水面下の白鳥

大饗ぬる

水面下の白鳥

 眺めていた、ずっと。

 散って舞った桜の花びらが水面に浮かんでいるのも、二人乗りのボートが進むことで池の水面が波打つのも。


 恋人同士でボートに乗るとナントカという噂があるのを二人は知っているのだろうか。


 青いリボンのついた麦わら帽子から艶やかに伸びる長い黒髪、きゃしゃな雰囲気を演出する白いワンピース、日焼け対策ですらおしゃれに腕を飾る黒いレースのアームカバーをしている。


 彼氏の方はというと、爽やかさを感じさせる水色のワイシャツにベージュのチノパン。



 長い時間見ていたように思う。

 彼女は笑っているのだろうか。

 ときたま、麦わら帽子が揺れていた。

 彼女は幸せなのだろうか。

 軽く彼の腕に触れるところを見た。


 別れたこと自体は後悔していない。

 どうしようもなかったと思う。

 環境や仕事のせいにはしたくないけど、そういったものもやはり決別の原因にはなったと言わざるを得ないんだろう。



 別れたのは一年前の今日。

 たまたま通りすがった公園の池の上に彼女の姿を見つけた。

 自分の姿を見られたくない、そう考え近くにあった大木の陰に隠れた。


 けれど、それはあまりに自意識過剰。

 彼女は目の前にいる彼氏以外は眼中にないみたいだった。


 そうわかってしまうと、彼女の様子を知りたくなった。

 堂々とベンチに座り、池の様子をつぶさに見ることにする。


 人間っていうのはいつでもないものねだりだ、と一人苦笑した。


 触れられるほど近くにあるときは気づかない、永遠に続くものだと盲目する。

 視線すら簡単に届かない距離になって、初めて失ったのだと気づく。


 時間にすると三十分、あるいは十五分程度だったかもしれない。

 けれど、とても長く感じた。


 ただ見ているだけの何も生まれたりはしない不毛な時間。

 決意するには十分すぎる時間だった。


 彼女を恋香(れんか)を奪おう。

 もう一度自分の腕の中に。


 恋香たちがボート乗り場に帰ってくるより速く、先回りしておかなければいけない。

 ベンチから立ち上がると、耳を隠す髪を撫でつけ、ジーンズのベルトをしっかりと締めなおし、Tシャツのよれを直す。

 身だしなみを整え終えた。


 さあ、走るぞ!



 *****


 眺めていた、ずっと。ボート乗り場から彼とボートに乗ろうとしたときから。

 見つけてしまった、今日という日に。昔の恋人の姿を。


 けど気づかない。


 彼が先にボートに乗り、私の手を取って乗せてくれた。

 ボートが揺れて思わず「きゃっ」と声が出た。

 そんな姿を見てめぐるは笑う。


 めぐるとはまだ知り合って日が浅い。

 数ヶ月前に共通の友人を通じて知り合った、それぐらいの仲。


 ある集まりで、私があの公園のボートに乗りたいと話していたら「連れてってあげるよ」と声をかけてくれたのが隣にいるめぐるだった。


 でもきっと私たちはカップルだと思われているんだろう。

 お互い特定の相手はいなかったし、問題はない、はずだった。


 視線を感じる。

 きっと私の姿を見つけて見ている。


 誕生日にもらった麦わら帽子。

 リボンは付け替えたけど、まだ大事にしているなんて女々しい私。

 別れを切り出したのは私の方だっていうのに。


 環境が悪かった。

 仕事が悪かった。


 同じ職だったのに相談もなく辞めたのは、恋人の夢の邪魔をしたくなかったから。

 せっかく念願かなって勤めることができたアパレル関係の会社を、私のことで悪くいわれリストラにあいそうになっているのを知ってしまったから。

 ただ私が辞めるだけでそれを防げるならなんてことなかった。


 それが原因で別れることになるなんて思っていなかったけど、それも良かったのかもしれない。

 そのあと、店長に抜擢されたなんていう吉報が私の耳にも届いたのだから。


 めぐるが私の名前を呼ぶ。「恋香、恋香」と。

 「恋香もオールで漕いでみない?」と。


 私は目の前にいる相手のことを考えず、過去にふけっていたことを申し訳なく思い、提案に乗った。

 オールは思っていたよりもずっしりとくる重さがある。

 いや、私が非力なだけなのかもしれない、と思い直す。


 それぞれオールを左右の手で握ったまま、見よう見まねで漕ぎだしてみる。

 水の抵抗を感じた。

 感じた分だけボートは進んだ。


 私の力でボート乗り場へと戻っていく。


 *****


 恋香を待っていた。

 ボートに乗る恋香たち二人より早くたどり着けたものの、何年振りかわからない全力疾走による酸素不足に陥っていた。


 肺も呼吸をするたび軋むような気がする。

 両手を膝について体を折り曲げた状態で息をした。

 足りなくなった酸素をどうにか取り込む。


 落ち着いてきたとほっとしたところ、唾液が気管に入り思い切りむせた。


「げぇほっ、げほっげふ……げは」


 涙目になりながらも顔を上げると、ボートを漕ぐ恋香の後ろ姿が見えた。

 おそらく自分がここにいることには気づいてはいないだろうと思う。

 気づかないでくれと相反した気持ちも出てきそうになった。


 そんな弱気じゃだめだと顔を両の手で挟むように二度叩いた。


 そうしている間にも恋香が乗ったボートは岸に近づいてくる。

 降りて数歩、歩き始めたところが狙いどころだ。


 降りてすぐは池に落ちる危険があるし、だからといってボート乗り場から公園に戻ってきたところでは奇襲の効果が薄い気がしている。


 杞憂かもしれない。

 そもそも成功しないかもしれない。

 成功したところで、恋香は快く迎えてくれるだろうか?


 いや、そういったことはどうでもいい。

 今は欲望の本能の化身でしかない。

 ただ恋香を手に入れたい、腕の中に抱き留めたい、それだけだ。


「ありがとうございました」


 恋香の声が聞こえた。

 しまった、考えに浸りすぎたか。


 ボート乗り場のおじさんにお辞儀をする後姿が見える。

 反射的に走り、腕を掴んだ。

 ちょっと力加減がうまくできず、痛い思いをさせたかもしれない。


 そして……走った。


 わけのわからない顔をした恋香。

 何かを大声でいっている彼氏。

 知るもんか!


「え? なに? なに??」


 答えられない。

 なんて返事をすればいいのかわからなかったからだ。


 周りの人が何事かと走っている二人に視線を向ける。

 恥ずかしそうに顔を赤く染める恋香。


「ちょっと待って、待ってってば。あきら止まって!」


 強い口調に、恋香の腕を掴んだまま止まった。


「どうして――」


「ごめん!!」


 恋香の言葉を遮るように頭を下げて謝った。

 頭を下げたまま硬直する。


「どういうこと? 説明してくれる?」


 さっきとは変わって優しい言葉で恋香は聞いた。


「れ、恋香の姿を見つけて……それで、えっと、居ても立っても居られなくなって、彼氏から奪おうと……」


 自分でも弱々しいとしか思えない声で自己満足な理由を恋香はどう思っただろう。


 恋香が吹き出すように笑い声をあげて笑った。

 どうしてかわからず、下げたままだった頭を上げて恋香を見る。


「奪うもなにも、私あの人のものじゃないよ。ただの友達」


「あ、ええと、そうなんだ……」


 顔を真っ赤にしてしどろもどろになるしかなかった。

 呼吸も変に乱れてきて大きな胸が上下に揺れる。


「でも、ありがとう」


「え?」


「まだ、あきらが私のこと気にしてくれていてうれしかった」


「それは当然だよ。だってあたしまだ恋香のこと大好きだし……」


「なら、今からデートする?」


「するする!」


 小悪魔的な笑顔を浮かべる恋香を見てやっぱり好きだなぁと思う。


「じゃあ、腕じゃなく手をつなごうよ」


「あ、ごめん。痛かった?」


「大丈夫だよ」


 恋香と二人、手をつないでもう一度ボート乗り場へと向かった。

 そこにはあの彼の姿はない。


「あとで連絡しておくから、あきらは気にしなくて大丈夫だよ」


「うん、それもだけど、さっき恋香はボートに乗ってたのにもう一回乗るの?」


「だって、私が乗りたかったのって足漕ぎのスワンボートだし」


「ああ、恋香好きそうだよね。……麦わら帽子、似合ってるよ。ブルーもいいね」


「うん、だって選んでくれた人がデザイナーの卵だからねっ」


「残念、もう卵じゃないんだ」


「本当に? おめでとう!」


「ううん、そうじゃなくて、デザイナーは後輩に託すことにしたの。今は小さなアパレルショップの店長だよ。会社を興したんだ」


「わあ、すごいね。今度行ってもいい?」


「当然」


 二人は手を取り合いはしゃいだ。


「あのー、ボートには乗らないのかい?」


 和やかな空気を壊すのを申し訳なさそうな様子でおじさんが声をかける。


「あ、ごめんなさい。乗ります。今度はスワンボートで」



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