23話 タバコの煙は未だ天には昇らず

 俺を残して彼女はこの世界から帰った。

俺はキュウテンの言葉に何も返さず止まったまま、怖じ気づいたまま動けない。


恐怖を感じたのは『鳥居』が出てきた後だった。


瞳は閉じているはずのキュウテンから、こちらへ生温いぐねぐねした蒸気のような殺意と目が合った気がした。


気のせいだと思ったときには、キュウテンの瞳孔は開かれており、こちらを穢れた家畜でも見たような瞳を覗かせていた。


視線で殺される。

溶けて、ミンチにされると肌で感じとった。


体温が冷たく溶けていく。

熱がしだいに身体から落ちていく。


息をのむ。

門を見据える。


門までは、あと五メートル。

走れば二秒もかからないだろう。


けれど、遠い。

遠く、遠く、遠く。


キュウテンの方が近くに感じる。


「やはり、つまらぬモノだな」


途端、キュウテンから殺気が消える。

門が近くなってキュウテンが遠くなった気がした。


「ここまでして、尾も出さぬとは…期待外れじゃ」


キュウテンは目を伏せ。

二度と俺を見たくないのか、くるりと後ろを向く。


「…童には忘れモノがある。帰った後に淺水に聞くがよい。……さっさと行かぬか。もう用はない」


忘れモノ?

よく理解しないまま小さく頷いて、『鳥居』に走る。


赤い門は異質な雰囲気を放っているものの、神社でよく見る鳥居と違う箇所はほとんど無かった。


『鳥居』をくぐる。

門の光は俺を包んで、意識ごと上へ連れていく感覚に襲われる。


それは、どこかで感じた、海底から浮上していく感覚に似ていた。




       *   *   *



「門の前で一礼も無しか。無礼ここに極まるな。──やはり、殺しておくべきだったかのぅ」


徹がくぐった後、一瞬で『鳥居』は霧散した。

伴い、化合していく存在と在り方。


『鳥居』の純度はもはやに等しかった。


それは、能力の劣化。

存在規模スケールの退化。


混線による事象の格納。

深部から外郭への負担と歪み。


「じゃが、、殺してはならないとシれたのは大いな対価じゃった」


狐は主から預かったキセルを取り出す。

一息いれたい調子だった。


不味いが構わない。

吸える物であるなら、どれでも構わないということであった。


「早ぅ……煙草を嗜みたいのぅ…なぁ、淺水よ」


キセルを嗜む。

白い煙が世界に浮かんで消えていく。


全という個に呑まれていく。

個に張りつく全に失望していく。


そんな、本来課すことの赦されない事態我が儘に剣呑な表情を浮かべる。


この世界でキセルの煙に巻かれても、煙は一向に濃くならない。


それは、朱い狐に還るべき場所はもう無いとツげていた。




       *   *   *




 意識が覚醒すると、ベッドを囲むカーテンを開けた時点のままからの再開だった。


意識の空白に色が施されていく。

白紙は像を描き、色は認識を広げる。


目の前には見慣れた机。


そこには、整頓された書類とメルヘンな絵本が数冊置かれている。


花瓶には睡蓮の花を生けていて、安らぎを与える香りとして置いてある。


机の隅っこには点々と折り紙で折った手作りの鶴。

書類から離れた所には温かな純白のコーヒーカップ。


そして、お伽噺話に登場しそうなメルヘンチックに作られているクマとネコの愛らしいぬいぐるみ。


聞いた話しによるとこれも淺水先生の手作りである。


前にそう話す淺水先生を溺愛する女子生徒から、ぬいぐるみを抱きしめている淺水先生の写真を見せられたことがあったため、おそらく信憑性はある。


これらのどれもが、机上に置かれる淺水先生を象徴するようなモノだった。


「──お疲れ様、二間くん。とりあえず、そこに座って一息つきなさい」


だから、淺水先生がいるのは当然のことだった。


身体がすっぽり入る白衣。

飾り気のない清楚な眼鏡ごしから、優しい眼を覗かせる。


…安心した。

いつもの淺水先生だ。


淺水先生は片手に持っているコーヒーを俺のために作っていたのか、無言で俺に渡してきた。


ほどよい甘い匂いが流れてくる。

出来立てのコーヒーは先ほどまでの出来事を労ってくれているようだった。


俺は談話用のソファーに腰を掛ける。

ソファーの横には俺の鞄が置かれていた。


淺水先生も同じく、もう一つのソファーに腰を掛けた。


まず、何を話したものか。

聞くことはいっぱいあるけど、もう知識欲は空っぽだ。


頭に入る知識は限度を越えている。

だから、キュウテンが言っていた『忘れモノ』について聞くことに決めた。


「淺水先生、俺が忘れたモノって今持ってますか?」


本題に入るのに軽い世間話をしてからでも良かったのだが、どうやら俺は疲れていてそんな余裕もなく。


淺水先生はそのせいで出鼻を挫かれたように口元まで運んでいたコーヒーを飲もうとしてやめた。


「直球だね。私に対してまず、問い詰めてくると思ったよ」


淺水先生は、罰が悪そうにコーヒーを飲む。


どうやら、俺が淺水先生が精霊であることを隠していたことを追求してくるのかと思っていたらしい。


「それについては、驚きましたけど、淺水先生は淺水先生なので。そういうこともアリなのかなって自分勝手に納得したので問い詰めるなんてことはしないですよ」


本心を口にする。

べつに、驚くことはあっても追求することはない。


むしろ、心強い。

淺水先生が精霊なら百人力だと思う。


相談から他愛ない談笑までできる頼れる先生が、陰で人間を守っていたなんてカッコいいじゃないか。


淺水先生には、優しさや拠り所という面。

朗らかで親しみやすい言動や臨機応変な対応。


それが、目立つが。


その実、煙草を咥えてライターをつけるときのスマートさ。いわゆる、ギャップ。


表には出ない華麗さ、みたいなカッコいい大人の面もあるんだと思うと、余計魅力ある人だなと感じる。


正直に感想を言えば、新たな一面が見れて嬉しかっただけだった。


「…言い訳を考えていたけど、それを使わせないとは、二間くんやるね。…見直しちゃった」


気さくに応対する淺水先生。

コーヒーをテーブルに置き、両腕をVの字に曲げる仕草で淺水先生はこちらに物憂げな視線を送る。


「それと、いきなり連れ込んでしまってごめんね。あの手段が二間くんを守るのに最適だったの。

……おそらくだけど、あの手段をとらなければ恐ろしいことになっていたかもしれない」


言って、淺水先生は申し訳なさそうに表情を強張らせ、頭を下げて丁寧なお辞儀をした。


俺もつられて、こちらこそと、お辞儀をしかえす。


あの手段とは別世界への転移のことだろう。

それより、恐ろしいことってどういうことだよ。


「それって──」


言いかけて、淺水先生が首をふる。

それは喋ってはだめと伝えているようだ。


確か──あの世界であったことは黙っていないといけなかったんだった。


淺水先生とこの話題になるのもいけないのか。


「いえ、なんでもないです」


「そう?なら、早急に渡しちゃうね」


そう言って、淺水先生はダルダルの白衣の裾から何か黒い物を取り出す。


影で黒くなっているわけではない物は、淺水先生の片手に収まるほどの大きさだった。


ゴトッと、テーブルの上に重い音を鳴らして物は置かれる。


コーヒーの横には黒い鉄製の物。

あきらかな場違いな代物がそこにある。


それは、俺が星霊に襲われたときに精霊彼女が護身用に創ってくれた拳銃だった。


「拾ってくれて、いたんですか」


それは、最後まで握っていたはずのモノ。

消えてしまったかと勝手に思いこんでいたモノ。


「……これは未だ『役目』を果たしていない。いつか来るかもしれないそのときまで消えない代物。ともすれば、二間くんにとって大切なモノじゃないかな」


思えば、そうなのかもしれない。


これだけは離したくない。

そう、俺はずっと無意識に思っていたのだ。


今はそれが意識としてしっかりある。

なら、きっとそうなのだろう。


「もう、落とさないこと。今度は拾わないからね」


「──はい。ありがとうございます」


淺水先生は笑いかける。

俺は礼をして、拳銃を受けとった。


拳銃を手に取ってみれば、握ったときの感覚がまた蘇る。


そして、別の感覚も連なって、握る手のひらにこめられているのを感じた。


それは、誰が誰のためにこめられた意思だったか。

今では理解できた。


「なんか、闇取引の現場みたいですね」


鞄に拳銃を入れながら、軽い調子で言う。


「なんか、じゃなくて。全くもってその通りだよ」


淺水先生は客観的に感想を言い残し。

俺が慎重に拳銃をしまうところを優しい眼で眺めている。


「生徒の鞄を無断で見るのはいけないと思います」


「見てない、見てない。男子高校生の鞄の中身に興味があっただけで」


「それを、世間では未遂と言いいま─」


「──そろそろ、潮時だね。一時限目もじきに終わる頃合いだし。身体に不調がないなら、教室に戻ること」


淺水先生は急にすました声色で、話題を別方向に持っていく。


俺が問いただす視線を送り続けていると、白衣ごしの手つきで時計を指さしはじめる淺水先生。


仕方なく、時計を確認する。


言われた通り。

後数分で一時限が終わろうとしていた。


淺水先生はダルダルの白衣をふわりとなびかせ、立ち上がり。


膝下まである白衣は、スカートのような純真さで風をいなして談話用のソファーから立ち去る。


逃げる姿勢もさることながら、綺麗だった。


俺は淺水先生が用意してくれたコーヒーを飲みきってから、鞄を持ってソファーから立つ。


鞄は拳銃が入っているので、普段より重い。

まぁ、筋トレと考えればいいか。



 ひとまず。

これでいろいろと自分なりにだけど理解できた。


俺が星霊に襲われる可能性があること。

そうならないために、淺水先生と協力すること。


もし戦闘になったときは俺も闘うこと。

きっと、俺だけにしかできないことがあるはずだ。


そして、彼女の目的の『人間の悪性』の精霊を殺すこと。


「……」


俺は生きられるだろうか。

彼女と先生と協力して、これからの状況を覆せるのか。


──分からない。

けど、彼女がいる。


それだけで、ひどく目の前だけは静かだ。

あとは、そう。


闘う選択が間違いではないこと。

闘う決断が最適であること。


そう信じられること。

俺が俺を信じることだ。


もう、遠回りはしたくない。

俺は誰かの『支え』になれるはずなんだ。


「浮かない顔ね。授業が嫌なの?……当たり前か、学生だものね~」


知った風に淺水先生は口にする。

……否定はしない。


「ちょっと待ってて。保健室連絡票を職員室に届けてもらうから」


言って、淺水先生は書類を手に取り、もくもくとチェック事項欄を書き込んでいく。


待ち時間。

手持ち無沙汰で視線を保健室に巡らせるしかなかった。


見慣れた保健室を見る。

清潔性を至るところで主張する無地の壁。


壁を背にして置かれる薬品棚。

淺水先生の性格故であろう、包帯やらが几帳面に並べられていた。


だから、一つだけ妙に空いているスペースが気になる。


そういえば、気になると言えば一つ使っているベッドがあったな。


どうせ、稲神が使っているなんていうオチだろうけど。


一応聞いて見たくなってしまった。


「あの、そこのベッドってサボりの稲神が使ってるんですか?」


「……うん?稲神さんは放課後以外は……こな、いわけではないけど。今回は来てないよ。気になるの?」


ペンを唇の上にのせて、イタズラっぽく笑みを浮かべる淺水先生。


ニヤニヤするのが誰かさんに似ていて気づかず苦笑いをしていた。


「違います。稲神が気になるのではなく、そこのベッドの中身が気になるんです」


「…そういうことね。1人、二間くんの同学年で体調不良の子がいて、無理やり教室に行こうとしたから黙らせて休ませてるの」


「あっ──なるほど」


淺水先生は危機的状況に目ざとい。

精神的にも肉体的にも危険な状態であるのをすぐ見破る。


だから、危険だと言われても言うことを聞かない生徒にはベッドにくくりつけて拘束して休ませるのだ。


俺はまだされてないのだが、クラスの女子が拘束されてしまったらしく。


健康な食生活を送っていなかったのが祟って、立ち眩みを起こしたところを見られ。


平静を装ったが、問答無用でベッドに連行されたと聞いたことがある。


そのときの淺水先生の凶器的な眼差しがトラウマになり、以後、無遅刻無欠席の絶対健康主義の殿上人てんじょうびとが誕生したのは言うまでもない。


このことについて、後に淺水先生が言うには。


「命を粗末にする人は火だるまにでもなればいいと思うの」


と生気の抜けた死人のような笑顔で語った。


俺は縛りつけにされているであろうベッドの方へ、合掌をした。


「はい、これ」


ささっと書かれた綺麗な文字で詳細な状況まで書かれている保健室連絡票を受けとる。


「授業中じゃなくて、休み時間になるから自分の担任の先生に渡すこと。よろしくね」


頷いて。


「連日お世話になりました。失礼します」


お礼をして保健室から出ていく。

去り際、淺水先生を見ると、にこやかな笑顔で小さく手を振りながら俺を見送っていた。


「…また、放課後来てね」


その声を聞いて扉の前で振り向き。

丁寧にお辞儀をしてから保健室をようやく出た。


ガラガラと保健室の扉を閉めたと同時に、

キンーコンーカーンコーン、と終礼の鐘が虚しく廊下に鳴り響く。


職員室に行くのがめんどくさい、と思いながら目線を下から普段の位置に戻していく。


途中。

恐ろしい眼光と相対したが、無視をきめこむ。


中央階段へは数秒の内にたどり着ける。

二階に上がれば職員室は目と鼻の先。


階段へさっさと行こうと一歩踏み出す。


「…待ちなさい。二間トオルくん」


踏み出そうとした足の前に、細く引きしまった脚が出される。


その足を軸にして俺の歩みを防ぐように壁にもたれ掛かり、横目でじろりと俺を捕らえた。


「おっ……と」


圧倒され、半歩さがってしまう。


「無事ね。何かされていないようでよかった」


捕らえられた視線が解放される。

目蓋を閉じて、顔をくいっと階段の方へ向けると、


「謝罪するなら今のうちよ…」


西日柊佳は歩き出した。





       *   *   *




 淺水旭音は二間徹を見送ると、書類をいつも通り整理し終えて椅子から立った。


立ったということは、これから行動を起こすということだ。


しかし、いつもの行動……即ち。


好みのコーヒーブレンドを堪能するためではなく。

タバコに火をつけるわけでもなく。


使われたベッドを掃除するためでもない。


もちろん、几帳面であるから懇切丁寧に隅々まで掃除するつもりではあるが…


今は保健室の先生としての役割よりも重要なことがあった。


コトコトと、使われているベッドへ足を運ばせる。


足音は単調で自然に注意をひきつけ。

ベッドで寝ている少年に音だけで悟らせる。


ベッドを囲うカーテンを話しができる程度開き。

となりのベッドに腰を落とす。


「やっぱり起きてるね」


少年は天井を見たまま、寝ていた。


天井のシミの数でも数えていたのか、それとも別の何かを考えていたのか、真剣な顔つきをしている。


「眠れるわけないっすよ。めっちゃ、かち割れそうなくらい頭痛ひどいので」


冷静な声色で少年は自身の病状を語る。


「冷ましても頭痛薬でもダメとなると病院送りかな。私が治してあげてもいいけど、もっと荒治療になるから却下よね」


「はい。おかげさまで痛みにも熱にも慣れましたけど、淺水先生の治療は痛いで済まされるほど気持ち的に安くないんで。治療費が足りないってことで却下です」


少年はいたって真剣に断った。


淺水はどうかしらね?と返答をしてから長い脚をクロスさせ、質素な眼鏡を外す。


その動作を皮切りに淺水の雰囲気がさらさらした砂から、突如ざらざらした砂利という異物が混じったような雰囲気に変わった。


「君はどう動く?」


砂に紛れて落ちる砂利。

積もった砂は果たして波にさらわれるだろうか。


「……怖いっすよ。脅しは勘弁してください」


少年は言葉に流されまいと懸命に慎重に言葉を選ぶ。


「脅してなんかいないよ。警戒はするけどね」


「充分脅してますよね……分かります。……あぁ、捕まるとかほんと勘弁だ」


「君が熱中症を再発させたからでしょ。さすがの私でもは見逃せないから。要注意、ね」


「…しっとりした言い方で言わないでください。心臓に悪いっす」


少年は顔に汗を滲ませていた。


高熱が下がっていく兆候にみえるが。

少年はそんなモノではないと思った。


冷や汗というものだろう。

高熱を凌駕する本能の熱。


それが額にあらわれている。


「君は調査から外れた。二度の発症においても微弱な変化しか診られなかったから」


砂利は微かに海に流れた。


「一度目は準備。二度目は変動。三度目は奪胎だったい

一つ二つの段階で該当している箇所は血液の名残だけ。君は比較的薄い部類ね」


「……、──」


「そして、君は二度目で打ち止め。血はもう意思を宿していないからね。

祝福するべきか、憐れと言うべきか悩ましいよ」


少年は虚空を見つめる。

ざらざらとした砂利だけが流されていくのを見続ける。


「となると……君には姉と妹がいたね。上か下か、どちらかに変化している可能性が高い。

助けたお礼と思って話してくれないかな?」


少年は淺水の言葉を無視した。

そこまでの契約はしていない。


けれど、感謝をしているのは事実であった。


「だよね。じゃあ、私の任もここまでなわけだ。

あとは、主さまに任せるとしましょう」


砂利が浚われていく。

砂が浮き上がってくる。


淺水は眼鏡をかけ直し、いつもの立ち振舞いに戻っていく。


「病人なのに長話に付き合わせちゃってごめんね。お疲れ様。氷取り替えようか~」


「……はい。お願いします」


座礁した波のざわめきが少年から流される。


 スラスラと、船は海路を決めて海を走る。


海には浅瀬はなく、水ばかり溢れてくる一方。

塩の風は帆にへばりつき、傷口を舐めるように染み込んでゆく。


船の煙突からは白い煙。

煙は昇ることなく、横一直線に流れ、空に吸い込まれる。



その様子を、


───まるでタバコのようだと汽笛は微笑んだ。






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