんと食ってんのかね」


「知らん。つーか、28歳っしょ? なんで、ピザ屋でバイトするワケ? 主婦の小遣い稼ぎ?」


「偶然、聞いたんだけど。どうやら、未婚らしいぞ」


「なら、フツーは普通の会社で働いたりするだろ。事務員とかさ」


「つまり、普通じゃないんじゃないか?」


「……もしかして、触らん方がいいのかね」


「分からん」



 中堅大学に通う、フツーの大学生の俺とタツオは、そう結論付けて配達へ向かった。



 ……事態が動き出したのは、それから一ヶ月後の新人歓迎会。



 新学期シーズンという事もあり、多くの新人バイトが採用されたから、それに伴って陽キャのカンさんが企画したのだ。



 既に、会は佳境。



 ある程度の親睦を深め、二次会に行くだの行かないだのなんて話も、ちらほら聞こえてくる。



「ルリさん、向こう行かないんですか?」



 ……はっきり言って、彼女が来たのは意外だった。



 カンさんに頼まれたから、夕方まで一緒に働いていた俺が誘ったのだが。かなり迷った上で、静かに首を縦に振ったのだ。



 しかし、ルリさんは静かにビールを舐めて、周りの話に儚く笑うだけ。



 俺の提案を断るのが申し訳ない的な。ここに来たのは、そういう理由だったのかもしれない。



「うん、ちょっと疲れちゃった」


「そうですか」



 別に、ずっと孤立していたワケじゃない。主婦のおばちゃんと仲良く話していたし、年下の女の子から相談を受けていたりもした。



 ただ、周囲のボルテージが上がってしまった今、ポツンと置いてけぼりにされてしまった、という様子だ。



「そういうサナ君は、向こうに行かないの?」



 何だか、申し訳無さそうに呟くルリさん。



 なぜ、彼女が俺をあだ名で呼んだのか。それは、よく分からなかった。



「まぁ、ルリさんを誘ったのはの俺ですし。一人だと、なんか可哀想じゃないですか」


「……そっか」



 すると、ルリさんは一口だけビールを飲んで、薄い唇を開いた。



「サナ君は、彼女いる?」



 随分と、唐突な質問だった。9つ離れた俺の為に、世代を選ばない話題を選んだのだろうか。



「いないですね、この前フラれました」


「え、フラれちゃったの?」


「はい、なんか浮気されちゃって。元々、いい噂は聞かない子でしたけど、事実を突き付けられると割とキツかったですね。はは」



 自分の情けなさに思わず笑うと、ルリさんは目を丸くして俺を見た。



「……ルリさんに見つめられると、結構照れるんですけど」



 女遊びが好きなカンさんも、彼女は美人過ぎて狙う気にならないと言っただけある。



 近くで見ると、怖いくらい綺麗だ。



「どうして、その子と付き合ったの?」


「どうしてって、そうですね」



 頭を捻って、一呼吸。



「話してみると、言われてるほど悪い奴だとは思えなかったとか。意外と、かわいい顔して笑うとか。そんな感じですかね」



 改めて考えてみると、大した理由はなかった。



 あの時は、凄く好きだったんだけど。まぁ、所謂運命の相手ではなかった、ということなんだろう。



「サナ君、そういう切ない事でも明るく話すんだね」


「まぁ、せめてネタにしないとやってられないっていうか。終わったモノだと自分に言い聞かせる為にも、誰かに説明する必要があるっていうか」



 そう、別に俺の性格は明るくはない。むしろ、どちらかと言えば根暗だし。



 ただ、その場に立ち止るのがイヤなだけ。ケジメを付けて、次へ行きたいのだ。



「……すごく、強いね」



 それは、妙に俺を羨むような表情だった。



 まるで、遠くに咲く花を見るような――。



「はい、二次会行く人〜」



 何を言うべきか考えていると、盛り上がってる向こうのグループが会のまとめに入り、タツオがこっちへやって来た。



「サナ、お前どうする? 今日は、みんな参加するみたいだぞ」



 振り返り、ルリさんを見る。



「俺はいい、ルリさんを送ってく」


「そうか、んじゃ伝えておくよ」



 普段なら、酒に弱い後輩のジュンヤをダシに使うのだが、今日はいないからその代わりに彼女を利用することにした。



 多分、タツオも分かってる。だから、無理に誘ってきたりしないのだ。



「どうせ、次なんて行かないですよね」


「う、うん」



 それから、20分くらいでお開きになって、仲見世通りでみんなと別れて。俺は、チャリンコを取りに行くためにルリさんと駅前まで歩いていた。



「さっきの話」



 口を開いたのは、俺だ。



「なに?」


「ルリさんも、彼氏にフラレたんですか?」



 聞かない方が、よかっただろうか。しかし、どうにもあの表情の正体が気になって、興味がデリカシーの先を行ってしまった。



「……うん」


「そりゃ、残念ですね」


「……うん」



 何かを言おうとしてくれてるんだろうけど、どうしても言葉にならないらしい。



 ただ、俺はそれが、たった一杯のビールのせいだとは思えなかった。



「何か、辛い事でもあったんですか?」



 別に、なんてことのない言葉だったハズだ。だから、俺は前を向いたまま、何の気も無しに聞いたのだが。



 どうやら、彼女にとっては、そう安く聞こえる言葉では無かったらしい。



「あれ、大丈夫ですか?」



 隣に居ないことに気が付いて、後ろを振り返ると、彼女は静かに泣いていた。



「……うん」



 どう見ても、大丈夫じゃない。硬い氷が溶けたように、冷たくて寂しい涙だ。



「俺、なんか悪いこと言っちゃいましたかね」


「うぅん、そうじゃないよ」



 どうにかしてあげたかったが、あいにく俺は、理由を聞き出す理由を持ち合わせていない。



 だから。



「じゃあ、一緒にいっぱい泣きましょうか」


「……へ?」



 俺は、そこから戻らずに、駅前の店を指さした。



「実を言うと、俺も全然吹っ切れてないんですよ。だから、愚痴を言い合って泣きましょう」



 なんて、情けない言葉なんだろうか。



 しかし、俺は彼女に「凄い」と言われて、そのまま凄い自分を見せ続けようとする事が、どうしても出来なかったのだ。



「フラれると、相手の気持ちを考えたり、自分の原因を探って納得しようとするじゃないですか」


「うん」


「でも、何だかんだ言ってやっぱりムカつくじゃないですか。裏切られたって、頭にクるじゃないですか」


「……えへへ、そうだね」


「だから、悪口大会しましょう。それで、スッキリ帰って、お互い何を聞いたのか忘れるんです。いい話ですよね?」


「うん、凄くいいと思うよ」



 そんなワケで、俺たちは二人で二次会をすることになった。



 ……とはいえ。



「マジで悔しいです、俺は真剣だったのに」



 そう簡単に、悩みを打ち明ける事は出来ないようだ。ルリさんは、時々シャンディガフの入ったグラスに口をつけ、静かに俺を見ている。



 一方、俺は。



「つーか、元カノとはいえ好きだったんだから、他人から悪く言われりゃムカつくんですよね。知りもしないで悪女呼ばわりって、そりゃ俺だって怒りますよ」



 元カノの愚痴に続いて、元カノの悪口を言う奴らへの愚痴を言っていたのだった。



「いや、モモカにもムカついてますよ? 人の話全然聞かないし、不機嫌になると音信不通になるし、そのくせ放っておくとキレるし。マジで、クソ面倒くて、おまけに最後は浮気ですからね。信じられませんよ」



 思わず、名前を出してしまった。



「うん」


「でも、面倒な子ほどかわいいっていうか。教師って、マジメな奴より不良の方がずっと覚えてるって言うじゃないですか。多分、そういう感覚に似てると思うんですよね」


「サナ君って、ダメ女製造機って感じだね」


「いや、俺の場合はダメ女に引っ掛かるバカ男って感じだと思いますよ。チョロいんです、ホントに」


「ふふ、そっか」



 勘違いしないで欲しいのだが、俺だって同世代の友人にはこんなに素直に自分の話なんて出来ない。



 ただ、ルリさんはきっと、俺よりもずっと辛い目にあったんじゃないかって。幸せじゃない気持ちを、正面から受け止めてるんじゃないかって。



 だから、モモカの悪口を言わないでくれるんじゃないかって。



 そう思ったんだ。



「……悪口、ヤだよね」


「まぁ、ジャイアニズムってヤツなんじゃないでしょうか」


「私も、そうなんだ。相談すると、みんなあの人の悪口言うから」



 とはいえ、ようやく自分の意見を言ってくれたのだから、そろそろ俺がルリさんの話を聞いてもいいハズだ。



「へぇ、何があったんですか?」



 聞くと、シャンディガフを一口飲み。



「結婚前夜に、捨てられちゃったの」



 氷が、カランと鳴った。



「私、あんまり友達とか多くなくて。いつも、一人でいたから。優しくされると、疑うこととか出来なくて」



 グラスで口元を隠し、斜め下を見ながら呟くように喋るルリさん。



「ある日、ご飯屋さんで相席になった人だったんだけど。凄く優しかったから、つい連絡先を交換しちゃったの」


「それで?」


「なんだか、毎日連絡するなんて新鮮だったから、嬉しくって。いい人だなって思った時、彼に好きだって言われて。付き合うことになったの」



 中々、運命的な出会いだと思った。でも、相席するご飯屋さんって何だろ。ラーメン屋?



「付き合ってるうちに、彼がお金に困ってる事を知って。私、なんとか助けてあげたいなって。だから……」



 その先は、言わなくてもわかった。



「どうして、別れたんですか?」


「彼、他にたくさん付き合ってる女の子がいて。貸してくれるお金の金額で、私たちを使ってレースしてたんだって」



 ……何とも、胸クソの悪い話だ。



「じゃあ、一番貢いだ人が彼と?」


「それは、分からない。でも、結婚する予定の前日に打ち明けられて。泣いてる私を置いて、出ていっちゃった」



 前言撤回。



 俺は、一つ賢くなった。どうやら、世の中には他人が関係に口を出していい悪者もいるらしい。



「私、それで会社を辞めたの。彼氏なんて初めてだったから、つい嬉しくって、上司や同期の子にも言っちゃってたし。結婚式挙げたら、呼びたいなんて舞い上がって」



 低い声のトーンが、更に一つ落ちた。



「それが、本当に恥ずかしくて。もう、誰とも会いたくなくなっちゃったから」


「気持ちは、分かりますよ」


「きっと、本当は前から分かってたの。何だか、私の事を見てないなって。女の子からの電話も、凄く多かったし。時々、私の名前を間違えたんだもん。本当に、酷いよね」


「俺も、心当たりありますね。それ」



 一瞬、ルリさんは微笑んだ。



 名前を間違えられるの、あるあるだからな。



「でも、何も言えなかった。最後に一緒に居てくれたらって、ずっと願ってたの」



 その気持ちも、よく分かってしまう。



 俺たちの、なんと無力な事か。



「……それから、実家に帰って。でも、一回引きこもったら、もうお家から出られなくなっちゃって。両親は、ゆっくりでいいって言ってくれるけど。私、もう人と会いたくないなって」



 そして、涙が一筋だけ流れた。



「気が付いたら、3年も経ってた」



 泣いたのは、俺だ。



「本当に、全部が嫌になっちゃって。毎日、ずっと泣いてた」


「……はい」



 釣られたのか、ルリさんも泣き出してしまった。



 きっと、今この瞬間、世界で一番情けない二人だな。



「泣くなんて、バカみたいなのに。バカみたいに泣く事しか出来ないから、そのたびに自分を嫌いになって。そんな時、お父さんが病気になっちゃったの」



 返す言葉が、見つからない。



「だから、このままじゃいけないなって。少し、遅かったかもしれないけど。アルバイトくらいはやって、私はもう大丈夫だって安心させてあげたかったの」



 そして、彼女はここにいるのだ。



 ……しかし、何ということだ。



 これだけ、彼女が酷い目にあったというのに。相手は、恨まれてブチ殺されても文句の言えない、救いようのないクズなのに。 



 俺は。



「でもね。私にとっては、たった一回の恋だったの。最低で最悪な人でも、本当に大好きだったの」



 彼女がその男の悪口を嫌う理由に、どうしようもなく納得してしまった。



「……やっぱり、私ってダメだね」



 そう言ってから、ルリさんは「えへへ」と弱く笑った。



 ……まぁ、結論から言えば、この弱っちい笑顔が俺を惚れさせる決定的な要因となったワケだが。



「サナ君も、気を付けようね」



 俺は、忘れていない。モモカと初めて二人で遊んだ時も。



 ――あたし、みんなに嫌われちゃってるんだ。



 俺って、マジでチョロいんだなぁ。



「まぁ、あれですよね。うん」


「あれって?」


「あれってのは、ほら。DVとかされると、被害者の女は次の男相手に暴力的になるっていう」


「うん」


「だから、ルリさんは次に付き合う男には、死ぬほど尽くさせるんですかね。みたいな」



 これ、例えとして最悪だな。なんかもうちょっと、いいのがあったろ。



「……ふふ、そうなのかなぁ」


「そうです。だから、次は奴隷根性が育ってる男を探した方がいいですよ」


「サナ君みたいな?」



 その時の表情は、とても印象的だった。



 涙で潤んだ目と、酒に染まった頬で、何とも言えない色があって。



 そして、長い前髪がハラリと流れて、少し開いた唇に咥えてしまったのが、俺に急な酒を飲ませた。



 何かで誤魔化さなければ、妙な気を起こしていたかもしれないからだ。



「へ、へへ。そうですよ。あ、ルリさんのお代わりも頼みましょうか? 肩でも揉みましょうかね? なんちって」



 適当に誤魔化したって、どうしようもない。きっと、俺の顔は真っ赤で茹でタコみたいになっているだろう。



「もう、飲めないよ。肩も、凝るほど働いてない」


「そ、そうですよね。はは」



 みっともない。



「じゃあ、帰りましょうか」


「うん、帰ろ」



 やっぱり、枯れて落ちても、高嶺の花か。



 ……その花びらが、なにかの間違いで、下にいる俺の手の中に落ちてくればいいのに。



 × × ×



 半年後の、とある日曜日。



 ルリさんは、以前よりシフトを一日増やしていた。どうやら、精神が少しずつ回復してきているようだ。



「おはようございます」


「おはよ、サナ君」



 そんな彼女に、俺はというと。



「配達、行ってきます」


「いってらっしゃい」



 特に、何もしていなかった。



 ……まぁ、当然と言えば当然だ。



 だって、ルリさんは高嶺の花なんだから、たった一つくらい彼女のコンプレックスを知ったからと言って、馴れ馴れしく近寄ることなんて出来ない。



 むしろ、過去を知ってしまった事によって、前よりも触れ辛くなってしまったというか。



 ルリさんにとって、男という生き物がどれだけ恐ろしいかを、容易に想像出来てしまうというか。



 そんな中で、彼女が俺だけを特別視して、結果的にトラウマから目を背けさせることになるだなんて。これから先の未来を想像すれば、あまりにも残酷過ぎる気がして。



 だから、俺は未だに、その花びらが手の中に落ちてくるのを待っているだけに留まっていた。



「……ふぅ」



 そんなわけで、俺は配達用のジャイロを運転しながら、「よく居るラブコメの主人公って、マジで利己的なサイコパスなんだな」なんて事を考えていた。



 だって、そうだろ?



 ヒロインの社会復帰を臨んでいるならば、きっと俺と同じような対応をするだろうから。



 鬱病を治すのは、誰かじゃなくて自分だって、それ一番言われてるし。



 ……いや、考え過ぎか。



「いってきました、いってきます」



 そんな感じで。



 俺は店に戻るなり、すぐに用意してあるピザを持って、休む間もなく配達を繰り返した。



 今日は、シフトに入っているメンバーが少ない。



 おまけに、エリアの地図が全て頭に入っているのは俺だけだから、必然的に俺の仕事量は増えてしまうのだ。



 まぁ、運転は好きだし、別にいいけど。



「お疲れさまでした」



 キャップを頭から外したのは、22時を回った頃だ。



 ルリさんや主婦のおばさんや、高校生の子たちはとっくに仕事を上がっていて、いつの間にかベテランの兄さんばかり。



「うぃー」



 退勤の挨拶に返ってくるのは、死ぬほどやる気のない野太い声だけ。野郎だらけだとやりやすいけど、心做しかピザもコッテリして見えてくる。



 女の人と違って、男のピザは適当だからな。



 チーズの量も、デフォでマシマシなのだ。



「ちかれた」



 ……そんな、帰り道での事だった。



「サナ君」



 夜道をチャリンコを押して歩く俺に、声を掛けてきた女の人がいた。



 本当に、突然だ。



「あれ、お疲れさまです。ルリさん」



 しかし、この辺りの夜道は暗くて良くないな。せっかくの美人も、拝むことが出来ない。



「今、あがったの?」


「はい。えっと、どうしたんですか? ルリさんの家は、この辺なんですか?」


「うん、すぐそこ。近いから、あの店を選んだんだよ」



 言われてみれば、当たり前だ。アルバイトは、社会復帰の足がけだからな。



 ……あれ。



 なら、どうして、この前は駅までついてきたんだろう。



「買い物ですか?」


「うん、アイス食べたくて。あと、お酒も」



 彼女は、湯上がりなのだろうか。やや湿った髪の毛からは、尋常ではなくいいシャンプーの香りがした。



「そうですか、偶然ですね」


「うん、偶然」



 ……その言葉の裏腹を、察せられないほど俺は鈍感ではない。



 彼女は、きっと俺を待っていたのだろう。



「どこに買いに行くんですか?」


「駅前のスーパー、あそこが安いから」


「なら、付き合いますよ。夜、危ないですし」



 跨いでいたチャリンコの隣に立ち、俺はルリさんを見た。



「そっか、ありがと」



 瞬間、雲間から覗く月明かりが、彼女の顔を照らした。



 それは、白く残酷な光だった。



「……どうしたんですか。その顔」



 ルリさんの顔には、泣き腫らした後と、殴られたような痣がついていた。目の上も膨れていて、確かな熱を持っている。



「えへへ」


「どうしたんですかって、聞いてるんですよ」



 すると、一瞬だけ黙って。



「……あの人に、会ってきたの。連絡が来たから」



 果たして、今の何気ない言葉を言うために、彼女はどれだけの勇気を持ってここに立っているのだろうか。



 俺には、想像もつかなかった。



「なんで、そんな危険なことを」


「ケジメを、付けたかったの。ようやく、前に進む理由を見つけたから」


「理由?」


「うん。それを言ったら、凄く怒り狂っちゃって。二度と、誰にも会えなくなるツラにしてやるって」



 呟いて、隣に立つルリさん。その肩は、微かに震えている。



 ……こういう時に、俺は奴隷根性による賜物である、自分の直感を恨んでしまう。



 ルリさんが風呂で洗い流したモノ、それは――。



「警察は?」


「さっき、終わったよ。目立たない場所だったけど、外だったから。偶然、通報してくれた人がいたの」



 俺は、彼女に何を言うのが正解なのだろう。時系列に順序だった感情が、怒りで立ち止まって安心にまで辿り着いてくれない。



「サナ君」



 きっと、そんな俺を察したのだろう。ルリさんは、トンと俺の肩に頭を置いて、静かに言った。



「最近、私のこと避けてたでしょ」


「……いや、そんなことないですよ」


「その方が、私はこの傷よりもずっと痛かったよ」



 急激に、頭に上った血が引いていき、すり替わった罪悪感が、俺をキツく締め付けていった。



「あ、いや」


「ふふ、冗談。でも、辛かったのはホントだよ」



 こういう時に、尽くすタイプは本領を発揮するんだと思う。相手の喜ぶ方法に気が付くということは、逆もまた然りだからだ。



 その点において、ルリさんは俺の数歩先をいっているらしい。



 俺の冷静さを、取り戻させるくらいだからな。



「すいません。でも、マジで避けてたワケじゃないんですよ。俺、ルリさんはそっとしておいた方がいいと思って」


「分かってる。だから、私は今日、ケジメを付けにいけたんだもん。これも、君のおかげ」



 ならば、その傷の原因は俺なんじゃないだろうか。



 一層、心臓をキツく締め上げられてしまった。苦しくて、泣いちゃいそうだ。



「あ、あれ」



 しかし、ルリさんはそっちの悪意は無かったようで、俺の表情を見て。



「ち、違うよ? そういう意味じゃないよ? ほ、本当に。私、サナ君に感謝してるって話で。えっと……」



 気高い姿から、急にシドロモドロになってしまった。



「ごめんね? 私、バカだから。あの、そうじゃなくて……」



 もう、メチャクチャだ。俺が、どうにかするしかない。



 とりあえず、深呼吸だ。



「……ふぅ」



 冷静になろう。やらなければいけないことは、分かってる。



 ルリさんが、俺に話したいこと。それを、一つずつ、正確に導いて、俺が彼女に聞いてあげないと。



「もう一回、確認しますけど。その人は、もう逮捕されてるんですよね?」


「うん」


「なら、そっちは警察に任せましょう。ひとまず、無事でよかったです」


「うん」



 しかし、町中で毒牙に掛けるだなんて、かなりクレイジーな奴だ。他の女の人との関係で追い詰められて、精神が狂っていたのかもしれない。



 再度、会いたがった理由も、もしかしたら金だったのかもしれない。



 無論、俺が考える事ではないけど。



「次に、ケジメってなんですか? ルリさんは、立ち上がってアルバイトを始めてるじゃないですか」


「それが、本当の復帰なんかじゃないってこと。サナ君も、よく分かってるでしょ?」



 図星だが、しかし全てと決別する必要もないのが世の中だとも思う。目を逸して、そのまま離れたって一つの正解だと思う。



 ……ただ。



 そうやって忘れられる人は、きっと精神を病んだりしない。



 悲劇を正面から受け止めるから、打ちのめされて心が折れてしまうのだ。



 だから、何かで決着を付けなければ前に進めないのだ。



「なら、どうやって付けたんですか?」


「『さよなら』って、言いに行ったの。だって、あの人は私を置いていったんだもん。終わらせなきゃ、始められないから」



 思っていたよりも、彼女はずっと不器用な人だ。



「ルリさんは、恋を終わらせに行ったんですね」 


「うん」



 かっこいい。素直に、そう思った。



「ならば、見つけた『進む理由』は新しい恋ですか」


「うん」



 妬けるが、高嶺の花の彼女が、自分と釣り合う人と出会えたのは幸運だ。



「なら、お金が必要ですね。シフトを増やすのも、納得です」


「サナ君って、ちょっと合理的過ぎるかも」


「そうですかね」


「普通の子は、冷たいって思っちゃうんじゃないかな」


「でも、女の人の磨けるだけ自分の美を磨く姿勢、俺は嫌いじゃないんです。男にはない感覚ですし、綺麗なモノは見てるこっちも気持ちいいですから」


「……そうじゃないよ」



 そうじゃないなら、何だというのか。イマイチ、俺は彼女の本懐が掴めずにいた。



 しかし、俺の疑問など知ったとことではない。尽くす側は、最後まで相手の納得を追い求めるのが役割だから。



「その顔の傷と――」



 きっと、貫かれ、洗い流した汚れ。



「新しい人は、癒やしてくれそうですか?」


「……うん」


「そうですか。なら、よかったです。アルバイトは、続けられそうですか?」


「うん、明日もシフト入ってる」


「男が怖かったり、しませんか?」


「するよ、今も怖い。でも、警察の人が言ってたの。早いうちに人と関わって、トラウマにならないようにするのがいいって」


「だから、買い物に行くんですね」



 トラウマを克服する方法に、早くから同じケースを経験して慣れさせるモノがあると、心理学の講義で聞いた気がする。



 ……あれ、宇宙兄弟だったっけか。



 まぁ、どっちでもいいけど。多分、それを実行しているのだろう。



「なら、協力しますよ。明日っからも、その次からも」


「……うん」


「まぁ、あの店の中にそこまで悪い奴っていませんし。変なちょっかいかける男も、いないとは思いますけどね」



 そこまで言って、俺はようやく違和感に気が付いた。



 相手の男って、誰だ?



「……サナ君って、自分が誰かに好かれることなんてないって、そう思ってるでしょ」



 瞬間、彼女が俺に頭を預けている理由を考えた。



「だから、少しでも優しくしてくれる人を好きになって、尽くしてあげたくなっちゃうの」



 行き当たった答えの、矛盾を探る事は出来ない。



「君と同じ、本当にチョロいんだよ。私って」



 彼女の理由は、俺なのか?



「でも、なんでですか? だって、別に何もしてないじゃないですか」


「私が働き始めて、最初に挨拶してくれたのはサナ君だった。ピザの作り方、教えてくれたのもサナ君」



 肩が、少しだけ重くなった。



「毎日、目を見て『行ってきます』って言うのも。飲み会に、誘ってくれたのも。クレームの電話、代わってくれたのも。忙しくて、テンパって間違えた時も。上手く喋れなくて、場を落ち着かせてくれたのも。全部、全部、いつだって。助けてくれたのは、必ずサナ君だった」



 緊張で、ハンドルを握る手の汗が酷い。



「それら全てを、『何でもない』って。その言葉だけで、君がどれだけモモカちゃんに尽くしていたのかが分かる」



 ――だから、あたしなんかに惚れるんだよ。



 一瞬だけ、モモカと重なって見えた。



「私にとって、サナ君は、誰よりかっこよかった。だから、好きになったの」



 なんてことだ。



 高嶺の花は、



 そして、ルリさんとモモカこそが、花に手を伸ばす『よっぽどの変人』だったのだ。



「でも、私みたいなおばさんじゃ、絶対に釣り合わない。君の献身と若さには、私が得られなかった時間と愛情には、それだけの価値があるんだよ」



 すると、ゆっくりと離れ。



「だから、この恋も終わらせて欲しい。汚れた私を、拒んで遠ざけて欲しい。そうしてくれれば、きっと今度こそ、私は前に進めると思うから」



 ルリさんは、儚い微笑みで泣いた。



 ……けれど、俺は絶対に、そんな結末にさせない。



「自分で言ってて、分かりませんか?」


「……?」


「あなたが、俺を痛いくらい理解しているのと同じように。俺も、あなたを理解しているんです」


「それ、どういう意味?」



 全く、俺たちは仕方のない連中だ。



 相手が喜ぶ理由に、自分の存在を含められないのだから。



「俺は、あなたより前から、あなたの事が好きでしたよ」



 再び、雲が月を隠した。



 道は、真っ暗だ。



「……ダメだよ、私はダメ」



 拒否される事は、分かっていた。



 だって、俺たちがすることは、きっと誰が相手だとしても、嬉しいことだって錯覚しているんだから。



 自分じゃなくてもって、そう感じてしまうのだから。



「そんなことないですよ、俺は本気です」



 彼女は黙ってしまったが、しかし今度は、どうすればいいのかが分かった。



 こんな時、一番喜ぶ言葉を知っていたから。



「ルリさんがいなくちゃ、生きていけないです。俺、一人で何も出来ませんから」


「……うそつき」



 そして、俺は真っ暗闇の中で、流れた彼女の涙を拭ったのだった。



 皮肉なことだが、汚れこそが、俺の手のひらに花びらを落としたのだ。

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